ねじれの位置の恋人 ~世界でたったひとり、出会ってはいけなかった人~

 前任者、つまり私が不適合な理由が書かれた交代依頼書を係長から見せられた七海は、あまりにも不当な理由に腹が立った。
 
「無断欠勤は体調不良で倒れた一日だけです。遅刻早退はありません」
「だが、無断欠席はしたのだろう?」
 ニヤニヤと笑いながら答える係長に七海は奥歯をグッと噛み締める。

「データの改ざんを行ったこともありません!」
「フォーマットすら正しいものが使えない無能な奴に派遣費を払うのもねぇ」
「フォーマットは係長が」
「俺のせいにするのか!」
 この人、最悪だ。
 このために今まであれこれ嫌がらせをしていたんだ。
 交代の理由を作るために。

「来月から新しい子が来るから、荷物を片付けておけよ」
 来月って、4日後?
 派遣会社の担当も、私に何も教えてくれないなんて。
 
『我慢せずにハッキリ言ってやれ!』
 佐野の言葉を思い出した七海は、首から下げた従業員証を取り、係長の机の上に静かに置いた。

「お世話になりました。本日の午後から今月末まで有給にさせていただきます」
「はぁ? そんなもの使えるはずが」
「労働基準法で認められている権利です」
 10日間有給の取得が可能なのに、今まで1日しか休みをもらえなかった。
 もうクビが決まっているなら使ったっていいだろう。

「本日締め切りの書類は、昨日までに各担当者に送付が終わっています。他に抱えている今月中の書類はありません」
 では失礼しますと七海は自席に戻った。
 
 お昼休みまであと10分。
 勤怠の入力と有給申請をして、メールは自動応答で退職しましたと送るように設定をしておいた。
 お昼休みを告げる音楽が鳴り、みんなチラチラと七海を気にしながら食堂に移動していく。
 七海は少ない私物を片付け、会社をあとにした。

「あっけないな」
 あんなに仕事をがんばったのに、おまえの代わりはいくらでもいるんだぞと言われた気分だ。
 少しでも早く、見やすい資料を心掛けて作ったのに。

「……どうして」
 どんどん視界が歪んでくる。
 おんぼろアパートに帰るまで我慢しないといけないのに。
 こんな場所で泣いてはダメだとわかっているのに涙は止まりそうにない。
 
 七海は荷物で泣き顔を隠しながら電車に乗った。
 昼間は電車が空いているからよかった。
 隣に人がいなくてよかった。
 七海は電車を降りると、どこにも寄り道をすることなく、うす暗くて寒くて狭いおんぼろアパートに戻り、布団の中でしばらく泣き続けた。
 

 翌日、派遣会社の担当から電話をもらった七海は、担当の対応に呆れてしまった。
 有給申請をした月末までの残りの日は、自己都合による欠勤扱いにするので給料は払わないと。
 もう新しい仕事を斡旋することはないと言われた七海は、私も頼む気はありませんと電話を切った。

「早く次の仕事を探さないと」
 貯金はない。
 失業保険ってすぐにはもらえないんだっけ?
 
 新しい派遣会社に登録し、斡旋が来るまで働ける短期のアルバイトを探す。
 偶然見つけた駅前のパン屋は、骨折してしまった奥さんの手首が治るまでの短期。
 早朝6時から13時までの勤務で、前日に売れ残ったパンをもらって帰っていいという嬉しいサービス付きだった。