当たり前の日常が突然なくなるなんて考えたこともなかった。
 いつものようにバスに乗って大学へ行くはずだったのに。
 覚えているのは急ブレーキの音と、ドン! という衝撃。

「……えっ?」
 陽菜(ひな)は見知らぬ床に座り込んでいる自分に驚いた。
 
「OHHHH!」
 部屋が揺れるほど歓声を上げている中世ヨーロッパの騎士のような人たち。
 
 ここはどこ?
 松明が灯された薄暗い部屋は全く見覚えがない場所。

 前から歩いてくる王子っぽい服装の人はミュージカル俳優?
 白い軍服のような服は、薄暗い部屋でも派手だとわかるほど肩から胸に金色の紐の装飾品がつき、歩き方も仕草もナルシストっぽい。
 
 王子は満面の笑みで手を差し伸べた。
 陽菜の隣の美人に。
 白いブラウスに花柄のスカート、緩やかに巻かれた茶髪、バッチリなメイク。
 王子の手を取りながら立ち上がった彼女の足元は赤いハイヒールだった。

「京香よ」
 そのまま歩いて行ってしまう二人を陽菜が見送ると、次はショタ王子が登場。
 服装はさっきのナルシストと似ているが、明らかにこちらのほうが年下だ。
 彼は陽菜の横を通過し、後ろにいた制服の少女に優しく手を差し伸べた。

 ブレザーに可愛いチェックのスカート、ハイソックスにはロゴマーク。
 髪はふわふわの肩上で、守ってあげたくなるような可愛いあの子はきっと女子高生。

「私、芽郁(めい)です。あの、ここはどこですか?」
 こちらを何度も振り返りながら歩いて行く芽依を、陽菜はぼんやりと見送った。

「……それで、私は?」
 部屋はざわついているが誰も迎えに来ない。
 陽菜が立ち上がると、騎士のような男たちに取り囲まれた。

 なんて言っているの?
 何かを言っているが、全然聞き取れない。
 日本語ではないのにどうしてさっきの二人は会話ができていたのだろう?
 私は彼女たちの言葉しかわからなかったのに。

「えっ? 離して!」
 騎士に腕を掴まれた陽菜は振り払おうとしたが、もう片方の腕も別の騎士に掴まれてしまった。
 一人の騎士がギラギラ光る銀色の剣を陽菜の前に。
 もう一人の騎士も反対側から剣を突き付ける。

 待って!
 これ歓迎されていないパターン!

 後ろでひとつに縛った黒髪、長めの前髪に黒縁眼鏡をかけていて、黒のTシャツに安いGパン、普通の白いスニーカーで色気がないのは認める。
 でもさ、勝手に知らないところへ連れてきてこの扱いはないんじゃない?

「ねぇ、ここはどこ? どういうことか説明して!」
 引きずられるように暗い廊下を歩かされ、階段を下りて大きな扉の前へ。

「わっ!」
 何の説明もないまま、陽菜は外に突き飛ばされた。
 手を咄嗟についたが膝のダメージは防げず、眼鏡が石畳に落ちそうに。
 陽菜は慌てて眼鏡を押さえた。

「なんなの?」
 外は雨。
 Gパンも手も泥で汚れてしまった。
 当然、急いで押さえた眼鏡も、顔も。
 文句を言おうとすぐに振り返ったが、扉はもう閉められ、周りには誰もいなかった。

「うそでしょ?」
 垂直の高い壁は、誰も寄せつけないような暗く冷たい印象の城に見えた。
 東京にこんな場所はない。
 ここはどこ?
 それよりもこの状況は何?

 陽菜は石畳で打った膝を押さえながら立ち上がった。
 Gパンで良かった。
 スカートだったら流血だ。
 手もドロドロ。
 Tシャツも泥がついてしまった。

 もう一度建物の方を振り返っても、閉まっている扉は開きそうにない。
 
 ……何で私がこんな目に。
 
 陽菜は泣きながら歩いた。
 だんだん強くなる雨に体力が奪われていく。
 どれだけ歩いたかわからないし、どこへ行けばいいのかもわからない。
 足も痛いし、濡れた身体が寒い。
 何もない砂利の道から草原へ入った陽菜は息苦しさに胸を押さえた。

 なんでこんなに苦しいの?
 私、死ぬのかな、こんなところで。
 どうしよう、引き返す?
 でも、……もう無理かも。
 Tシャツをギュッと握ったまま、陽菜の意識は途切れた――。


「……目を覚ますと親切な人が助けてくれていて、どこかの家で目が覚めるべきじゃない?」
 陽菜は誰もいない草むらで思わずツッコんだ。

「いや、ありえないでしょ」
 倒れた場所で倒れたままの格好で目が覚めた陽菜は、立ち上がりながら苦笑する。
 あんなに胸が苦しかったのに、今はもう苦しくない。
 だが、服も髪もずぶ濡れでドロドロだ。

 これからどこで何をすればいいのだろう?
 言葉もわからなかったし、お金もないし、食べる物もない。
 行く宛もなかったが、陽菜はとりあえず進むしかなかった。

 バスに乗っていたら急ブレーキの音がして、身体が前のめりになって。
 そして……死んだのかな?
 そういえば、同じバスにあの花柄スカートのキョウカさんが乗っていた気がする。
 女子高生のメイちゃんも後ろにいたのかもしれない。
 バスの事故でここへきてしまったのだろうか。
 でもあのバスには他の人も乗っていたのに、どうして三人だけ?
 
 迷い込んだにしてはすごい歓声だった。
 王子二人の可愛い花嫁が来たから、あとは外にポイ?
 せめて生きていくための最低限の知識とか、お金とか、お金とか、お金とか、くれてもよかったのではないか。

「草原の次は森?」
 森の中は薄暗く、木の根がゴツゴツで歩きにくい。
 何度もよろけながら陽菜は食べ物を探しながら歩いた。

「……犬、かな?」
 木の下にうずくまっている小さな動物を見つけた陽菜は思わず足を止めた。
 もふもふが必死に舐めている右足は、血で真っ赤に染まっていて可哀想だ。

「あ、えーっと、わんちゃん? 何にもしないよ。手当てするだけ」
 毛を逆立て唸り声を上げるもふもふの前で、陽菜はポケットに入っていたハンカチを三角に折り、さらに細く折った。

「痛っ」
 予想通り噛まれてしまったが、陽菜は気にせず子犬の足にハンカチを巻きつける。
 小さな足にグルグルと。

「ごめんね、驚かせて。血が止まるといいね」
 もふもふはグレーの目で陽菜を見つめると、陽菜の膝の上に乗り、丸まってしまった。

「わんちゃん? ここで寝ちゃうと困るんだけど」
 口ではそう言いながらも、犬好きにとって膝に乗ってもらえることはご褒美に近い。
 そっと子犬の背中を撫でるとふわふわに見えた毛は思ったよりもしっかりした毛だった。

 癒される!
 
 実家の柴犬よりも長めの毛で、色は濃いグレーと薄いグレーのメッシュ。
 毛並みがすごく良い。
 犬種は何だろう?
 ハスキーとはちょっと違う気がするけれど雑種?
 
