その夜、リリアンは一人、執務室のバルコニーに立っていた。
皇帝の求婚。アークライトの臨時首都化。
あまりにも現実味のない出来事が、一気に押し寄せている。
眼下に広がるアークライトの夜景は、リリアンたちが10年かけて灯した、ささやかな希望の光だ。
この光を、守りたい。
カイゼルの手を取れば、この光は、帝国全土を照らすほどの、巨大な輝きになるのかもしれない。
「……姉さん」
背後で声がした。 振り向くと、アッシュが立っていた。
「こんな時間に、どうしたの。アッシュ」
「……眠れなかった。姉さんが、あいつと……」
アッシュは、リリアンから数歩、離れた場所で、立ち尽くす。 その拳は、白くなるほど、固く握りしめられていた。
「考えてみたの。私、家のために結婚するのが当然って価値観で育ってて……だから私、最初から愛なんて、人生に求めてない。愛されることは、諦めたの。……でも、私が皇帝と結婚すれば、みんなが」
「ふざけるな!」
アッシュの絶叫が、夜の静寂を切り裂いた。
「姉さんの犠牲で、手に入れた未来に、何の意味があるんだ!」
アッシュが、数歩でリリアンとの距離を詰める。 その空色の瞳が、激情に揺れていた。
アッシュは、リリアンの両肩を、強く掴んだ。
「皇帝から恵まれた自治なんていらない! そんなもの、全部いらない! 姉さんだけいればいい!」
「アッシュ……?」
「俺が10年前、この土地に流れてきた時……それまでの自分を全部否定されて、生きる意味なんて、分からなくなってた」
アッシュの声が、震える。
「ただ、息をしているだけだった。明日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。もう生きていたくなんかないのに、自らを刺す気力さえ出ない。……でも、姉さんが、来てくれた」
アッシュの瞳が、リリアンを、真っ直ぐに射抜く。その熱に、リリアンは身動きができなかった。
「姉さんは、あの乾いた井戸を、たった一人で掘り始めた。みんなが、馬鹿にした。俺も最初は、バカだって思った。……でも、違った」
アッシュの指先に、力がこもる。
「姉さんだけが、諦めなかった。血豆だらけの手で、毎日、毎日、採掘して。 ……土埃の中で、汗まみれのその横顔が、……綺麗で、眩しくて、……俺は、あの瞬間から、姉さんから、目が離せなくなったんだ。明日もまた、姉さんに会いたい。笑った顔が見たい。そう思ったら、もう、死にたくなんて、なかった。だから……愛されることを諦めるなんて、言うなよ」
「……昔の話よ」
「違う。今の、俺の話だ。……愛してる。10年間、毎分毎秒、ずっと」
アッシュが、強くリリアンを抱きしめた。いつの間に、こんな大きくなっていたのだろう。
「今だって、そうだ」
アッシュは、絞り出すように、言葉を紡いだ。
「あなたがいるから、生きたいって、思えるんだ」
何を言っていいのか、分からなかった。アッシュはリリアンの中で、ずっと可愛い弟分だった。前世の記憶がうっすらとでもあるぶん、年齢よりも大人びていたリリアンにとって、守るべき対象だった。
「アッシュのことは……好きよ。でも……ごめんなさい、私、貴方に恋は……できないと思う」
「……いいよ、分かってたし、今はそれで。いつか、姉さんの隣に立てる男になりたいって、努力してきた……。いつか、弟じゃなく、一人の男として、姉さんを守れるようになりたいって。だから」
アッシュが、リリアンを抱きしめていた腕を緩めた。
「これからは俺が男だって、覚えててね」
泣きそうな顔で笑って、アッシュは出ていった。
◇
翌日。
リリアンは自由区舎の食堂で、美しい細工の施された、ダイヤモンドのネックレスを手に、途方にくれていた。
(……モテ期って、人生で一度は来るものなのね)
リリアンには、息が詰まりそうになると、下らない思考を巡らせるクセがある。
しかし、現実逃避しても、問題は変わらない。
――アッシュのことも頭が痛いが……目下の問題は、この、ダイヤのネックレスだ。
