第2章:彼女が消えた日 ―

 椿という少女が、「未来から来た」と名乗ったあの日。
 僕の時間感覚は、どこかで静かに狂い始めていた。
 それでも——彼女と過ごすひとときは、何もかもが鮮明で、美しかった。

 

 * * * 

 

 「未来って、冗談でしょ……?」

 放課後の帰り道。傘のいらない薄曇りの空の下、僕は椿と並んで歩いていた。
 川沿いの道には、まだ紫陽花が咲き残っている。雨に濡れたその花は、まるでガラス細工のように透き通って見えた。

 彼女は僕の言葉に、静かに首を横に振った。

 「ううん。本当だよ。信じてくれないのは、当然だと思う。でも……今日から少しずつ、証明していくね」

 そう言った彼女の瞳には、一片の迷いもなかった。
 むしろ、どこか悟ったような、覚悟に似た光が宿っていた。

 

 「……なんで、僕に会いに来たの?」

 少し歩いたところで、僕はそう訊ねた。
 河川敷のベンチに腰を下ろすと、椿は制服のポケットから折りたたんだ紙を取り出し、静かに僕に見せた。

 ——それは、一枚の写真だった。

 時を経て色あせたそれには、僕と彼女が並んで笑って写っていた。
 けれど、まるで記憶にはない。どこか遠い夢のようで、けれど確かに存在していた。

 

 「未来のあなたに——お願いされたの」

 「え……?」

 「春川光輝は、十年後に世界で最も大きな決断をするの。でも……それは、もう二度と戻れない選択になる。だから——」

 彼女の言葉が途中で止まった。
 伏せられた睫毛が、わずかに震えていた。
 夏のはじまりの風が、彼女の髪をやさしく揺らす。

 

 「君は……僕を止めに来たの?」

 僕の問いに、椿はゆっくりと首を横に振る。

 「……それはまだ言えない。ルールがあるから」

 「ルール?」

 「未来を変えることには制限がある。変えてはいけないこと、変えられないこと、そして——変えなければならないこと」

 その横顔を、僕はただ見つめていた。
 なぜだろう。怖くなかった。
 むしろ、遠い記憶の中で、彼女と何度もこうして語り合っていたような、懐かしい気持ちすらあった。

 

 * * * 

 

 その週末、僕たちはふたりで出かけた。
 特別な場所ではなかった。駅前の古本屋、小さな商店街、ちょっとレトロな喫茶店——でも、それはかけがえのない時間だった。

 

 「ここ、昔から変わらないんだね」

 喫茶店でアイスティーを口にしながら、椿はぽつりと呟いた。
 木目調のテーブル。壁には昭和の映画ポスター。ほんのり甘いバニラの香りが漂っている。

 

 「来たことあるの?」

 「うん、十年前にね。……あなたと」

 「え……?」

 「……ふふ、冗談。かもしれない」

 笑った彼女の横顔を、僕はじっと見つめた。
 その瞳には、どこか切なさがにじんでいた。
 まるで、何度もここに来て、何度も“別れ”を繰り返してきたような——そんな目だった。

 

 「光輝くん」

 「なに?」

 「この時間が、もう少しだけ続いてくれたらいいなって……思ってる」

 「……僕も、そう思うよ」

 それは、まるで夢のような午後だった。
 外では雨が降り出していたけれど、店内の空気はぬくもりに満ちていた。
 そのぬくもりが、彼女と過ごした記憶とともに、僕の中に残っていく。

 

 * * * 

 

 けれど次の日の朝——椿は来なかった。
 駅のベンチにも、学校の門の前にも。
 放課後の帰り道にも、彼女の姿は見当たらなかった。

 

 『未来から来た』なんて、やっぱり冗談だったのかもしれない——そう思いかけたとき、僕のスマホが震えた。

 差出人不明のメッセージ。
 表示されたのは、たった一行だけの言葉。

 

 ──“変化が始まった。気をつけて”──

 

 「……椿、なのか?」

 画面をタップしようとした瞬間、スマホが真っ白にフリーズした。
 再起動しても、メッセージは跡形もなく消えていた。

 

 * * * 

 

 その夜——僕は夢を見た。

 見知らぬ部屋。壊れたテレビ。白くひび割れた壁紙。
 そこに“僕”がいた。大人になった、どこか疲れた顔の僕が、カメラに向かって話しかけてくる。

 

 「——君がこれを見ている頃には、椿はもうこの時間軸にはいない」

 息が止まる。

 「彼女は、あのとき、代償を払って君のもとに行った。未来のすべてを犠牲にして——だから、彼女を今度こそ救ってくれ」

 画面の“僕”は、何かをこらえるように目を伏せる。

 「……君はもう、運命の分岐点に立っている」

 そう告げると、映像はノイズにまみれ、やがて白く消えていった。

 

 * * * 

 

 朝、目が覚めたとき、心臓は早鐘のように鳴っていた。
 夢の中の“僕”の声は現実そのもので、耳の奥にずっと残っていた。

 

 椿は——いない。

 それでも、彼女の記憶は確かに僕の胸の奥に焼きついていた。
 あの声も、手のぬくもりも。名前を呼ばれたときの感覚も。
 彼女がいた日々は、ただの夢ではなかった。そう確信できた。

 

 日常の中に、違和感が混じりはじめた。
 授業で出てくる覚えのない数式。校内放送に流れる未来の日付。
 それらすべてが、何かの“前兆”のように思えた。

 

 ——春川光輝は、十年後に世界で最も大きな決断をする。

 椿がそう言った意味を、僕はまだ知らない。
 でも、もう逃げられない。彼女が消えた理由を、知るために。

 

 * * * 

 

 夜。
 部屋の机の引き出しを開けたとき、そこに見慣れない封筒が置かれていた。

 中には、一冊のノートと、一枚の便箋。

 

 《光輝へ。
 もしこれを見つけたなら、すべてを話せる日が近い。
 私はあなたの“過去”を変えるために来た。
 だけど、本当は——
 あなたの“未来”を守りたかったんだ。
 
 椿より》

 

 便箋が震えていた。
 僕の指先も、ゆっくりと震えていた。

 ——椿は、この世界の“どこか”に、まだ存在している。
 ただし、それは僕が知っている時間ではない。

 

 君は、未来の何を知っているの?
 君が消えたその理由を——僕はこれから、知ることになる。

 

——第2章:了