 こんな可愛い子犬が膝に乗ってくれるなんて、この変な世界で一番幸せな時間かもしれない。
 たくさん歩いて疲れたせいか、足がポカポカと温かくなったせいか、陽菜はいつの間にか木にもたれながら眠ってしまった。

    ◇
 
「聖女が二人?」
 謁見の間に国王の驚く声が響き渡った。

「どちらが聖女なのだ?」
 国王の言葉に、クロードとハロルドは自分の姫こそ聖女だと睨み合った。

 第一王子クロードが連れているのは、赤いドレスを着た色気がある女性。
 第二王子ハロルドが連れているのは、ピンクのドレスを着た優しそうな少女。

「ようこそ聖女様。どうか我が国を守るために力をお貸しください」
 国王の隣で白髭の宰相は二人の聖女に頭を下げた。

「守るって何をするの?」
「聖女様のお力で国全体に結界を張っていただきたい」
「やり方がわからないわ」
 キョウカが困った顔で見ると、すぐにできるようになるよと第一王子クロードは微笑む。

「困ったことがあれば遠慮なく息子たちに言ってくれ」
「ありがとうございます、陛下」
「あ、ありがとうございます」
 キョウカの真っ赤な口元は弧を描き、メイは深々とお辞儀をする。
 王子たちにエスコートされながら謁見の間を去る聖女たちを見送った国王は宰相と目を合わせた。

「二人とも聖女なのか?」
「わかりません。国に結界さえ張ってもらえれば一人でも二人でも問題ないと思っています」
 この国は獣人の国に囲まれている。
 彼らは我々人族よりも遥かに凶暴で力も強い。
 国全体を聖女の結界で守っていたが、最近獣が迷い込んでくるようになった。
 そのたびに騎士が派遣され、獣を退治している。
 たとえまだ子供の狼でも。

 前回の聖女召喚は千年前。
 再び千年の結界を張ってもらうため、彼女たちには早く魔力操作を覚えてもらわなくてはならない。
 
「宰相、聖女を選んだ王子を王太子にする。もし二人とも聖女だった場合は、第一王子クロードを王太子に」
「はい陛下」
 これで第二王子のハロルド様にも王太子になるチャンスができた。
 第一王子のクロード様も安泰だと思っていた王太子の座が危うくなれば焦るだろう。
 これは派閥ができそうだ。

「実は召喚の儀でもう一人、なぜか男がいました」
「男?」
「黒髪を後ろで縛り、眼鏡をかけていた小柄な少年です。知らない言葉を話し、こちらの質問にも答えませんでした」
 男はすぐに裏口から追い出しておきましたので大丈夫ですと宰相は自慢のひげを触りながら国王に報告した。

    ◇

 足がポカポカ。
 ゆっくりと目を開けると、今日は日差しが差し込む綺麗な森の中だった。
 昨日はあんなに暗く怖い森に見えたのに。

 足の上にはもふもふの子犬。
 陽菜が子犬の背中をそっと撫でると、顔を上げた子犬のグレーの綺麗な眼と陽菜の目が合った。
 陽菜の膝の上からピョコンと降り、ブルブルと身体を振る子犬が可愛い。

「もう歩けるの? 良かった」
 昨日は血がたくさん出ていたように見えたけれど、傷が浅くて良かった。
 
「もう怪我しないようにね」
 陽菜は子犬の頭を撫でながら微笑んだ。

 髪のゴムを外し、手でほぐす。
 中は湿っていて外側はパリパリの泥がついた髪。
 顔もきっと汚いだろう。
 目が隠れるほど長い前髪にも泥がついているのが見えたが櫛も鏡も何もない。
 仕方がないので手櫛でなんとなく整え、再び髪を縛った。
 
 次は眼鏡を外し、Tシャツの出来るだけ綺麗そうな場所でレンズを拭く。
 眼鏡をはめ、大きく伸びをした陽菜は子犬がジッとこちらを見上げていることにようやく気付いた。

「……行くところがないの? 私もないけれど一緒に行く?」
 陽菜が冗談で聞くと、子犬は陽菜の足に擦り寄る。
 偶然だと思うけれどこちらの言葉を理解しているかのような姿がとても可愛らしかった。

「ふふっ。ありがと」
 心細かったから仲間ができたみたいでなんだかうれしい。
 
 まるで道案内をしてくれるかのように、子犬は少し前を歩いていく。
 野イチゴのような実を陽菜は子犬と一緒に食べた。
 ちょろちょろと湧き出る水で喉を潤し、やっと顔も洗うことができたが、さすがに髪や服を洗うのは無理だった。
 
 可愛い尻尾を揺らしながら子犬はどんどん森を進んでいく。
 
「えっ? なんで?」
 突然波紋のように空気が揺れ、目の前の子犬が一瞬で大型犬に。
 他には何も変わったところがない森なのに、犬だけが大きくなった。
 
「ここを通ると姿が変わるの?」
 手を伸ばすと膜を触っているかのような変な感触がある。
 私の手は大きくも小さくもならないけれど。
 陽菜は恐る恐る不思議な膜を通り抜けた。

「グァウゥ」
「わぁぁ!」
 突然吠えた大型犬の声に驚いた陽菜も思わず声を上げる。

「えっ? ええっ?」
 どこからともなく走ってきた七頭の大型犬に囲まれた陽菜は思わず後ずさりした。
 
「アレク様! まさか向こう側に? なぜ、」
 息を切らしながら走ってくる男性は陽菜の姿を上から下まで確認すると溜息をつく。
 口には出さないが、何ですか、その薄汚い娘は。とでも言いたそうだ。

 ……あれ?
 そういえば、この人の言葉がわかった気がする。
 お城では言葉がわからなかったのに?

「グァウゥ」
「いえ、ですが、」
「グァグァウゥ」
「……わかりました」
 男性は溜息をつくと、陽菜を見つめる。

「アレクサンドロ様のご命令により、ご同行願います」
「アレクサンドロ様?」
「グァウゥ」
 返事をするように鳴く大型犬。
 あ、この子の名前!
 そっか、飼い犬だったんだ。
 どうりでお利口だと思った。

「ついてきてください」
「は、はいっ」
 犬と会話が出来る不思議な男性。
 グレーの長い髪が似合う男性なんてズルすぎる。

 男性と大型犬たちに囲まれながら陽菜はアレクサンドロと森の中を進んだ。
 明るい日差しが見え始め、森の終わりを知る。

「……すごい」
 目の前に広がる城と街は、まるでドイツの天空の城のようだった。
 スマホでしか見たことはないけれど。

「今から……ですが、まず泥を……」
 男性が説明をしてくれているけれど、陽菜はうまく聞き取ることが出来なかった。
 陽菜の目の前は急に真っ暗に。
 疲れと空腹と街へ出られた安堵のせいか、陽菜の意識はそこで途切れた――。

    ◇
 
 ふかふかのお布団。
 あぁ、夢だったんだ。
 目を開けて大学に行かないと……。

「あれ?」
 マンションの天井よりも高い豪華な天井と、立派なヴィクトリアン調インテリア?
 陽菜が慌てて起き上がると、ぴったりくっつくように寝ていた大型犬が顔を上げた。
 
「……アレクサンドロ様?」
 アレクサンドロがグァウと鳴くと、すぐに森で会った男性が部屋へとやってくる。
 陽菜は慌ててサイドボードから眼鏡を取り、前髪も急いで整え、目が見えないようにしっかり隠した。

「体調はいかがでしょうか? 私、アレクサンドロ様の補佐ユリウスと申します。あなたの名前をおうかがいしても?」
 補佐? ペット係?