宝石自体の大きさを誇示するような、けばけばしいデザインではない。リリアンが派手な装飾を好まないことを、見抜いた上での選択。
けれど、その精緻さは、もはや芸術品の域に達していた。
台座となっているのは、決して曇ることのないプラチナ。そこには、ひと目で最高位の職人によるものと分かる、神業的な透かし彫りで、繊細な葉と蔦の文様が施されている。トップに据えられた一粒のダイヤモンドは、どこまでも透明な青白い閃光を、内側から放っている。
食堂に、カイゼルが現れ、向かいの席に座った。
なぜか最近カイゼルは、リリアンと昼食を共にしたがる。
「……陛下。こちらの贈り物……お気持ちはありがたく存じますが……私には、過分な品かと」
できるだけ失礼にならないように……贈り物を返すこと自体が失礼であることは重々承知だ……ネックレスを箱に入れ、カイゼルへ向けて、机の上を滑らせた。
「なぜだ。その装飾品の金銭的価値は、このアークライトの一年分の予算に匹敵する。貴方の『価値』に、見合うはずだ。貴方が好むと思い、葉の文様にしたのだ。貴方以外、これを身につけられる者はいない」
カイゼルが、リリアンのほうへ、ネックレスを突き返す。
「お気持ちだけ、いただきます」
机の上を、行ったり来たりするネックレス。
カイゼルの紫水晶の瞳が、不可解そうに揺れた。
「……仮説を、修正する」
◇
さらに翌日。
カイゼルが次に贈ってきたのは、帝国の高名な魔導士が、何日もかけて織り上げたという、虹色に輝くドレスだった。
「……陛下。このような華やかな服は」
「これは、あらゆるスキル攻撃を無効化する、最高の防御性能を持つ礼装だ。貴方の安全を保障する。……貴方には敵も多いだろう、着ていてほしい」
「私は、戦場には赴きません。農地を歩き回る私には、こういう丈夫な木綿の服が、一番です」
もうなりふり構わず、リリアンは再び、贈り物を突き返した。
「……仮説を、修正する」
アッシュとギデオンは、その様子を遠巻きに見て、腹を抱えて笑っていた。
「ざまあみろだ、氷帝様!」
「ぜんっぜん、分かってねぇのな!」
皇帝の求婚。アークライトの臨時首都化。
あまりにも現実味のない出来事が、一気に押し寄せている。
眼下に広がるアークライトの夜景は、リリアンたちが10年かけて灯した、ささやかな希望の光だ。
この光を、守りたい。
カイゼルの手を取れば、この光は、帝国全土を照らすほどの、巨大な輝きになるのかもしれない。
「……姉さん」
背後で声がした。 振り向くと、アッシュが立っていた。
「こんな時間に、どうしたの。アッシュ」
「……眠れなかった。姉さんが、あいつと……」
アッシュは、リリアンから数歩、離れた場所で、立ち尽くす。 その拳は、白くなるほど、固く握りしめられていた。
「考えてみたの。私、家のために結婚するのが当然って価値観で育ってて……だから私、最初から愛なんて、人生に求めてない。愛されることは、諦めたの。……でも、私が皇帝と結婚すれば、みんなが」
「ふざけるな!」
アッシュの絶叫が、夜の静寂を切り裂いた。
「姉さんの犠牲で、手に入れた未来に、何の意味があるんだ!」
アッシュが、数歩でリリアンとの距離を詰める。 その空色の瞳が、激情に揺れていた。
アッシュは、リリアンの両肩を、強く掴んだ。
「皇帝から恵まれた自治なんていらない! そんなもの、全部いらない! 姉さんだけいればいい!」
「アッシュ……?」
「俺が10年前、この土地に流れてきた時……それまでの自分を全部否定されて、生きる意味なんて、分からなくなってた」
アッシュの声が、震える。
「ただ、息をしているだけだった。明日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。もう生きていたくなんかないのに、自らを刺す気力さえ出ない。……でも、姉さんが、来てくれた」
アッシュの瞳が、リリアンを、真っ直ぐに射抜く。その熱に、リリアンは身動きができなかった。
「姉さんは、あの乾いた井戸を、たった一人で掘り始めた。みんなが、馬鹿にした。俺も最初は、バカだって思った。……でも、違った」
