第五章:存在しなかった少女
七月十五日、午後五時十七分。
夕暮れの陽が、教室の窓から差し込んでいた。
オレンジ色に染まった空が、誰もいない教室の空気を淡く照らす。
窓際の三番目の席。
そこだけが、時間に取り残されたように、静かだった。
僕は、無意識のうちにその席へと近づいていた。
──椿。
君は、本当に、ここにいたんだよね?
机の角に、小さな傷がある。
その傷に、そっと指を滑らせたとき、胸の奥にぎゅうっと締めつけられるような痛みが走った。
まるで、誰かに「そこには触れないで」と言われているかのように。
──もしくは、もう“そこには誰もいない”という事実を突きつけられているように。
◆ ◆ ◆
「“存在しないはずの人間が存在する”って、どういう意味なんだ……」
放課後の図書室。
誰もいない閲覧席で、僕は九条廉司の残したノートを開いていた。
彼は、かつてこの学校にいた天才的な数学者志望の生徒だった。
その彼が、卒業前に残したノートには、理解不能な数式とともに、“存在のバグ”についての記述があった。
椿という少女の出生記録。
住民票。
出席簿。
過去のSNS投稿──写真や日記までもが、少しずつ“世界”から消えていた。
それだけじゃない。
クラスメイトたちの記憶からも、椿という名前が抜け落ちている。
「……どうして、こんなことが……」
呟いた瞬間、脳の奥に、鋭く光が差し込むような感覚が走った。
──来る。
また、“未来の記憶”が、襲ってきた。
暗い廊下。
崩れた瓦礫の音。
泣き叫ぶ声。
椿が誰かに押し倒され、血を流して倒れている。
──そして、怒鳴り声。
「……選べよ!! お前の選択で、どっちかが死ぬんだよ!!」
気づいたとき、僕はその場に立っていた。
その「選ばされる場面」に、躊躇することもできず、ただ立ちすくんでいた。
未来の自分が、絶望の淵に立っていた。
◆ ◆ ◆
夜、自室のデスクで、僕は埃をかぶった古いアルバムを開いていた。
小学校の卒業写真。
中学の修学旅行の集合写真。
見慣れた写真の中に、違和感があった。
そこに“いたはずの誰か”が、影のように薄くなっている。
笑顔の隣に、違和感だけが空洞のように残っていた。
中には、完全に消えている写真すらあった。
人が消える、なんて非現実的なことが──現実として、起きていた。
椿の姿が、どの写真からも消えている。
──これは、“世界の修正”だ。
矛盾を抱えた存在。
時空の因果に反する存在は、自然に──まるで、風化するようにこの世界から削除されていく。
それは、誰にも逆らえない力だった。
神の意志でも、人の悪意でもない。
ただ、“そうなるようにできている”という事実だけが残る。
そして、その夜十時過ぎ。
僕のスマホに、一件の通知が届いた。
> 発信者:不明
> 「会いたい。——最後に、君に話したいことがある」
──名前はなかった。
けれど、僕には分かっていた。
椿だ。
◆ ◆ ◆
旧校舎──今は廃校となった音楽室。
誰もいないはずのそこに、月光が静かに差し込んでいた。
窓ガラスの割れた隙間から、夏の風が音もなく流れ込む。
その奥に、彼女は立っていた。
白いワンピース。
長い髪。
そして、どこか懐かしい笑顔。
「……久しぶり、だね」
その声が、僕の胸を貫いた。
「椿……本当に、君なのか……? どうして、君の記録が……記憶が、みんなから……」
彼女は、静かに微笑んだ。
その目に、わずかに影が差していた。
「私はね、本当は“存在しないはずの存在”だったの」
「……どういう意味……?」
「本来、この世界に生まれるはずじゃなかった。私は、“未来の副作用”──君が、あの日、ある選択をしたことで、生まれてしまった“別の可能性”」
時が止まったように、彼女の言葉が耳に響いた。
「君が、後悔しないように。失わないように。たった一つの未来じゃなくて、“もう一つの未来”を差し出すようにして、私はこの世界に現れたの」
「そんな……君が、“逃げ道”だって言いたいのか……?」
「ううん、違うよ。君が私を見てくれたこと、心を向けてくれたこと……それだけで、私はこの世界に“存在できた”って思えた。嬉しかったよ」
僕は、震える手で彼女の手を握った。
その手は、ひどく冷たかった。
まるで、今にも崩れてしまいそうな幻だった。
「お願い……椿。君が消えるなんて、もう耐えられない。未来なんて、どうだっていい。君がここにいてくれるなら──」
「だめ」
椿が、そっと僕の胸に顔をうずめた。
その声は、小さく震えていた。
「だめなの……。私がこの世界に長くいれば、その“代償”が君に降りかかる。時間の修正は、必ず“等価の対価”を求める。君が私を選べば、今度は……君が消える番になる」
それが、“存在の条件”。
この世界が、辻褄を合わせるためのルール。
「それでも……私は、君と過ごした時間が本当に幸せだった。夜に見た星空も、学校帰りに手を繋いだあの道も……全部、大切な宝物」
椿の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「だから、お願い。……君は、選んで。君が、後悔しない未来を」
僕の目からも、涙が止まらなくなっていた。
胸が、壊れそうだった。
──それでも。
選ばなければいけない。
椿は、そっと僕の頬にキスをした。
「ありがとう。君に、出会えてよかった。たとえ、君が私を忘れても……私は、どこかで、君の幸せを祈ってる」
その言葉とともに、彼女の体が淡い光に包まれていった。
夜空に消える流星のように──
「椿……っ!!」
僕は叫んだ。
けれど、その声は届かなかった。
彼女の姿は、もうどこにもなかった。
──第五章:了
七月十五日、午後五時十七分。
夕暮れの陽が、教室の窓から差し込んでいた。
オレンジ色に染まった空が、誰もいない教室の空気を淡く照らす。
窓際の三番目の席。
そこだけが、時間に取り残されたように、静かだった。
僕は、無意識のうちにその席へと近づいていた。
──椿。
君は、本当に、ここにいたんだよね?