「渡辺陽菜です」
「ワタナベヒナさん? 珍しい名前ですね」
「あ、名前はヒナです。ワタナベが苗字で」
「ではヒナさん、まずは湯あみとお召替えを」
 ユリウスが手を叩くとメイド服の女性三人がバスルームへ案内してくれる。

「だ、大丈夫、自分で出来ます」
 服まで脱がそうとする女性たちにヒナは焦った。
 お湯の出し方を教わり、あとは自分で出来ると追い出す。
 温かいお湯を頭から浴びると、茶色の水が足元に広がった。

「うわぁ。汚い」
 こんなに汚いのにベッドを借りてしまって本当にごめんなさい。

 泥で固まった髪を少しずつほぐし、頭も身体も三回ずつ洗った。
 TシャツとGパンも下着も洗い、泥を落とす。
 洗い終わった後、ヒナはようやく着替えがないことに気がついた。

「よかった。服を貸してもらえた」
 準備されていた着替えにホッとする。

「柔らかい生地……」
 水色のシャツは肌触りが良くて軽い。
 これ、絶対高い服!
 ズボンの裾を三回も折り曲げ、ぶかぶかのウエストはベルトでなんとか固定。
 犬に「様」をつけて呼ぶくらいだから、飼い主さんは相当お金持ちなんだろうな。
 泥だらけで汚い娘をこんな豪華な家に泊めてくれるなんて心の広い方だ。

 ヒナは髪を乾かし、濡れたゴムでまた髪をひとつに縛った。
 前髪は目を隠すように真っ直ぐ整え、眼鏡を着ける。
 扉を開けると目の前には尻尾を振ったアレクサンドロ。

「待っていてくれたの? ありがとう」
 ヒナはアレクサンドロの頭を撫でながら微笑んだ。

「ヒナさん、食事をどうぞ」
 おいしそうな匂いにヒナのお腹はぐぅと鳴る。

「いただきます。あの、ユリウス様は一緒に食べないのですか?」
「私は補佐官ですので」
 ユリウスはアレクサンドロが食べ終わった皿を下げ、次の皿を目の前に出していく。

 あぁ、なるほど!
 お世話しないといけないから一緒に食べられないんだ。
 ときどきアレクサンドロが吠えるので、これが食べたい! とでも言っているのだろうか?
 アレクサンドロは肉にガブッと噛みつくと、ペロリと舌なめずりをした。

「ふふっ。おいしいね」
 横にあったナプキンで、アレクサンドロの口元についたソースを拭く。
 おとなしく拭かせてくれるアレクサンドロは強そうな大型犬なのに、なぜかとても可愛く見えた。

「ユリウス様、着ていた服を洗ってしまったのですが、乾かす場所はありますか? 服が乾いたらすぐ出ていきますので、それまでココにいさせてくださいと飼い主さんにお願いしたいのですが」
 ヒナが頼むと、ユリウスは驚いた顔をした。

「飼い主?」
「グァウゥ」
 アレクサンドロが吠えるとユリウスは頭を押さえながら溜息をつく。

「いろいろお伝えしなくてはいけないことがあるようですが、ご本人が伝えたいそうなので、しばらくここに滞在してください」
「えっ?」
「予定がありますか?」
「いえ、行く当てもないので構いませんが……」
 ご迷惑では? とヒナがユリウスの顔色をうかがう。

「明日には魔力が戻ると思います」
「……魔力?」
「この部屋を自由にお使いください。アレクサンドロ様のお部屋です」
 客室を用意しようと思ったらアレクサンドロに怒られたのだとユリウスは困った顔をした。

 この部屋が食事や普段過ごすリビング。
 右の扉がベッドルーム。
 その向こうがさっき使用したバスルームと、その隣がトイレ。
 左の扉は仕事部屋のため行かないようにとお願いされた。

 このリビングだけでもヒナが住んでいたマンションより遥かに広い。
 すごいな、やっぱり飼い主さんはお金持ちだ。

「困った事があれば、こちらの紐を引いてください。侍女か私が参ります」
 侍女? さっきのメイド服の人たちのことかな?
 本棚の横にある黄色い紐でさえ豪華に見えるのは何故だろうか?

「ごちそうさまでした」
「お口に合いませんでしたか?」
「いえ、すごくおいしくて食べすぎてしまったくらいです」
 どの料理もとても美味しかったが、量がスゴイ。
 アレクサンドロの食べる量もスゴイけれど、犬ってこんなにたくさん食べるんだっけ?

「では、失礼します。気楽にお過ごしください」
 ユリウスは食器が乗ったワゴンを引き、部屋から出て行く。

 ヒナは食事中にずっと気になっていた本棚に近づいた。
 犬の部屋なのに本棚にはたくさんの本が並んでいる。
 きっと飼い主さんの仕事部屋に入りきらない本なのだろう。

「ヴォルク国の歴史? ここはヴォルク国っていうの?」
 アレクサンドロに尋ねると、グゥと返事をしてくれた。
 あぁ、本当に賢いワンちゃんだ。

 でも、ヴォルク国なんて知らない。
 本を手に取り、表紙を開くと周辺国の地図が乗っていた。
 チェロヴェ国、プチィツァ国、ミドヴェ国、レパード国。
 ひとつも知らない。
 一体どういうこと?
 ヒナはアレクサンドロと読書をしながら過ごし、一緒にふかふかのベッドで眠りについた。


「……えっ? 誰?」
 翌朝、目を覚ましたヒナは同じベッドで眠るケモ耳コスプレ青年の姿に固まった。
 なんでコスプレのまま寝ているのだろう?
 ここのお屋敷の息子さん?
 部屋を間違えたのかな。
 とりあえず同じベッドはマズいよね。

 陽菜は眼鏡を着け、前髪で目を隠す。
 そっとベッドを降りようと布団を退けると、綺麗なグレーの眼が開いた。
 アレクサンドロと同じグレーの瞳。
 つけ耳のコスプレをしている青年はなぜか上半身が裸だ。

「おはよう、ヒナ」
「あ、えっと、あの、アレクサンドロ様の飼い主さん……ですか?」
「アレクサンドロだよ」
 犬の名前がアレクサンドロ。
 飼い主の名前もアレクサンドロ?
 ヒナが首を傾げると、つけ耳のアレクサンドロは笑った。

「食事をしながら話そうか」
「っ!」
ベッドから降りようとしたつけ耳のアレクサンドロは、上半身だけでなく下も身に着けていなかった。

「み、見ていませんっ!」
 驚いたヒナが慌てて顔を布団で隠す。
 お尻? というかコスプレの尻尾しか見ていません!
 焦った様子のヒナを見たアレクサンドロは声を上げて笑う。

「ごめん、ごめん。もう服を着たから安心して?」
 もう顔を上げても大丈夫だと説明されたヒナはゆっくりと顔を上げた。
 
 なんで服を着てもつけ耳と尻尾を外さないの?
 そんなに犬好きなのかな。
 コスプレしちゃうくらい。
 それにあの尻尾はどうやって動かしているのだろう?
 あんなにふさふさと。

「あの、アレクサンドロ様はどこに?」
「俺だけど?」
 つけ耳のアレクサンドロは綺麗に洗われたヒナのハンカチを手首に巻く。
 場所はヒナが子犬に巻いてあげた右手首だ。
 
「あ、いえ。ワンちゃんの方です」
「犬じゃなくて狼ね」
「えっ? 狼?」
「狼族……知らない?」
 つけ耳のアレクサンドロが尋ねると、ヒナは首を横に振った。

 狼族?
 狼?
 つけ耳と尻尾のコスプレ?
 どちらもアレクサンドロ?
 狼のアレクサンドロがつけているネックレスと似ているネックレス。
 狼のアレクサンドロの毛色に似た黒っぽいグレーのメッシュの髪。
 同じグレーの眼。

 つなぎ合わせると、とんでもない結論に。

「けがの手当てありがとう」
 アレクサンドロが手首に巻いたヒナのハンカチに口づけをする。
 ヒナは信じられないと固まった。

 軽く身支度を整えたヒナは隣の部屋へ。
 
「これも美味しいよ」
「あ、ありがとうございます」
 正面にもソファーがあるのに、なぜかアレクサンドロは隣に座った。
 狼の時と座る位置が同じだ。
 にっこり微笑み、さぁたくさん食べてとグレーの眼で見つめられる。
 イケメンの笑顔は破壊力が満点。
 狼の耳も反則だ。

「話をしたかったのに魔力不足で狼だったから、やっと話せるよ」
「あの、魔力って何ですか?」
 不思議な質問をするヒナに驚きながらも、アレクサンドロは魔力や狼族について教えてくれた。

 魔力は誰でも持っている物。
 狼族は魔力が不足すると狼に。
 今は半分魔力が戻った状態なので耳と尻尾が残っている。
 魔力が多ければいつでも狼と人型に変身できるが、いつも服が困るとアレクサンドロは笑った。

「ここは狼族のヴォルク国。ヒナと出会ったのは人族のチェロヴェ国」
「人族?」
 私は人族でいいのかな?
 
