第七章 名前のない記憶―
七月十八日。放課後。
教室には誰の声もなかった。
遠くで蝉が鳴いている。その音さえも、どこか遠くぼやけて聞こえる。
窓から差し込む斜陽が、椿の横顔をやわらかく照らしていた。
風も、音も、誰もいないはずの教室なのに──何かが確かにそこにあった。
椿は三番目の窓際の席を、じっと見つめていた。
「……変なの」
つぶやく声は小さく、でも確かに寂しさを帯びていた。
そこに、誰かがいた気がする。
名前も、顔も、思い出せない。けれど、心の奥が妙にざわつく。
胸にぽっかりと空いた、言葉にできない“空白”。
まるで大切な誰かを、無理やり忘れさせられたかのような、そんな喪失感だった。
指先が机の縁をなぞる。
少し削れた木の手触りが、なぜか懐かしかった。
思い出せない記憶は、夏の夕暮れのように、輪郭だけを残してゆっくりと滲んでいく。
「……ここに、誰かいたよね」
静かな教室に、椿の声だけが響いた。
◆ ◆ ◆
並木道に出ると、蝉の声が一段と近くに聞こえた。
夏の空気は重たく、焼けたアスファルトがゆらゆらと揺れている。
学校の帰り道、椿はふと立ち止まり、空を見上げた。
青い空に白い雲──どこまでも続いていくような世界。
けれど、その広さに比例するように、椿の胸の中には静かで深い寂しさがあった。
──赤いランドセル。
──夜空を見上げる横顔。
──「ひとりじゃないよ」と、そっと差し伸べてくれた手。
確かに、そんな記憶がある。けれど──名前が、ない。
呼びたいのに、呼べない。
届いてほしいのに、誰に届ければいいのかわからない。
まるで、“名前”という一本の糸を失くしてしまったようだった。
だから椿は、今日もその人の名前を呼べずにいた。
「……君の名前を、私はまだ知らないんだ」
ふと呟いた声が、自分でも驚くほど震えていた。
涙が零れそうになる。
理由なんてわからなかった。ただ、どうしようもなく、胸の奥が痛かった。
それは、何か大事なものが“失われてしまった”ことだけを、心が知っているから。
◆ ◆ ◆
七月二十四日。
その日は、湿った風が吹いていた。
放課後、誰もいない図書室。
椿はふとしたきっかけで、古い文献コーナーの一角に足を踏み入れていた。
棚の隅、埃をかぶった数冊のノートのうち、一冊が自然と手に取られた。
──『九条廉司』
その名前が、最初のページに記されていた。
ぱらぱらとページをめくっていくと、筆跡の違う文字が交じっている。
それは日記とも、詩ともつかない、不思議な言葉たちだった。
“誰かが誰かを思うとき、世界はその姿を記憶する”
“けれど、存在をかけた願いは、名前すら残さずに消えてしまう”
指が止まる。心臓が小さく跳ねた。
それは──今の椿の心そのものだった。
さらにめくると、最後のページに、震えるような文字が残されていた。
“彼の名前は、椿だけが思い出せる”
“その記憶が奇跡を起こす鍵になる──もしも、君が本気で願うなら”
「……私……知ってるの……?」
ノートを胸に抱きしめた瞬間、椿の中の何かが大きく揺れた。
胸が苦しいほど締め付けられる。
涙が止まらなかった。
「お願い……教えて……あなたの名前を……」
記憶の奥、曖昧な風景の先で、誰かがこちらを見つめている。
──僕は、ここにいるよ。
遠くから、懐かしい声が確かに聞こえた。
「……あ……」
椿の唇が、震えるように動いた。
声にならないほどの想いが、言葉へと変わる。
「……蓮……くん……?」
その瞬間──世界が、優しく揺れた。
光が差し込むように、すべてが少しだけ、柔らかくなった。
◆ ◆ ◆
目を開けると、椿は教室にいた。
けれど、どこかが違っていた。
机の配置、黒板の文字、空気の匂い。
黒板には、こう書かれていた。
──【2年2組 転入生歓迎】
動揺を押さえながら立ち上がったそのとき。
教室の扉が、静かに開いた。
「……失礼します。九条蓮です。今日から、ここに通います」
その声を聞いた瞬間、椿の胸が、張り裂けそうになった。
目の前に立っている彼は、記憶の中の彼と同じだった。
少しぼさぼさの前髪、涼しげな瞳。
そして、あの優しい声。
「……君は……」
蓮の目が、椿を捉える。
ほんの一瞬、ためらいのない微笑みが浮かんだ。
「久しぶり。……椿」
頬に、一粒の涙が伝った。
懐かしさと温もりが、胸いっぱいに溢れていく。
もう忘れたりしない。
もう失わない。
──彼は、戻ってきてくれた。
記憶のその先から、椿の“願い”に応えて。
「おかえり、蓮くん」
そう告げたとき、窓の外の入道雲がゆっくりと形を変えていた。
夏の匂いが、胸いっぱいに満ちていく。
世界は、まだ間に合う。
君が、“君の名前”を呼べたなら。