アッシュの指先に、力がこもる。
「姉さんだけが、諦めなかった。血豆だらけの手で、毎日、毎日、採掘して。 ……土埃の中で、汗まみれのその横顔が、……綺麗で、眩しくて、……俺は、あの瞬間から、姉さんから、目が離せなくなったんだ。明日もまた、姉さんに会いたい。笑った顔が見たい。そう思ったら、もう、死にたくなんて、なかった。だから……愛されることを諦めるなんて、言うなよ」
「……昔の話よ」
「違う。今の、俺の話だ。……愛してる。10年間、毎分毎秒、ずっと」
アッシュが、強くリリアンを抱きしめた。いつの間に、こんな大きくなっていたのだろう。
「今だって、そうだ」
アッシュは、絞り出すように、言葉を紡いだ。
「あなたがいるから、生きたいって、思えるんだ」
何を言っていいのか、分からなかった。アッシュはリリアンの中で、ずっと可愛い弟分だった。前世の記憶がうっすらとでもあるぶん、年齢よりも大人びていたリリアンにとって、守るべき対象だった。
「アッシュのことは……好きよ。でも……ごめんなさい、私、貴方に恋は……できないと思う」
「……いいよ、分かってたし、今はそれで。いつか、姉さんの隣に立てる男になりたいって、努力してきた……。いつか、弟じゃなく、一人の男として、姉さんを守れるようになりたいって。だから」
アッシュが、リリアンを抱きしめていた腕を緩めた。
「これからは俺が男だって、覚えててね」
泣きそうな顔で笑って、アッシュは出ていった。
◇
翌日。
リリアンは自由区舎の食堂で、美しい細工の施された、ダイヤモンドのネックレスを手に、途方にくれていた。
(……モテ期って、人生で一度は来るものなのね)
リリアンには、息が詰まりそうになると、下らない思考を巡らせるクセがある。
しかし、現実逃避しても、問題は変わらない。
――アッシュのことも頭が痛いが……目下の問題は、この、ダイヤのネックレスだ。
宝石自体の大きさを誇示するような、けばけばしいデザインではない。リリアンが派手な装飾を好まないことを、見抜いた上での選択。
けれど、その精緻さは、もはや芸術品の域に達していた。
台座となっているのは、決して曇ることのないプラチナ。そこには、ひと目で最高位の職人によるものと分かる、神業的な透かし彫りで、繊細な葉と蔦の文様が施されている。トップに据えられた一粒のダイヤモンドは、どこまでも透明な青白い閃光を、内側から放っている。
食堂に、カイゼルが現れ、向かいの席に座った。
なぜか最近カイゼルは、リリアンと昼食を共にしたがる。
「……陛下。こちらの贈り物……お気持ちはありがたく存じますが……私には、過分な品かと」
できるだけ失礼にならないように……贈り物を返すこと自体が失礼であることは重々承知だ……ネックレスを箱に入れ、カイゼルへ向けて、机の上を滑らせた。
「なぜだ。その装飾品の金銭的価値は、このアークライトの一年分の予算に匹敵する。貴方の『価値』に、見合うはずだ。貴方が好むと思い、葉の文様にしたのだ。貴方以外、これを身につけられる者はいない」
カイゼルが、リリアンのほうへ、ネックレスを突き返す。
「お気持ちだけ、いただきます」
机の上を、行ったり来たりするネックレス。
カイゼルの紫水晶の瞳が、不可解そうに揺れた。
「……仮説を、修正する」
◇
さらに翌日。
カイゼルが次に贈ってきたのは、帝国の高名な魔導士が、何日もかけて織り上げたという、虹色に輝くドレスだった。
「……陛下。このような華やかな服は」
「これは、あらゆるスキル攻撃を無効化する、最高の防御性能を持つ礼装だ。貴方の安全を保障する。……貴方には敵も多いだろう、着ていてほしい」
「私は、戦場には赴きません。農地を歩き回る私には、こういう丈夫な木綿の服が、一番です」
もうなりふり構わず、リリアンは再び、贈り物を突き返した。
「……仮説を、修正する」
アッシュとギデオンは、その様子を遠巻きに見て、腹を抱えて笑っていた。
「ざまあみろだ、氷帝様!」
「ぜんっぜん、分かってねぇのな!」