「森の途中で大きな狼に戻った所、あそこが国境」
 人族のチェロヴェ国には結界があり、魔力が制限されるので小さな狼の姿だったとアレクサンドロは教えてくれた。

「騎士の攻撃にあって、なんとか森まで逃げたけど血が止まらなくて」
 ヒナのおかげで助かったと言いながらアレクサンドロはステーキ肉をパクッと食べた。

「あんな小さな姿だったのに騎士が攻撃したの?」
 あのときは子犬だと思った。
 小さくてふわふわで可愛いのに、騎士が攻撃?

「チェロヴェ国は獣が嫌いなんだ。ずっと入れなかったんだけど最近結界が緩んでいるみたいでね。ちょっと入ったら即攻撃」
 ひどいよねとアレクサンドロは肩をすくめた。

「ヒナは? どうしてあんな森に?」
「あ、えっと……」
 どうやって説明したらいいのだろう?
 自分でも何が起きたかわからないのに。

「……言いたくない?」
 心配そうな目で見つめるグレーの眼。
 この目は反則だ。
 優しそうで、強そうで、頼りたくなってしまう目。
 ヒナは手に持っていたフォークを置き、俯きながら自分に起きたことを話した。

 突然知らない場所に来たけれど、言葉がわからなかった。
 自分の他にあと二人いたけれど、自分だけが城から追い出され、雨の中、行く場所も食べる物もなく彷徨ったと説明すると、泣きたくないのにヒナの目からは涙が溢れた。

「今日、出て行きますね」
 お礼ができるものを何も持っていなくてごめんなさいとヒナが謝ると、アレクサンドロはヒナの手をギュッと握った。

「ここにいて」
「で、でも」
「ヒナは命の恩人、なにかお礼がしたい。それに知らないところに来たのなら、ここのことを学んでからでないと危険だ」
 優しいアレクサンドロの言葉がうれしい。
 突拍子もない話なのに、この世界じゃない所から来たって信じてくれるの?
 頭がおかしい子だって思わないの?
 正直、ここにいられるのは助かる。
 今の自分はお金の単位も、食べ物の買い方さえわからないから教えてほしい。

「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えてしばらくお世話になります」
 ヒナが微笑むと、アレクサンドロはペロッとヒナの頬の涙を舐めた。

「っ!」
 な、舐め、舐めっ!
 真っ赤になって焦るヒナ。

「可愛い」
 アレクサンドロは上機嫌にふさふさの尻尾を揺らしながらニヤリと笑った。

「今、ヒナが一番知りたい事は?」
 近い。
 イケメンが近い。
 イケメンに耐性がない自分が悲しい。
 暗いグレーと黒の混ざった髪、キレイなグレーの眼。
 笑った時に見える牙。
 ふさふさの耳にもふもふの尻尾。
 アレクサンドロは20歳くらいだろうか?

「えっと、お金? 自分でお金を稼ぐにはどうしたらいい?」
 お金がなければ食べ物も買えない。
 住み込みの仕事があるのか、どんな職業があるのか知りたいとヒナが言うと、アレクサンドロは驚いた顔をした。

「誰かの紹介があれば働けるけど、でも今は仕事があまりないね」
 不景気なのかな?
 前の世界も、バイトの曜日を減らされたり、時間を短くされたけれど。

「魔力が高ければ仕事につきやすいよ」
「魔力……?」
 前の世界にはない基準だ。
 高いかどうかもわからない。

「ヒナは魔力もよくわからないんだよね? 魔力の練習からしてみる?」
「練習したい! ありがとうアレクサンドロ様!」
 嬉しそうにヒナが笑うと、アレクサンドロはヒナの手を握った。

「アレクって呼んで」
 グレーの目で真っ直ぐに見つめられ、ヒナの胸がドクンと弾ける。
 手をゆっくり持ち上げられ、指にキスされたヒナは真っ赤になった。

 魂が抜けそう……。
 ここはホストクラブ?
 行ったことはないから勝手なイメージだけど。
 コスプレホスト。
 犯罪でしょ。
 
「アレク様、少しよろしいでしょうか? 陛下がお呼びです」
 扉をノックする音と共にユリウスの声が聞こえてくる。

「あぁ、すぐ行く。一人にしてしまうけれど、ヒナは大丈夫?」
「えっ、あ、う、うん。大丈夫。本、読んで待っています」
 動揺する気持ちを押さえながらヒナが本棚を指差すと、アレクサンドロはゆっくりと立ち上がった。

「行ってくるね」
 ヒナの頬にチュッと口づけし、ひらひらと手を振りながら部屋を出て行くアレクサンドロを真っ赤な顔で見送ったヒナは、頬を押さえながらソファーに埋もれた。


「お呼びですか? 父上」
 アレクサンドロはユリウスと共に謁見の間を訪れた。

「勝手にチェロヴェ国へ行ったそうだな」
 無茶ばかりするな、万が一があったらどうすると国王がアレクサンドロを叱る。

「だが収穫があった。チェロヴェ国から連れてきた娘は聖女だ」
「聖女だと?」
「あぁ、あの娘の膝の上にいたら怪我が治った」
 呼ばれた聖女は三人。
 二人は今もチェロヴェ国に。
 この世界のことも、狼族のことも、魔力のことさえ知らない娘。
 
「なぜ追い出された?」
「言葉が通じなかったと言っていた」
 チェロヴェ国の言葉はわからず、ここ、ヴォルク国で言葉がわかるとはおかしいけれど。
 チェロヴェ国もヴォルク国も同じ言葉、世界共通語を使っているのに。

「嘘を言っている可能性は?」
 宰相の問いに「さぁ」とアレクサンドロは答えた。
 今の時点では情報が少なすぎて何も判断ができない。
 聞き出そうと思ったけれど、まだうまく聞き出せていない。
 打ち解けるには信用が足りないだろう。

「しばらく側に置く。ユリウス、逃げられないように協力しろ」
「かしこまりました、アレク様」
 追い出されたのがどんな理由だとしても「治癒」が使えるのは貴重。
 大地に治癒を行えば、実り豊かな土地に。
 さらに結界まで張れれば周辺国からの侵入もなく、安全な土地になる。
 人族のチェロヴェ国は今のところ結界があり手が出せない。
 鳥族のプチィツァ国、熊族のミドヴェ国、豹族のレパード国とはもう何年もにらみ合いが続いている。

「とりあえず魔力操作を教える約束をした。ユリウス手配を頼む」
「ではベテランの講師を」
「ヒナは男に慣れていない。若くて女の扱いに長けている者にしろ。惚れさせてこの国のために働かせる」
「お前に惚れさせればいいんじゃないのか?」
 聖女を娶れば国は安泰。
 妃にすればいいだろうと言う国王にアレクサンドロはニヤリと笑った。

 ヒナは長い前髪と黒縁眼鏡で顔を隠していて、どんな顔かよくわからない。
 森の中で一緒に寝たときは温かくて安心するようないい匂いだった。
 だが、ここへきてからは全く匂いも温かさも感じない。

「まぁ、がんばるよ」
「おい、待てアレク、話はまだ」
 引き留める国王を無視し、ひらひらと手を振りながらアレクサンドロは控室を退室した。

 まずはどのくらいの魔力を保有しているか。
 治癒はどのくらい使えるのか。
 結界を張れるほどの力はあるのか。
 確認したいことはたくさんある。

「客室の方がよいのでは?」
「いや、一緒でいい。逃げられても困るし、聖女だとバレれば他国に狙われる」
「ですが、年頃の男女が同じ部屋というのは」
「いっそ既成事実でも作れば国のために働くだろうか?」
 好みではないが国のためなら抱くのは構わないと言うアレクサンドロにユリウスは溜息をついた。

