第1章:記憶より来たる君へ―
たとえば、目の前に立っている女の子が、自分の未来を知っていたとしたら。
それが、決して変えることのできない運命だったとしても——君は信じるだろうか。
* * *
六月の空は、まだ梅雨の名残を引きずっていた。
湿り気を含んだ風が頬をなで、雲の隙間から差す陽の光は、まるでどこか遠くの出来事のようにぼんやりとしている。
濡れたアスファルトの匂いが、足元の水たまりに残った昨日の雨を思い出させた。
僕——春川光輝(はるかわこうき)は、いつものように登校していた。
ただの平日の朝。通い慣れた通学路。
ふと、前方に人影が見えた。
白いシャツの袖が風に揺れ、その人影はまるで時間の流れから置き去りにされたかのように、ひとり静かに立っていた。
「……あれ?」
見慣れない女の子だった。
この町の高校生なら、顔くらいは見覚えがあるものだ。すれ違うだけでも、自然と記憶に刻まれる。
黒髪のショートボブ。透明感のある白い肌に、きりりと整った顔立ち。
両手には何冊かの薄い文庫本が抱えられており、制服のリボンは僕と同じ深藍色。けれど、彼女の存在は、どこか現実離れしていた。
まるで、映画のスクリーンから抜け出してきたヒロインみたいだった。
そんな彼女が——僕を、じっと見つめていた。
目が合った。
正確には、彼女は最初から僕を見ていたのだ。
すっと、まっすぐに伸びたその視線に、僕の足が自然と止まった。
「……おはよう」
その声は、静かに、でも確かに僕に向けられていた。
「え……?」
「久しぶり。やっと、また会えたね」
僕の頭の中で、何かがざわついた。
声の響きに、記憶の奥底が震えるような感覚。
でも、思い出せない。彼女が誰なのか、何ひとつ心当たりはなかった。
「……ごめん、僕……君のこと、知らないと思うけど……」
そう口にすると、彼女はほんの少しだけ、瞳を伏せて微笑んだ。
「うん。そうだよね。でも、私は知ってる。あなたのこと。……全部」
* * *
その日。
名前も知らない女の子との出会いは、ただのすれ違いになるはずだった。
ただの通学路、ただの朝——けれど、それは確かに、運命のはじまりだった。
◆
「ねえ、光輝。朝から誰と話してたの?」
昼休みの教室。窓際の席で弁当を広げている僕の前に、一ノ瀬紗耶(いちのせさや)がやってきた。
紙パックのミルクティーを吸いながら、いたずらっぽく首をかしげている。
「……え? 誰って……その、知らない子」
「ふぅん? 知らない子と話してたの?」
「うん。なんか、向こうから話しかけてきて……。『全部知ってる』とか言ってた」
「へぇー……」
紗耶は僕の顔をじっと見つめ、机に頬をのせた。
その目がじわじわと細められていく。何か言いたげな顔だ。
「まさか、ナンパ?」
「ちがうって!」
「だよねー。光輝にナンパされても、説得力ないし」
「おい」
紗耶はクスクスと笑い、窓の外を指差した。
薄曇りの空に、光が少しだけ差し込んでいた。
「でもさ、もしその子が未来から来たとか言い出したら——」
「……え?」
「絶対、その話、乗っかってあげなよ。後悔しないようにね」
一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。
でも「未来」——その一言が、なぜか胸の奥に引っかかった。
◆
放課後。
校門を出ると、彼女はそこにいた。
まるで、朝からずっとその場所で僕を待っていたかのように、静かに立っていた。
制服はやはり、僕と同じ。けれど、どのクラスを思い返しても、彼女の姿はなかった。
「また……会ったね」
優しく微笑むその表情は、まるで懐かしい誰かを見つけたようだった。
「名前、聞いてもいい?」
「うん。……私は、“椿”っていうの」
「椿……さん。僕は、春川光輝」
その瞬間、彼女の目が大きく揺れた。
瞳の奥に、光がきらりと差し、そして小さく震えた。
それは、久しぶりに聞いた大切な名前に触れた人のような——もしくは、長く封じ込めていた記憶がほどけた瞬間のようだった。
彼女は小さな声で、ぽつりとつぶやいた。
「——やっぱり、変わってないね。あの日のままだ」
「え……?」
「光輝くん。……私は、十年後の未来から来たの」
その声は、真昼の風よりも静かだった。
でもその一言が、僕の世界の“色”をすっかり塗り替えてしまった。
* * *
君の名前も、記憶も、すべてはまだ霧の向こうにある。
それでも、確かに今、君は僕の目の前に立っている。
僕はまだ、君の“全部”を知らない。
けれど——
この日から、運命の時計は確かに動き始めた。
