「な、何で……お風呂?」
 二〇四号室の住人――羽山氷は、突然尋ねた後川陣(うしろがわじん)に怪訝そうな表情を向けながら首を傾げた。

 彼女の胸元まである茶髪がさらりと揺れ、長い睫毛が扇のように瞬く。いつか部活帰りに見た彼女は暗い表情で近寄りがたい雰囲気を醸していたが、こうして対面で会話をしてみると、寧ろその声のトーンの低さや気だるげな感じには親近感が持てた。

 陣は相手のテリトリーに招かれたことで緩めてしまっていた緊張の糸を結び直し、「その……」と始めた。

「給湯器が壊れたんです」
「ああ、うん。そうなんだ」
「俺、野球部で」

 うん、と氷が真剣な顔で相槌を打つ。
 陣は口を開く前に湧き上がってきた羞恥心を手の平で握り潰して眉根を寄せた。

「このまま学校に行ったら、……臭いかなと思って」

 陣の言葉を聞いた氷は呆けたように口を半開きにした。
 勇気をもって打ち明けた理由に反応が無いと、ますます恥ずかしい。陣は言ったことを後悔しながら上目で氷の様子を窺った。 

 彼女は自分の腕に鼻を近付けてスンスンと匂いを嗅いでいた。次いで脇を上げたり、横髪を掬ってみたり。そしてようやく陣を見て「私も臭いかな……?」と軽く絶望したような顔で尋ねた。

 眉根を寄せながら眉尻を下げる器用な形相をした陣が、氷からの質問に答えるためにテーブルのほうに上半身を傾ける。ピンと背筋を伸ばしていた氷が慄いたように後退るので、陣が追うために体を伸ばすと彼女は腕を突っ張り陣の顔面を両手で覆った。

「だめ、こっちこないで」
 恥ずかしがりながら拒絶を示す氷に、陣は顔に貼り付いた小さな手を剥しながら「全然そんなことないっすけど」と呟き頬を掻く。
「で、その……」
 そんなことより風呂なのだ。

 切り出そうとした陣に、氷は察しよく頷いた。
「いいよ、それなら。お風呂好きに使ってもらって」
「あ、……あざっす!」
 氷の許しに陣が目を輝かせると、彼女は垂れ気味の目を細めて「でもね」と続けた。
 え? と瞬きを止める陣。

 氷は彼を見据えていやらしく口角を上げ、
「私をお風呂に入れてほしいの」
 と胸の前で手を合わせた。

「ええと、それは、どういう……?」
 ――風呂場まで運べってことか? 掃除をしてほしい? 湯舟を溜めてほしい? もしかして何かの隠喩か?
 氷の不可思議な一言によって脳の空き容量が謎かけの解読に使われ始めた陣が額を押さえると、氷は柔和な笑顔でそれを眺めて「そんなに難しいことじゃないよ」と声色を明るくした。

 そして、
「一緒にお風呂に入ってほしいの」
 そう、お願いした。

 陣はぶわっと目を膨らませる。
「え……?」
「だからね、お風呂貸してあげるから私も一緒に入れてって言ってるの」
「……からかってます?」
「ううん。だってきみだけにメリットがあるのはずるいよね? お風呂を貸す私にもメリットが無いと」
 はっきりとした口調に気圧される。
 悔しいが納得できる理屈だ。
 陣は唇を噛んで目を伏せた。

「どうせ入るなら一人も二人も同じでしょ?」
「風呂場の容量的にはそうかもしれないすけど……」
「服は自分で脱ぐよ」
「当たり前じゃないですか何で俺がそんなことまで……って。え、裸?」
「そうじゃない? お風呂入るときって普通」
 何でもないふうに返す氷に、陣は心の叫びを喉の奥に押し込んで目尻を吊り上げた。

「俺、未成年っすけど」
「あ、もしかして変なこと考えてる?」
 ナイナイ、と氷は手を振った。
「そういう気無いから全然。本当にただ一緒に入ってほしいだけなんだよ」
 陣はまだ疑り深い目で彼女を見た。
 隣人が痴女かもしれない線は簡単には消えない。
 しかし風呂に入れないのは困る。というか――。

「何で一緒に?」
 陣の真っ当な問いに、氷はしばし考えてふうと息を吐いた。

「一人じゃ入れないから、だよ」





 ザアザアと、シャワーヘッドから線上の湯が落ちてくる。
 坊主は洗うのが楽でいい。
 シャンプーの泡を流して正面の鏡を見ると、その中には、湯船に浸かり湯気に包まれている女性の輪郭があった。夢じゃない。陣は頬を叩かれたように顔を背けた。

「はあ、いーいきもちー」

 浴槽から聞こえてきた暢気な声が、狭い風呂場に反響する。

 ――結局、こうなってしまった。
 陣は焦る手でボディータオルを泡立てながら奥歯を噛み締める。
 湯舟がチャプチャプと撥ねる音。女性が好みそうなボディーソープの甘い匂い。ご機嫌な鼻歌。視界にちらつく艶やかな肌色。
 陣は何も見ず、何も聞かないようにして一心不乱に体を擦る。痛みだけが彼の理性を繋いでいた。なのに――。

「陣くん、背中洗ってあげようか?」
 氷が浴槽の縁に乗り上げて陣の顔を覗く。

 ――もう勘弁してくれ……。