「それは最終手段でお願いします」
 彼女の気持ちも考えてください。というユリウスに、アレクサンドロは冗談だと笑った。

    ◇

 食事は一緒に食べたが、その他の時間アレクサンドロはほとんど部屋にいなかった。
 ヒナはのんびりとソファーで読書をしていたが、話し相手もおらず、スマホもなく退屈だった。
 それよりも問題はこの筋肉痛。
 たくさん歩いたせいで、足の裏も太腿も、そしてなぜか腰まで痛い。
 
「あ、あの、アレク様。私、リビングのソファーで寝ますので」
 夜には別の部屋に案内してもらえると思っていたヒナはアレクサンドロの「そろそろ寝ようか」の言葉に驚いた。

「今朝まで一緒に寝ていたのに?」
「狼族だなんて知らなかったし、そのっ」
 真っ赤になりながら手を前でブンブン振るヒナ。
 アレクサンドロはくすっと笑うと狼の姿になった。
 ブルブルと身体を振り、服を脱ぐ。
 ベッドに上がると、枕の横で伏せをした。

 この姿なら良いのだろうということだろうか?
 でももう狼ではない姿を知ってしまったのでイケメンの隣でなんて眠れない!
 ムリ!
 ムリムリムリ!
 部屋が欲しいなんて言わないので、せめてソファーで。
 ソファーがダメなら床でも構わない。
 どうやって説得しようか考えるはずだったが、狼の姿のアレクサンドロはとても温かく、すぐに布団がポカポカに。

「……寝るか? この状況で」
 狼から人の姿に戻ったアレクサンドロは苦笑した。
 警戒心がなさすぎるだろう。
 ベッドに横になってから30分も経たずに規則正しい息使いが聞こえはじめたのだ。

 男として全く意識されていないということ。
 この俺が?

 寝顔は幼い。
 アレクサンドロはヒナの前髪を退けた。
 顔のバランスは悪くなさそうだが、なぜいつも目を隠しているのか。
 傷を隠しているというわけでもなさそうだ。
 前髪が長く、普段目はほとんど見えない。
 黒縁の眼鏡も似合っていない。
 髪はいつも後ろでひとつに縛っていて色気もない。
 スタイルも普通。
 だが、ケガをして足の上で寝たときは温かくていい気分だった。

「……聖女……か」
 明日からさっそく魔力操作の練習を始める。
 治癒が使えることは間違いないが、知りたいのはどのくらいの魔力を保留しているのか、結界を張るほどの能力があるのか、だ。
 アレクサンドロは窓の外の半月を眺めながら眠りについた。

    ◇

 翌朝、銀髪イケメンから手の甲にキスされたヒナは固まった。
 
「今日から魔力操作を教えるランディです。よろしく、ヒナ姫」
 ここにはイケメンしかいないんですか!
 やっぱりホストクラブですか!
 写真に人気No.1と書かれていそうなランディは大人の色気がダダ漏れだ。
 ランディは銀髪なので狼になった時には銀色の毛かもしれない。

「よろしく、お願いします」
 やっと返事ができたヒナの手をランディはギュッと握った。

「では演習室へ行こうか」
 右手同士はつないだまま、ランディの左手がヒナの腰にそっと添えられる。
 腰に手!
 そんなのドラマだけじゃないの?
 なんかすごく良い匂いがするし!
 人生初の状況にヒナは真っ赤になった。

「いってきます」
 ヒナがアレクサンドロとユリウスに挨拶すると、アレクサンドロはいってらっしゃいと手を振った。

 仕事部屋だから入らないでと言われた部屋は校長先生の部屋みたいだった。
 執務机にテーブルとソファー、横にはサイドボード。
 広くて綺麗な赤い絨毯の廊下にも驚いた。
 花や絵が飾られた明るいアレクサンドロの家は、追い出された暗くて冷たいお城とは全然違う。
 アレク様ってやっぱりお坊ちゃん……?

「……何を考えているの?」
 ランディのグレーの眼があまりにも近く、ヒナは心臓が飛び出るほど驚いた。

「す、すみません。部屋から出たのが初めてだったので、新鮮で」
 部屋も豪華だけれど、廊下もすごいなって。
 ヒナが素直な感想を伝えると、ランディは声を上げて笑う。

 廊下の突き当たりを左に曲がり、少し歩くとすぐにまた曲がる。
 煌びやかな廊下が、白くて広い廊下に変わったところで、ランディは握っていたヒナの右手を離し、茶色の大きな扉を開けた。

「はい、ここが演習場」
「……広い」
 小学校の体育館の半分くらいはありそう。
 高い天井をポカーンと見上げるヒナをランディはくすくすと笑った。

「基礎からって聞いているけれど、それでいいのかな?」
「はい。魔力が何かもわからなくて」
「この手を見て」
 ランディはヒナと向かい合うと、右手の手のひらをヒナに見せた。
 普通の手なのに、うっすらと手の周りに光が見える。

「何か見える?」
「……手の周りに光っぽいものが」
「うん、それが魔力ね」
 ヒナは自分の両手を見た。
 でも何もない普通の手だ。
 もしかして魔力がない?

 ランディは演習室にあぐらをかくと、ヒナに膝の上に座るように手で合図した。

「えぇっ?」
 いやいや、ありえないでしょう。
 どんなラブラブカップルですか。

「ほら、早く。小さい子はみんなこうやって魔力を覚えるんだよ」
 もちろん嘘だが。
 ランディはニッコリ微笑み、ヒナを呼ぶ。
 ヒナは真っ赤になりながら、渋々ランディの足の上に座った。

「お、重いですよね? すみません」
 膝の上に乗りながら、後ろからランディに両手を掴まれたヒナの身体は一気に熱くなった。
 膝上バックハグは犯罪でしょう!
 No.1ホストのテクニックですか!

「この手を見ていて」
 耳元もダメですー!
 もう無理、無理、倒れる。

「右手から腕を通って左手に何か温かい物が通るイメージね」
 せっかく教えてくれているのに、それどころではない。
 イケメンに免疫がなさすぎて辛い。
 心臓が飛び出る。
 ムリです。
 もう無理です。
 ごめんなさい。

「……です」
「うん?」
「イケメンすぎて無理ですー!」
 優しく支えられていた手を振りほどき、両手で顔を隠した瞬間、ヒナの中から魔力が吹き荒れた。

「……は?」
 座っている場所から円を描くように吹き荒れる魔力にランディは目を見開く。
 こんな膨大な魔力は見たことがない。
 
「ごめんなさい、ごめんなさい、免疫がなくて無理です!」
 顔を隠したまま首を振るヒナの魔力がどんどん上がっていく。
 演習室の壁と天井がビリビリと揺れ、吹き飛びそうに。
 これ以上はマズい。

「あぁ、ごめん。嫌だった?」
 ランディはそっとヒナの頭を撫で、違う方法を考えるねと優しく話しかける。
 
「立ち上がる?」
 ランディが尋ねるとヒナは顔を隠したまま、うんうんと頷いた。
 ヒナの腰をサポートし立ち上がらせると、ホッとしたのか魔力が止まる。

「……ごめんなさい。その、は、恥ずかしくて」
「急で驚いたね。ごめんね、ゆっくり頑張っていこう」
 ランディがグレーの眼で優しく微笑むと、ヒナは「はい」と頷いた。

 今日はここまでにし、ヒナをアレクサンドロの執務室に送り届けたランディは、すぐに演習室に戻った。
 
 録画を終了し、初めから再生する。
 そこには全く魔力を感じない状態から一気に吹き荒れた様子が映っていた。

 確かに聖女かもしれない。
 無意識であれだけ出るということは、本来の力を引き出せば相当だ。
 国全体に結界を張るほどの魔力も彼女ならイケる気がする。

 魔力は甘くて優しい光。
 温かく包み込まれるような魔力だった。

 まだ幼く、色気があるわけでもないが、照れて顔を真っ赤にした姿は少し可愛いと思った。
 聖女と聞き、実は絶世の美女を期待していたが、男に慣れていない子を自分好みに育てるのも悪くない。
 素顔は見えなかった。
 あの変な眼鏡は似合っていないので無い方がいい。
 前髪は目が見えないほど長く、後ろ髪もダサく縛っているが、下ろせばそれなりになるのではないだろうか。

 腰も抱いてみたが細かった。
 か弱そうで小柄。
 男物の服ではなく、ワンピースでも着せてみれば良いのに。
 国王陛下にはこの国に引き留める事ができるのなら手段は問わないと言われたが、本気で口説いてみるか?