机の角に、小さな傷がある。
その傷に、そっと指を滑らせたとき、胸の奥にぎゅうっと締めつけられるような痛みが走った。
まるで、誰かに「そこには触れないで」と言われているかのように。
──もしくは、もう“そこには誰もいない”という事実を突きつけられているように。
◆ ◆ ◆
「“存在しないはずの人間が存在する”って、どういう意味なんだ……」
放課後の図書室。
誰もいない閲覧席で、僕は九条廉司の残したノートを開いていた。
彼は、かつてこの学校にいた天才的な数学者志望の生徒だった。
その彼が、卒業前に残したノートには、理解不能な数式とともに、“存在のバグ”についての記述があった。
椿という少女の出生記録。
住民票。
出席簿。
過去のSNS投稿──写真や日記までもが、少しずつ“世界”から消えていた。
それだけじゃない。
クラスメイトたちの記憶からも、椿という名前が抜け落ちている。
「……どうして、こんなことが……」
呟いた瞬間、脳の奥に、鋭く光が差し込むような感覚が走った。
──来る。
また、“未来の記憶”が、襲ってきた。
暗い廊下。
崩れた瓦礫の音。
泣き叫ぶ声。
椿が誰かに押し倒され、血を流して倒れている。
──そして、怒鳴り声。
「……選べよ!! お前の選択で、どっちかが死ぬんだよ!!」
気づいたとき、僕はその場に立っていた。
その「選ばされる場面」に、躊躇することもできず、ただ立ちすくんでいた。
未来の自分が、絶望の淵に立っていた。
◆ ◆ ◆
夜、自室のデスクで、僕は埃をかぶった古いアルバムを開いていた。
小学校の卒業写真。
中学の修学旅行の集合写真。
見慣れた写真の中に、違和感があった。
そこに“いたはずの誰か”が、影のように薄くなっている。
笑顔の隣に、違和感だけが空洞のように残っていた。
中には、完全に消えている写真すらあった。
人が消える、なんて非現実的なことが──現実として、起きていた。
椿の姿が、どの写真からも消えている。
──これは、“世界の修正”だ。
矛盾を抱えた存在。
時空の因果に反する存在は、自然に──まるで、風化するようにこの世界から削除されていく。
それは、誰にも逆らえない力だった。
神の意志でも、人の悪意でもない。
ただ、“そうなるようにできている”という事実だけが残る。
そして、その夜十時過ぎ。
僕のスマホに、一件の通知が届いた。
> 発信者:不明
> 「会いたい。——最後に、君に話したいことがある」
──名前はなかった。
けれど、僕には分かっていた。
椿だ。
◆ ◆ ◆
旧校舎──今は廃校となった音楽室。
誰もいないはずのそこに、月光が静かに差し込んでいた。
窓ガラスの割れた隙間から、夏の風が音もなく流れ込む。
その奥に、彼女は立っていた。
白いワンピース。
長い髪。
そして、どこか懐かしい笑顔。
「……久しぶり、だね」
その声が、僕の胸を貫いた。
「椿……本当に、君なのか……? どうして、君の記録が……記憶が、みんなから……」
彼女は、静かに微笑んだ。
その目に、わずかに影が差していた。
「私はね、本当は“存在しないはずの存在”だったの」
「……どういう意味……?」
「本来、この世界に生まれるはずじゃなかった。私は、“未来の副作用”──君が、あの日、ある選択をしたことで、生まれてしまった“別の可能性”」
時が止まったように、彼女の言葉が耳に響いた。
「君が、後悔しないように。失わないように。たった一つの未来じゃなくて、“もう一つの未来”を差し出すようにして、私はこの世界に現れたの」
「そんな……君が、“逃げ道”だって言いたいのか……?」
「ううん、違うよ。君が私を見てくれたこと、心を向けてくれたこと……それだけで、私はこの世界に“存在できた”って思えた。嬉しかったよ」
僕は、震える手で彼女の手を握った。
その手は、ひどく冷たかった。
まるで、今にも崩れてしまいそうな幻だった。
「お願い……椿。君が消えるなんて、もう耐えられない。未来なんて、どうだっていい。君がここにいてくれるなら──」
「だめ」
椿が、そっと僕の胸に顔をうずめた。
その声は、小さく震えていた。
「だめなの……。私がこの世界に長くいれば、その“代償”が君に降りかかる。時間の修正は、必ず“等価の対価”を求める。君が私を選べば、今度は……君が消える番になる」
それが、“存在の条件”。
この世界が、辻褄を合わせるためのルール。
「それでも……私は、君と過ごした時間が本当に幸せだった。夜に見た星空も、学校帰りに手を繋いだあの道も……全部、大切な宝物」
椿の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「だから、お願い。……君は、選んで。君が、後悔しない未来を」
僕の目からも、涙が止まらなくなっていた。
胸が、壊れそうだった。
──それでも。
選ばなければいけない。
椿は、そっと僕の頬にキスをした。
「ありがとう。君に、出会えてよかった。たとえ、君が私を忘れても……私は、どこかで、君の幸せを祈ってる」
その言葉とともに、彼女の体が淡い光に包まれていった。
夜空に消える流星のように──
「椿……っ!!」
僕は叫んだ。
けれど、その声は届かなかった。
彼女の姿は、もうどこにもなかった。
──第五章:了



