日本で4番目に大きい湖とされるその湖は、東北地方のとある片田舎の町にある。
別名『天鏡(てんきょう)湖』と言われるその水面の美しさ。水質は元々は酸性だったが、近くを流れる複数の川の水が絶え間なく流れ込む事によって、今はほぼ中性の状態を保っていた。
その、空を映す鏡のような美しい湖に、夏になると睡蓮の花が現れるようになったのはここ数年の出来事だった。
睡蓮の季節は夏。理屈としては通るけれども、大きな湖いっぱいに深緑色の丸い葉と、青やピンク、白や黄色と言った睡蓮の花が浮かんでいるのは、既に美しいを超えて畏怖すら感じる迫力だった。
僕達研究者はその睡蓮の花や葉を採り、湖底の泥をさらって研究を続けているが、
謎だった。
何故、この湖に睡蓮の花が現れ始めたのか -
「今日も、あふれんばかりに咲いてるな」

「そうですね」
僕がラボの窓から湖を眺めていると。バーコード先輩が、コーヒーの入ったプラスチックの黒いマグカップを渡してくれた。
「春、秋、冬は、通常の『天鏡湖』なんですけどね」
僕はありがとうございます、と言って、そのコーヒーをすする。
鼻腔をくすぐる深い香りと舌に感じる苦味で、頭の芯がだんだんすっきりして来る。
「夏になると『睡蓮湖』ですね」
今や、地元の人間達は、この夏の『睡蓮湖』を観光化していて、夏休みになればどっとまた今年も客が集まるだろう。
今までだったら湖水浴客で賑わっていた真夏の風物詩にいつの間にか、
睡蓮の合間を縫う小さな舟が幾つも湖に浮かぶようになっていた。

今はまだ舟の数はそれ程多くはないが、夏になればどこからそんなに現れるのか、と言うぐらい観光客がドッと押し寄せる。海外からも。
この町には休火山もあり、その山の裏には美しく五色に染まる沼もあれば、小さな美術館や博物館もある。電車で20分から25分も行けば少し大きな都市がある。そこは歴史ある城下町だ。
かつて、この国を未曾有の災害が襲ったその爪痕も今や遠く忘れ去られた歴史の教科書の一コマ。

「彼女、どこで見つかったんですか?」

少し冷めたコーヒーを一気に飲み干して僕は先輩に聞いた。
「『スイ』か」
「『スイ』?」
先輩は、飲み終わったカップを手にしたまま湖を見下ろした。
「網に掛かって来たんだよ。被検体の魚を浚っている時に」
今や、人魚も網に掛かる時代らしい。
僕はちょっと溜息をついて、その場を後にした。