2067年──
東京・国際記者会見場。
壇上に立つのは、製薬大手 Medora Genesis(メドラ・ジェネシス)社 のCEOだった。
「本日、私たちは人類史に残る発表をいたします。
新薬 『Neulase-X(ニュレイズ・エックス)』 が完成しました」
会場がどよめく。
すでに報道関係者の多くは察していた。だが、その言葉を公式に耳にした瞬間、誰もが息を呑んだ。
「皆さんご存じのとおり、2065年に発生した世界的パンデミックは、人類社会を根幹から揺るがしました。
医療体制は崩壊寸前、経済は停滞し、文化活動は断絶の危機に瀕した。
──もし、この新薬が誕生しなければ、私たちは今もなお深い絶望の中に沈んでいたことでしょう」
壇上のスクリーンには、各国の惨状と共に、回復していく統計グラフが映し出される。
やがてCEOは言葉を区切り、こう続けた。
「そして、本日ここに報告すべき、最も重要な事実があります。
この新薬の開発において、決定的な役割を果たしたのは──日本人女性研究者 湊 葵(ミナト・アオイ)博士 です」
会場がざわめき、記者たちが一斉にペンを走らせる。
記者の一人が手を挙げた。
「具体的に、博士の功績とは?」
「彼女はチームの中で、“中間ウイルスモデル” と “遺伝子スクリーニング技術” という二つの画期的手法を確立しました。
詳細は専門的になりますが──簡潔に言えば、従来では10年以上かかるはずだった新薬の開発を、彼女は一気に前倒しにしたのです」
「もし博士がいなかったら?」と別の記者が問う。
「新薬の完成は確実に10年以上遅れていたでしょう。その10年で失われる命、経済、教育、芸術、家族……想像するだけで恐ろしいことです」
再び沈黙が訪れる。
そして誰かが小さく呟いた。
「……歴史の表舞台には現れない英雄、ですね」
CEOはうなずいた。
「その通りです。湊博士の名は、歴史教科書には載らないかもしれない。けれど開発チームの誰もが口を揃えて言います。
彼女がいなかった世界など、想像するだけでゾッとする、と」
会場に静かな感慨が広がった。
そのとき、後方の記者が質問を飛ばす。
「博士の背景について、教えていただけますか?」
CEOは一瞬言葉を選び、それから笑みを浮かべて答えた。
「そうですね……、報道関係者の皆様へお願いがあります。湊博士は研究者であると同時に、ひとりの母親でもあります。
この会見でその存在を公表したのは、彼女の功績を正しく世界に伝えるためです。
しかし、過度な取材でプライバシーが侵害されることは望んでおりません。
科学的・技術的なご質問は今後、当社の広報部を通じてお願いいたします。
どうか、その点をご理解いただきたい」
一呼吸置いて、CEOは言葉を続ける。
「とはいえ、皆さんも直接本人の声を聞きたいことでしょう。
ここで湊博士に登壇していただきます。ただし、湊博士への取材はこの場限りとさせていただきます」
会場がざわめく。
フラッシュが一斉に焚かれ、壇上に姿を現したのは、落ち着いた雰囲気を纏うひとりの女性だった。
彼女は深く一礼し、静かにマイクの前に立った。
「湊 葵と申します。研究者としては独身時代から旧姓の朝日奈を名乗っております。
私の研究の原動力は、家族です。
特に、我が子が日々元気に過ごせる環境を守りたい。
その思いが、長い年月の研究を支えてくれました」
葵は言葉を選びながら、淡々と、しかし真心を込めて語った。
「もちろん、世界に貢献したいという気持ちもありました。けれどそれは、決して私自身の名声のためではありません。
人が生きる限り、必ず出会いがあります。
友情、恋愛、仕事──そうした一つ一つの出会いが人の繋がりを形づくり、世界を作るのだと思います」
葵は少しだけ視線を伏せ、それから優しく笑った。
「……私の両親も、ほんのささやかな出会いから始まったそうです。
けれどその小さな出会いが、やがて私に命を授けてくれました。人の出会いこそ奇跡だと私は信じています。私は、世界中にあるはずの出会いを守れたなら研究者として幸いです」
大きな拍手が会場を満たした。
誰もが息を呑みつつも、胸の奥で深く頷くような拍手だった。
彼女自身が言及したけれど、
2060年代に世界を救う湊 葵の存在を語るとき、その両親の瞬間的で偶然の、針の穴に糸を通すような奇跡の出会いを無視するわけにいかない。
2025年、真夏の渋谷。
スクランブル交差点のざわめきの中で、未来を大きく変える小さな出会いが生まれようとしていた。
が、その奇跡の瞬間を意図せず、知らぬ間に妨害してしまった二人がいる。
この物語は、葵が主役なわけではなく、
その両親の物語でもなく、
奇跡をぶち壊してしまった二人の物語だったりする。
真夏の渋谷の交差点から物語は静かに、
しかし確実に動き始める──



