もう係長は来ないだろうと思っていた七海は、翌朝、店長から言われた言葉に息が止まりそうだった。
「バイト終了、ですか?」
「うん、ごめんね。七海ちゃん」
「昨日、騒ぎを起こしたからですか?」
「夕方、またその人が来てね。七海ちゃんを出せって大騒ぎだったんだ」
幸い閉店間際の時間帯でお客さんはいなかったと店長は昨日の様子を説明してくれる。
係長は社会人としての最低限のマナーを俺が教えてやると大きな声で騒いだそうだ。
お酒も飲んでいたのではないかと。
「お店に被害は?」
「警察を呼ぶと言ったら逃げて行ったから、大丈夫だったけれど」
「警察……」
そんなに騒いだんだ。
七海は唇を噛みながら俯いた。
「七海ちゃんが店番をしてくれて本当に助かったよ。そろそろ妻も怪我が治ってきたし」
そうだよね。もともと怪我が治るまでの短期だったのだから、数日から一週間早くなっただけだ。
「お世話になりました」
七海はペコリとお辞儀をした。
「いろいろな種類のパンの名前も覚えられたし、常連さんたちにおいしい食べ方も教わることができたし、働けてよかったです」
ご迷惑をかけてすみませんと七海は謝罪する。
昨日までの給料と、今日は余りものではない焼き立てのパンをもらった七海はパン屋をあとにした。
紙袋の中にはお店で一番人気で予約しないと買えないパン・ド・ミ、皮がパリッとしていておいしいバタール、サクサクのクロワッサンにエピ、チーズフランス。
どれもお店の看板商品だ。
「……こんなに食べきれないですよ、店長」
できればもう少しだけ働いていたかったな。
奥さんの怪我がちゃんと治るまで。
派遣もクビ。パン屋もクビ。
私、何ができるんだろう……?
七海は良い匂いがするパンを大事に抱えながら、大和のマンションに戻った。
「パン屋はどうした?」
当然、こんなに早い時間に帰った七海は、大和にツッコまれた。
「えっと、奥さんの骨折が治ったので、バイトが終了に」
「昨日はそんなこと言っていなかったが?」
「あ、えっと、そう……ですね?」
今朝パン屋に行ったらクビでした。なんて言えるわけがない。
「今日、お給料と焼き立てのパンをもらったんです! 朝食がまだだったら、一緒にどうですか?」
七海は袋からパンを取り出し、ダイニングテーブルに並べる。
「このパン・ド・ミが人気ナンバーワンで、私も食べたことがなくて。他のパンも全部看板商品で」
七海は「いい匂い」と誤魔化す。
大和は呆れたような顔をしたが、詳しくは聞いてこなかった。
「パン・ド・ミを」
「はい! すぐ焼きますね」
七海は角型のパン・ド・ミを切り分け、トースターへ。
香ばしい匂いはパン屋と同じ匂いで、七海は少し寂しかった。
「うまいな」
「ですよね! 予約もすぐいっぱいになっちゃうんですよ!」
「近くにこんなうまいパン屋があるって知らなかったな」
数年間、損をしていたと言いながら、がぶっとパンに噛り付く大和の食べ方は、お世辞でおいしいと言っているわけではないとわかる。
あぁ、やっぱりもう少しだけあのパン屋で働きたかったな。
七海はパン・ド・ミの柔らかい部分に噛り付きながら、「おいしい」と微笑んだ。
◇
七海がいなくなったパン屋のレジには、手首にサポーターをした中年女性が座っていた。
焼き立てのパンを奥から運んだ男性が棚に並べて戻っていく。
怪我のせいなのか、店はレジ待ちが発生していた。
「お待たせしました。どのパンに……」
「弁護士の佐野大和です。斎藤七海の件について、お話をうかがっても?」
スーツ姿の大和は、客が捌けたパン屋で名刺を差し出しながら、店主がいそうな奥に視線を向けた。
「バイト終了、ですか?」
「うん、ごめんね。七海ちゃん」
「昨日、騒ぎを起こしたからですか?」
「夕方、またその人が来てね。七海ちゃんを出せって大騒ぎだったんだ」
幸い閉店間際の時間帯でお客さんはいなかったと店長は昨日の様子を説明してくれる。
係長は社会人としての最低限のマナーを俺が教えてやると大きな声で騒いだそうだ。
お酒も飲んでいたのではないかと。
「お店に被害は?」
「警察を呼ぶと言ったら逃げて行ったから、大丈夫だったけれど」
「警察……」
そんなに騒いだんだ。
七海は唇を噛みながら俯いた。
「七海ちゃんが店番をしてくれて本当に助かったよ。そろそろ妻も怪我が治ってきたし」
そうだよね。もともと怪我が治るまでの短期だったのだから、数日から一週間早くなっただけだ。
「お世話になりました」
七海はペコリとお辞儀をした。
「いろいろな種類のパンの名前も覚えられたし、常連さんたちにおいしい食べ方も教わることができたし、働けてよかったです」
ご迷惑をかけてすみませんと七海は謝罪する。
昨日までの給料と、今日は余りものではない焼き立てのパンをもらった七海はパン屋をあとにした。
紙袋の中にはお店で一番人気で予約しないと買えないパン・ド・ミ、皮がパリッとしていておいしいバタール、サクサクのクロワッサンにエピ、チーズフランス。
どれもお店の看板商品だ。
「……こんなに食べきれないですよ、店長」
できればもう少しだけ働いていたかったな。
奥さんの怪我がちゃんと治るまで。
派遣もクビ。パン屋もクビ。
私、何ができるんだろう……?
七海は良い匂いがするパンを大事に抱えながら、大和のマンションに戻った。
「パン屋はどうした?」
当然、こんなに早い時間に帰った七海は、大和にツッコまれた。
「えっと、奥さんの骨折が治ったので、バイトが終了に」
「昨日はそんなこと言っていなかったが?」
「あ、えっと、そう……ですね?」
今朝パン屋に行ったらクビでした。なんて言えるわけがない。
「今日、お給料と焼き立てのパンをもらったんです! 朝食がまだだったら、一緒にどうですか?」
七海は袋からパンを取り出し、ダイニングテーブルに並べる。
「このパン・ド・ミが人気ナンバーワンで、私も食べたことがなくて。他のパンも全部看板商品で」
七海は「いい匂い」と誤魔化す。
大和は呆れたような顔をしたが、詳しくは聞いてこなかった。
「パン・ド・ミを」
「はい! すぐ焼きますね」
七海は角型のパン・ド・ミを切り分け、トースターへ。
香ばしい匂いはパン屋と同じ匂いで、七海は少し寂しかった。
「うまいな」
「ですよね! 予約もすぐいっぱいになっちゃうんですよ!」
「近くにこんなうまいパン屋があるって知らなかったな」
数年間、損をしていたと言いながら、がぶっとパンに噛り付く大和の食べ方は、お世辞でおいしいと言っているわけではないとわかる。
あぁ、やっぱりもう少しだけあのパン屋で働きたかったな。
七海はパン・ド・ミの柔らかい部分に噛り付きながら、「おいしい」と微笑んだ。
◇
七海がいなくなったパン屋のレジには、手首にサポーターをした中年女性が座っていた。
焼き立てのパンを奥から運んだ男性が棚に並べて戻っていく。
怪我のせいなのか、店はレジ待ちが発生していた。
「お待たせしました。どのパンに……」
「弁護士の佐野大和です。斎藤七海の件について、お話をうかがっても?」
スーツ姿の大和は、客が捌けたパン屋で名刺を差し出しながら、店主がいそうな奥に視線を向けた。