 聖女を国に引き留めたら褒賞を与えると宰相は言った。
 褒賞の内容はどのくらい治癒が使えるか次第だと言っていたが、この魔力なら結界までいけるかもしれない。

「まずは仲良くならないとな」
 ランディは口の端を上げると、映像を持ち演習室を後にした。

    ◇

 リビングのソファーに座ったヒナは自分の手を見つめた。
 ランディの手からは何か光が出ていたが、自分の手は何も見えない。
 何かをすると出てくるのだろうか?

「ヒナさん、紅茶でも淹れますか?」
 リビングへやってきたユリウスにヒナは手を見せてと頼んだ。

「手ですか? 何かありましたか?」
 首を傾げながら両手を出してくれるユリウス。
 ユリウスの手も、ランディほどではないが何かボヤッとしたものが見えた。

「……魔力が見えます」
「見ることができるようになったのですね」
 成長ですねと褒められたヒナは、もう一度自分の手を見たが何も見えない。

「自分の魔力は見えない、なんてことはないですね」
 苦笑するヒナにユリウスは紅茶を淹れた。
 ユリウスがポットの中にお湯を注ぐと、ふわっとジャスミンの花が開いていく。

「この世界へ来たばかりなので、まだ魔力の出し方がわからないだけでしょう」
「……そうですね」
 綺麗な花茶を見ながら、ヒナは悲しそうな顔で微笑んだ。


「落ち込んでいます」
「初めてはうまくいかなくて当然だ」
 自分だって子どもの頃はうまく魔力が解放できなかった。
 狼から人の姿に戻れなくなったことは何度もあるし、逆に狼になれなくなった時期もある。
 ヒナの様子を伝えられたアレクサンドロは、ユリウスからジャスミンティーを受け取りながら肩をすくめた。

「魔力があることはわかっている。頑張ってもらうしかない」
 チェロヴェ国で騎士に攻撃された傷。あれはかなり深かった。
 ユリウスには言わなかったが、もう二度と歩けないと覚悟したほど重症だった。
 それを治したのはヒナだ。
 だから治癒の魔力を絶対に持っている。

「明日は、ディーンが通貨について教えに来ます」
「ディーンか」
 ランディとは正反対の人選にアレクサンドロは苦笑した。

 文官の中ではかなり人気のある男。
 真面目な男だ。
 その誠実さが良いと令嬢の間で囁かれていることは知っている。

 ランディは武官。
 狼族の中では魔力量も多く、しなやかな動きで強い。
 一方で女性には誰にでも甘く優しく、泣かされた女は多い。

「極端だな」
 アレクサンドロが溜息をつくと、ユリウスもそうですねと微笑んだ。

    ◇

 翌朝、ユリウスから紹介されたのは本を何冊も抱えた眼鏡の男性だった。
 
「ディーンです。どうぞよろしく、ヒナ嬢」
「よろしくお願いします」
 昨日魔力を教えてくれたランディがNo.1ホストだとすると、ディーンは優等生タイプ。
 でも、イケメンである事は変わりない。
 狼族はみんなイケメンなのだろうか?

「……眼鏡がないと見えないですか?」
 黒縁眼鏡をひょいと取られ、レンズを確認される。

「度は入っていなさそうですが」
 眼鏡がスッと戻されホッとしたヒナに「眼鏡がない方が可愛いですよ」とディーンは囁いた。

 真面目な優等生タイプでもこんな破壊力!
 恐るべし、狼族!
 
 手を繋がれながらアレクサンドロの部屋からまた綺麗な廊下を歩いていく。
 昨日とは違う道を曲がり、階段を降り、曲がり角、廊下、再び階段。
 もう迷子決定だ。
 中庭のテーブルの前でディーンはヒナの手をゆっくりと離し、静かに白い椅子を引いてくれた。

 これは!
 映画でよく見る男性がレストランで椅子を引く場面!
 まさか体験する日がくるとは。
 実はドッキリで、座ろうとしたら椅子がないとかそんなことにはならないよね?

「大丈夫ですよ。いたずらはしません」
 ちゃんと椅子に座れてホッとするヒナをディーンがくすくす笑う。

 バレてる!
 ディーンはなぜかもうひとつの椅子をヒナの横にくっつけた。

「本を一緒に見たいので正面だと説明しにくくて。隣ですみません」
 ヒナの疑問を察し、説明をしてくれるディーン。
 考えがすべて読まれていそうで恥ずかしいとヒナは思った。

 ディーンの説明はとても分かりやすかった。
 この国はキャッシュレス決済、口座の開設には身分証が必要、身分証はギルドで作れる。

「今度一緒にギルドへ行きましょうか」
 茶色の眼で優しく微笑まれたヒナはお願いしますと答えた。

 ディーンは茶色の髪、茶色の眼。
 狼になったら茶色なのだろうか?

「何か気になりますか?」
「い、いえ、すみません」
 パッとヒナが目を逸らすと、ディーンは別の本を手に取り、パラパラと捲った。

「狼族の毛色は灰、黄、褐色、黒。目は、茶、グレー、緑、オレンジ、黄色といろいろです。一夫一婦制で一生連れ添います。愛情深く浮気はしません」
 ときどき自由を愛する一頭狼がいますが、とディーンは付け加えると、ヒナの右手をそっと握り、顔を覗き込んだ。

「噛み癖やボディータッチは他の種族よりも多めですが一途です。おススメですがどうでしょうか?」
 は? オススメされている?
 いや、アリエナイでしょ。
 イケメンだよ?
 優等生イケメンが手を握って、自分をオススメって。

 そうか!
 狼族はきっと女性が少ないんだ!
 だから残念な女でもとりあえず女認識なのかもしれない。

「ディーン様、あの、狼族は男性が多いのですか?」
「多少は多いですが、そこまで比率は傾いてはいませんよ?」
 あれ? 違う?
 あ! ディーン様は眼鏡をかけているけれど、それでもあまりよく見えていないのかもしれない。

「気に留めてもらえるようにがんばりますね」
 少し困った顔をしながらそっと手を離すと、ディーンは一枚の紙を本の間から取り出した。

「これを解いてみてください」
 出された紙は、まるで学校のテストのようだった。

「今後教えることの参考にするだけですので、わからないところは空白で大丈夫です」
 ニッコリ微笑まれるが、いやいや、普通にテストだよね?
 一枚の紙に計算も歴史もなんでも混ざっている感じだ。
 問題数は多くはないが、この世界の歴史やことわざなんて知らないし。

 ヒナは計算のみ解いた。
 計算は中学生? もしかしたら小学生レベル。
 これなら解ける。

 歴史は知らない。
 国の名前も知らないのに名産品なんて無理。

 ことわざ、熟語も無理。

 花の名前?
 こんな花は見た事がない。
 せめて薔薇やチューリップにしてくれないと。

 魔力の源は何か?
 うーん、知りません。

 神様の名前?
 あぁ、無理だ。
 全くわからない。

「……ディーン様、ごめんなさい。わかりません」
 開始5分ほどでヒナはテストを諦めた。

「大丈夫ですよ。お疲れさまでした」
 ディーンはテストを受け取ると、まるで小さい子に接するようにヒナの頭を撫でる。
 ボディータッチが他の種族よりも多めだと言っていたから、頭を撫でるのは彼らにとっては普通なのかもしれないが、免疫なしにはキツイ。