──第七章 了
七月十八日。放課後。
教室には誰の声もなかった。
遠くで蝉が鳴いている。その音さえも、どこか遠くぼやけて聞こえる。
窓から差し込む斜陽が、椿の横顔をやわらかく照らしていた。
風も、音も、誰もいないはずの教室なのに──何かが確かにそこにあった。
椿は三番目の窓際の席を、じっと見つめていた。
「……変なの」
つぶやく声は小さく、でも確かに寂しさを帯びていた。
そこに、誰かがいた気がする。
名前も、顔も、思い出せない。けれど、心の奥が妙にざわつく。
胸にぽっかりと空いた、言葉にできない“空白”。
まるで大切な誰かを、無理やり忘れさせられたかのような、そんな喪失感だった。
指先が机の縁をなぞる。
少し削れた木の手触りが、なぜか懐かしかった。
思い出せない記憶は、夏の夕暮れのように、輪郭だけを残してゆっくりと滲んでいく。
「……ここに、誰かいたよね」
静かな教室に、椿の声だけが響いた。
◆ ◆ ◆
並木道に出ると、蝉の声が一段と近くに聞こえた。
夏の空気は重たく、焼けたアスファルトがゆらゆらと揺れている。
学校の帰り道、椿はふと立ち止まり、空を見上げた。
青い空に白い雲──どこまでも続いていくような世界。
けれど、その広さに比例するように、椿の胸の中には静かで深い寂しさがあった。
──赤いランドセル。
──夜空を見上げる横顔。
──「ひとりじゃないよ」と、そっと差し伸べてくれた手。
確かに、そんな記憶がある。けれど──名前が、ない。
呼びたいのに、呼べない。
届いてほしいのに、誰に届ければいいのかわからない。
まるで、“名前”という一本の糸を失くしてしまったようだった。
だから椿は、今日もその人の名前を呼べずにいた。
「……君の名前を、私はまだ知らないんだ」
ふと呟いた声が、自分でも驚くほど震えていた。
涙が零れそうになる。
理由なんてわからなかった。ただ、どうしようもなく、胸の奥が痛かった。
それは、何か大事なものが“失われてしまった”ことだけを、心が知っているから。
◆ ◆ ◆
七月二十四日。
その日は、湿った風が吹いていた。
放課後、誰もいない図書室。
椿はふとしたきっかけで、古い文献コーナーの一角に足を踏み入れていた。
棚の隅、埃をかぶった数冊のノートのうち、一冊が自然と手に取られた。
──『九条廉司』
その名前が、最初のページに記されていた。
ぱらぱらとページをめくっていくと、筆跡の違う文字が交じっている。
それは日記とも、詩ともつかない、不思議な言葉たちだった。
“誰かが誰かを思うとき、世界はその姿を記憶する”
“けれど、存在をかけた願いは、名前すら残さずに消えてしまう”
指が止まる。心臓が小さく跳ねた。
それは──今の椿の心そのものだった。
さらにめくると、最後のページに、震えるような文字が残されていた。
“彼の名前は、椿だけが思い出せる”
“その記憶が奇跡を起こす鍵になる──もしも、君が本気で願うなら”
「……私……知ってるの……?」
ノートを胸に抱きしめた瞬間、椿の中の何かが大きく揺れた。
胸が苦しいほど締め付けられる。
涙が止まらなかった。
「お願い……教えて……あなたの名前を……」
記憶の奥、曖昧な風景の先で、誰かがこちらを見つめている。
──僕は、ここにいるよ。
遠くから、懐かしい声が確かに聞こえた。
「……あ……」
椿の唇が、震えるように動いた。
声にならないほどの想いが、言葉へと変わる。
「……蓮……くん……?」
その瞬間──世界が、優しく揺れた。
光が差し込むように、すべてが少しだけ、柔らかくなった。
◆ ◆ ◆
目を開けると、椿は教室にいた。
けれど、どこかが違っていた。
机の配置、黒板の文字、空気の匂い。
黒板には、こう書かれていた。
──【2年2組 転入生歓迎】
動揺を押さえながら立ち上がったそのとき。
教室の扉が、静かに開いた。
「……失礼します。九条蓮です。今日から、ここに通います」
その声を聞いた瞬間、椿の胸が、張り裂けそうになった。
目の前に立っている彼は、記憶の中の彼と同じだった。
少しぼさぼさの前髪、涼しげな瞳。
そして、あの優しい声。
「……君は……」
蓮の目が、椿を捉える。
ほんの一瞬、ためらいのない微笑みが浮かんだ。
「久しぶり。……椿」
頬に、一粒の涙が伝った。
懐かしさと温もりが、胸いっぱいに溢れていく。
もう忘れたりしない。
もう失わない。
──彼は、戻ってきてくれた。
記憶のその先から、椿の“願い”に応えて。
「おかえり、蓮くん」
そう告げたとき、窓の外の入道雲がゆっくりと形を変えていた。
夏の匂いが、胸いっぱいに満ちていく。
世界は、まだ間に合う。
君が、“君の名前”を呼べたなら。
──第七章 了