——第1章:了
たとえば、目の前に立っている女の子が、自分の未来を知っていたとしたら。
それが、決して変えることのできない運命だったとしても——君は信じるだろうか。
* * *
六月の空は、まだ梅雨の名残を引きずっていた。
湿り気を含んだ風が頬をなで、雲の隙間から差す陽の光は、まるでどこか遠くの出来事のようにぼんやりとしている。
濡れたアスファルトの匂いが、足元の水たまりに残った昨日の雨を思い出させた。
僕——春川光輝(はるかわこうき)は、いつものように登校していた。
ただの平日の朝。通い慣れた通学路。
ふと、前方に人影が見えた。
白いシャツの袖が風に揺れ、その人影はまるで時間の流れから置き去りにされたかのように、ひとり静かに立っていた。
「……あれ?」
見慣れない女の子だった。
この町の高校生なら、顔くらいは見覚えがあるものだ。すれ違うだけでも、自然と記憶に刻まれる。
黒髪のショートボブ。透明感のある白い肌に、きりりと整った顔立ち。
両手には何冊かの薄い文庫本が抱えられており、制服のリボンは僕と同じ深藍色。けれど、彼女の存在は、どこか現実離れしていた。
まるで、映画のスクリーンから抜け出してきたヒロインみたいだった。
そんな彼女が——僕を、じっと見つめていた。
目が合った。
正確には、彼女は最初から僕を見ていたのだ。
すっと、まっすぐに伸びたその視線に、僕の足が自然と止まった。
「……おはよう」
その声は、静かに、でも確かに僕に向けられていた。
「え……?」
「久しぶり。やっと、また会えたね」
僕の頭の中で、何かがざわついた。
声の響きに、記憶の奥底が震えるような感覚。
でも、思い出せない。彼女が誰なのか、何ひとつ心当たりはなかった。
「……ごめん、僕……君のこと、知らないと思うけど……」
そう口にすると、彼女はほんの少しだけ、瞳を伏せて微笑んだ。
「うん。そうだよね。でも、私は知ってる。あなたのこと。……全部」
* * *
その日。
名前も知らない女の子との出会いは、ただのすれ違いになるはずだった。
ただの通学路、ただの朝——けれど、それは確かに、運命のはじまりだった。
◆
「ねえ、光輝。朝から誰と話してたの?」
昼休みの教室。窓際の席で弁当を広げている僕の前に、一ノ瀬紗耶(いちのせさや)がやってきた。
紙パックのミルクティーを吸いながら、いたずらっぽく首をかしげている。
「……え? 誰って……その、知らない子」
「ふぅん? 知らない子と話してたの?」
「うん。なんか、向こうから話しかけてきて……。『全部知ってる』とか言ってた」
「へぇー……」
紗耶は僕の顔をじっと見つめ、机に頬をのせた。
その目がじわじわと細められていく。何か言いたげな顔だ。
「まさか、ナンパ?」
「ちがうって!」
「だよねー。光輝にナンパされても、説得力ないし」
「おい」
紗耶はクスクスと笑い、窓の外を指差した。
薄曇りの空に、光が少しだけ差し込んでいた。
「でもさ、もしその子が未来から来たとか言い出したら——」
「……え?」
「絶対、その話、乗っかってあげなよ。後悔しないようにね」
一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。
でも「未来」——その一言が、なぜか胸の奥に引っかかった。
◆
放課後。
校門を出ると、彼女はそこにいた。
まるで、朝からずっとその場所で僕を待っていたかのように、静かに立っていた。
制服はやはり、僕と同じ。けれど、どのクラスを思い返しても、彼女の姿はなかった。
「また……会ったね」
優しく微笑むその表情は、まるで懐かしい誰かを見つけたようだった。
「名前、聞いてもいい?」
「うん。……私は、“椿”っていうの」
「椿……さん。僕は、春川光輝」
その瞬間、彼女の目が大きく揺れた。
瞳の奥に、光がきらりと差し、そして小さく震えた。
それは、久しぶりに聞いた大切な名前に触れた人のような——もしくは、長く封じ込めていた記憶がほどけた瞬間のようだった。
彼女は小さな声で、ぽつりとつぶやいた。
「——やっぱり、変わってないね。あの日のままだ」
「え……?」
「光輝くん。……私は、十年後の未来から来たの」
その声は、真昼の風よりも静かだった。
でもその一言が、僕の世界の“色”をすっかり塗り替えてしまった。
* * *
君の名前も、記憶も、すべてはまだ霧の向こうにある。
それでも、確かに今、君は僕の目の前に立っている。
僕はまだ、君の“全部”を知らない。
けれど——
この日から、運命の時計は確かに動き始めた。
——第1章:了