 昨日はランディと魔力の練習。
 今日はディーンとお金の勉強とテスト。
 大学の授業に比べれば全然授業時間は短いけれど、全く知らないことばかりで疲れた。
 慣れない環境のせいか、ふかふかお布団のせいか、ヒナはこの日もすぐに眠ってしまった。


「全然男として意識されてないね」
 一緒のベッドに狼の姿とはいえ、男がいるのに。
 ヒナの寝顔を見ながらランディは笑った。

「警戒心がなさすぎでは?」
 ディーンもヒナを見ながら溜息をつく。

「30分も経たずに寝る」
 アレクサンドロが苦笑すると、ランディとディーンはアレクサンドロが本当に全く意識されていないことに驚いた。

「情報を共有しましょう」
 ディーンが今日行ったテストを持ちながらユリウスはヒナが眠るベッドルームの扉を閉めた。
 四人はリビングのソファーに座り、順に報告していく。

 アレクサンドロは人族のチェロヴェ国に聖女が三人呼ばれたこと、なぜかヒナだけ追い出されたこと、森で治癒が使えたこと、ヒナが一番知りたいことが自分で金を稼ぐ方法だったことをみんなに話した。

「追い出された? 自分で出てきたわけではなく?」
 ディーンの質問にアレクサンドロが頷く。
 騎士に腕を掴まれ、雨が降る城の外に突き飛ばされたそうだと答えると三人は、女性をそんな風に扱うなんて信じられないと眉間にシワを寄せた。

「計算はかなり優れていますが、子どもでも知っている常識をなにも知らないです。お金についても全く知識はありませんでした」
 この世界ではないところから来たと言っていたのは本当かもしれない。
 三歳くらいの子でも知っている世界中に咲くリーンワイスの花を知らず、お金の単位も価値も、物の値段もわからなかった。
 素直に学ぶ姿勢があり、頭は悪くなかったとディーンは今日教えた内容と共にヒナの様子を伝えた。

「聖女の可能性が高いと思う」
「すごい魔力ですね。円を描くように吹き荒れる魔力なんて」
ランディが撮った映像にディーンが感心する。
 
「専属の護衛騎士をつけた方がよいのでは?」
「好みの騎士でも選ばせましょうか」
 ディーンの提案に答えたユリウスの言葉に、アレクサンドロの指が無意識に動いた。
 
「あの眼鏡は度が入っていないです。前髪も目を隠すように長いので彼女は人見知りというより対人恐怖症ではないでしょうか?」
「魔力を教えた時はパニックだったよ」
 無理だと、ごめんなさいとずっと言っていたとランディが説明すると三人はもう一度映像を見返す。
 この映像には音が入っていない。
 今の技術ではこのコマ送りの映像が精一杯だが、立ち上がりランディから離れた瞬間に魔力の風が止んだ様子はしっかりと映っていた。

「ユリウス、男物の服を着せている理由は何ですか?」
 ぶかぶかの男物のシャツに、折り曲げたズボン。
 ずり落ちないようにベルトで止めているので、小柄な身体が余計に細く小さく見える。
 男をエスコートしているみたいで騎士たちに変な目で見られたと、ランディとディーンが困った顔をすると、想像したアレクサンドロが吹き出した。

「準備しましたが着ないのです」
 ユリウスが準備した水色のワンピースは、今、街で流行っているデザイン。
 ワンピースを見たヒナは綺麗な服だと言ったが、着るそぶりはなかった。

「とりあえず、この国にとどまってもらえるようにできる限りのことをするつもりです」
 ご協力お願いしますと言うユリウスにランディとディーンは頷いた。

    ◇

「おはよう、ヒナ姫」
「おはようございます、ヒナ嬢」
 朝が全く似合わないNo.1ホストのような色気ダダ漏れのランディと、朝が似合いすぎる優等生ディーンが一緒に現れ、ソファーでぼんやりしていたヒナは驚いた。

「おはようございます」
「今日はこの建物内を探険しよう」
 仕事が休みだから一日遊んであげるよとランディが手を差し伸べる。

「私も休みなのでご一緒します」
 ディーンも手を差し伸べ、右手はランディ、左手はディーンが繋ぐというおかしい状況になった。

「えっ? あの、ちゃんとついていくので迷子にはならないですよ?」
 右と左を交互に見上げても、ランディとディーンはニッコリ微笑んだだけだった。

 手をつないだまま廊下を三人で歩く。
 ふと、ヒナは二人を見上げた。
 ランディもディーンも、150センチのヒナよりだいぶ背が高い。
 ランディは190センチ以上、ディーンも180センチはありそうだ。

 ヒナは今日も男物の服。
 ぶかぶかのウエストをベルトで絞り、ズボンの裾は3つ折り。

「みんなが注目するね」
 普段、武官のランディと文官のディーンが一緒に歩くことはない。
 面白いねとランディが笑うと、ディーンも不思議な組み合わせですからねと笑った。

「……二人が一緒は珍しいのですか?」
「仕事が全然違うので普段は会わないのですよ」
 ランディは武官で、悪い人を捕まえるのが仕事だから警察官?
 ディーンは文官で、書類作成が中心と言っていたから市役所の人?
 うん。あまり接点はなさそうだ。

「アレク様は?」
「将来国の代表になる人かな」
 ランディの微妙な回答にヒナが首を傾げる。
 国会議員みたいな感じかな?

 文官たちがいる建物の横を通り、食堂、騎士の訓練施設、その向こうが騎士の寮で、医局、武官たちの建物だと説明される。

「たくさん建物があるんですね」
 中には入らず建物の紹介だけだ。

「5B30!」
 ずぶ濡れの男性がバタバタと廊下を大声で番号を言いながら走って行く。
 ランディとディーンは足を止め、顔を見合わせた。

『第五棟-B室に30人応援が欲しい』
 今日は新月の土曜日。
 狼族にとって新月は家族と過ごす日のため休みの者が多い。
 30人も応援が集まるほど出勤していないだろう。

「……どうしますか?」
 ディーンが尋ねると、ランディは行ってくると溜息をついた。

「ヒナ、ごめん。仕事が入ってしまったからディーンと回ってくれるかな?」
「今の……合図?」
「そうだよ。30人手伝ってって」
 ヒナと繋いでいた手を離し、行ってくるねとランディはヒナの頭を撫でた。

「何があったのですか?」
 ランディは今日お休みだと言っていた。
 それでも走って行くということは緊急事態。
 見上げるヒナに負けたディーンは怪我人ですと正直に教えた。

「ディーン様は行かなくて良いのですか?」
「私は文官なので」
「でも30人も行っていないのに?」
 ヒナはみんなが入って行った建物を指差す。

 指差された建物は確かに第五棟。
 ヒナには『武官の建物』だと教えた建物だ。
 建物の数字は教えていない。

「何人くらい入って行きましたか?」
「18人くらい……かな」
 ランディも入って行ったと言うヒナにディーンは驚いた。 

 キョロキョロしていると思ったが、周りを観察していたのか。
 『行かなくて良いのですか?』は、『30人より少ないけれど行かないのか?』という意味だろう。

「私、建物の前でも、ここでも一人で待てますよ?」
 この子は賢い。
 こちらの状況を把握し、こちらが望む答えを先に言う。
 こんな女性は初めてだ。
 普通の令嬢はランディが仕事だと言った時点で怒るだろう。

「一緒に来てもらえますか?」
 ヒナが頷くと、ディーンは手を繋ぎ第五棟へ移動を始めた。

「怪我人は奥が重傷、手前が軽傷です。重傷者も軽傷者もどちらも多いと思います」
 血は平気ですか?
 包帯は巻けますか?
 塗り薬の匂いは平気ですか?
 ディーンのいくつかの質問にヒナは答える。
 建物の直前でディーンは止まると、ディーンはヒナの顔を両手で包み込んだ。

「ヒナ嬢はユリウスの親戚。今日はランディと私と三人で探険中に偶然居合わせた」
 ディーンの言葉にヒナが頷く。
 もし聞かれたらそう答えろという事だ。
 
 家名は名乗らない。
 眼鏡は取らない。
 気分が悪くなったら入り口の近くで座って待つ。
 困ったらランディかディーンを呼ぶ。
 腕に赤の腕章をつけた人は医者なので指示に従う。

「良いですか?」
 心配そうに顔を覗き込むディーンにヒナは頷いた。

「では行きましょう」
 ディーンに手を繋がれたまま建物の中へ入ったヒナは驚いた。

 思っていたよりもヒドイ。
 勝手に病院のようなベッドの上にいる人を想像していたが、椅子もなく、みんな床に座り込んでいた。
 怪我をした狼も一緒だ。

 これで軽傷?

「なんだよ、文官のお偉いさん。薬代が高すぎるって言いに来たのか?」
 腕を押さえた男性がディーンを見て苦笑する。
 ディーンは眉間にシワを寄せながら奥へ進んだ。

 棚に置かれた包帯やガーゼ、塗り薬をディーンから手渡される。

「最初は一緒にやりましょう」
 ディーンに連れられ、ヒナはその部屋の一番奥、つまり一番怪我が酷い狼に近づいた。

 足を必死に舐めているが血は止まらない。
 舐めるよりもどんどん溢れる血はまるで森で会ったアレクサンドロのようだった。
 ヒナはガーゼに塗り薬を乗せた。
 狼の横にしゃがんで包帯とテープを用意する。

「薬をつけるね」
 ヒナが薬を塗ったガーゼを見せながら「変な物じゃないよ」とアピールすると、狼の緑色の眼が揺れた。

「ガウッ」
「ごめんね」
 痛いよねと言いながら包帯を巻く。
 最後にテープで止めたら終わりだ。

「早く治るといいね」
 ヒナが右手で狼の耳の後ろを撫でると、狼はヒナの左手をペロッと舐めた。

「グアォ」
「ありがとうと言っています」
 ディーンの通訳でヒナが微笑む。
 ヒナは立ち上がらず横へ移動し、隣の狼にも包帯を巻いた。

「合格ですか?」
「えぇ。とても上手です」
 ヒナは20頭以上の狼に包帯を巻き、ディーンも15人程手当をした。

 最後は入り口でディーンに文句を言ったお兄さんだ。

「遅くなりました」
 今までみんなを手当していた姿を見ていた男は気まずそうに腕を出す。

「……さっきは悪かった」
「いえ。本当の事ですから」
 武官がどんなに怪我をしても文官は手伝わない。
 自分たちの仕事ではないからだ。
 ディーンがガーゼを押さえ、ヒナが包帯を巻く。

「ありがとな。小さいのに偉いな坊主。……いや、嬢ちゃんか? 巻いてもらったらもう治った気になるから不思議だな」
「お大事に」
 そう微笑んだヒナは、ディーンの隣で座った状態のまま横に倒れた。

「おい、大丈夫か!?」
「大丈夫ですか?」
 脈は正常、息もしている。
 ヒナを抱き上げたいがヒョロヒョロの自分では部屋まで運べない。

「ランディを呼んでもらえますか? おそらく重傷者の方に」
「わかった」
 呼ばれたランディはヒナを軽々と抱え上げる。

「私が代わりに重傷者の方に行きます」
「あぁ、頼んだディーン。また後で」
 ランディはヒナをアレクサンドロの部屋まで運ぶと、そっとベッドに置いた。


 ディーンが戻ったのは二時間後。
 重傷者の一人が残念ながら亡くなってしまったとディーンはランディに報告した。

 亡くなったのは一番怪我が酷かった、まだ20歳の元気がいい青年だった。

 こんな時、国に結界があればと思ってしまう。
 熊族のミドヴェ国に襲われる事も、豹族のレパード国に襲われる事もなければ、若い命が犠牲にならずに済んだのに。
 ランディは悔しそうに手をグッと握った。

「今まで文官たちがすみませんでした」
 武官はこんな大変な思いをしていたのに、文官の自分たちはいつも手伝わない。
 包帯代が、薬代が高い、もっと怪我をしないように出来ないのかと、ひどい言葉を投げつけていた。
 嫌われて当然だ。

「ディーン! 戻ったか」
 急いで公務から戻ってきたアレクサンドロが事情を聞かせろとディーンに詰め寄る。

「ヒナ嬢は応援が18人しか行っていないのになぜ行かないのかと私に聞きました」
「確かに20人程しかいなかったが」
「数えていたようです。建物に入って行く人数を。ランディが入るのも確認していました」
 あの状況で緊急事態だと察し、ランディに置いて行かれたことにも文句を言わず、走る人を目で追いかけ、行先を知らないのに人数を確認した。
 おそらく他の建物に出入りした人も見ていたのだろうが、ランディの姿を見てあの建物だと確信したのだろう。

 廊下でずっとキョロキョロしていたが、いろいろなことを確認していたのだ。

「人手が足りず中程度は後回しだった。軽傷者は重傷者を手当てするのに必死で。今日は怪我人が多く、入り口付近でさえ中程度の怪我人だった。女性をあんな場所へ連れていくなんて」
 男でも目を背けるような傷だったのにとランディはディーンを責めた。

「手際も良く、20頭以上の狼を手当してくれました」
「そんなにヒナがやったのか?」
 驚いたアレクサンドロが身を乗り出す。

「手当ての間に、無意識に治癒を使った可能性はありませんか?」
 アレクサンドロの前に紅茶を置きながら推測を口にしたユリウスに、三人はハッと顔を上げた。

「まさか」
 アレクサンドロが背中をソファーから離す。

「アレク様の怪我を森でヒナさんは手当てしてくれましたよね? 翌日には歩けたと」
「あぁ」
 もう歩けないかと思った怪我が翌朝には治っていた。

「怪我人の様子を見てくるよ」
「私も行きます。ヒナ嬢が誰を治療したか覚えています」
 ランディとディーンは再び第五棟B室へ。

「おい、ジョシュ。安静にしないとダメだろう」
 ランディは重傷者の世話をしていたジョシュに声をかけた。
 ヒナとディーンが最後に治療した入口付近にいた男性だ。

「あぁ、ランディっと、文官さん。さっきは手当てありがとな。あの子、大丈夫か?」
 手当てをしてもらっておいてなんだが、あんな小さな子をこんな所へ連れてきてはダメだと、ジョシュもディーンに苦言を呈した。

「あの子はまだ寝ているよ。疲れて寝ているだけだ」
「そうか、よかった」
「ジョシュ、怪我は?」
「あぁ、大丈夫だ。熊族の爪で引っ掻かれて、血も止まらなくて。骨まで見えそうなくらいだったけれど、あんたたちに包帯を巻いてもらったらすぐ痛くなくなって。いつもよりもいい薬を買ってくれたんだろ?」
 文官が様子を見に来るくらいだから、最高級品でも買ったのだろうとみんなで冗談を言っていたところだとジョシュは笑った。

「ジョシュ、その包帯を1回はずしてもいいかな?」
「見ても面白い傷じゃねぇぞ」
 構わないけれどとジョシュは腕を差し出す。
 ランディは腕の包帯をゆっくりと取った。
 包帯は途中で折り返しもあり、ズレないように工夫してある。

「包帯の巻き方を教えたのかい?」
「いいえ」
 ディーンは一人目で文句なしの出来栄えだったので何もアドバイスしなかったと告げた。

「痛かったらすまない」
 包帯を取り終わり、薬を塗ったガーゼにランディが手をかける。

「うそ……だろ?」
 ジョシュが目を見開く。

「……まさか」
「傷がない……?」
 ランディとディーンも驚き、顔を見合わせた。