藤堂家のメイドとして働きはじめてから、ニ週間。
気がつけば、新緑の瑞々しさがまぶしくなってきた。
紅茶を淹れてお出しする以外にも、掃除、洗濯、お使いなどすこしずつ業務の幅が増えてきた。
でも、婚約者が誰なのかという重要問題は、まったく進展していない。
お母さんを問い詰めたんだけど、『え〜! 婚約者って枠組みにとらわれずに、相手の人となりを知ることがメイドさんのふりをする目的でしょ〜? この際、誰が婚約者なのか当ててみなさい!』とか言い出して、かたくなに教えてくれなかったんだよね……。
律お兄ちゃんに関しては『ひよりー、お兄ちゃんは毎日心配だよーーー。本当に大丈夫? 嫌だったら、藤堂家のメイドなんていつでもやめていいんだよ?? 藤堂玲央にいじめられたりはしていない?』と本気で心配していた。
『ちなみに、お兄ちゃんから見た玲央さまってどんなひとなの?』
『さ、さま!? あいつにさま付けとかぜっっったいにいらないから!!』
『でも、業務で間違って答えたら、困るから』
『うわ、ひよりにメイドしてもらってるとかうらやまし死ぬんだが……』
『お兄ちゃん。話が進んでない』
『あいつの印象〜? 女子は完ぺきすぎて近寄りがたいって言ってたけど、僕から見たら、いけすかねえ男!!』
『なるほど……』
それに関しては同意見かも。
三兄弟とは、そこそこ関わっている。
男の子が苦手なのは変わらないけど、業務となるとそうも言っていられないからね。
陽人さまに「ひなさん一緒に遊ぼー! えっ、業務中……? じゃあ、僕と遊ぶこともお仕事にいれてよ〜」とあざとくせがまれて、すみれさんも交えて一緒にボードゲームをしたり。
玲央さまに、「専属メイドの話、考えてくれた? あははっ、そんな毎回即却下しなくてもいいじゃん! 俺も、失敗したときにはちゃんと助けてあげるよ? 悠真みたいにさ」とニヤニヤしながらからかわれたり……。
そういえば昨日は、ある部屋の前で、静かに扉を見つめている悠真さまに遭遇した。
ぜんぜん動かないから、思わず気になって『入らないのですか?』と声をかけたら、『! いや、……なんでもない』と立ち去ってしまったんだ。
その様子が妙に気になって、あとからすみれさんに尋ねてみた。
『あの部屋? あそこは音楽室だよ! 大きいグランドピアノが置いてあるの。定期的に掃除には入るけど、誰も使っていないから、比較的いつも綺麗だよ』
『誰も使わないのにグランドピアノが……?』
『あー……。あたしも気になって先輩に聞いたんだけど、昔は、悠真さまが弾いていたらしいよ。小学時代はすごく上手で、コンクールでも活躍していたみたいだけど……どうして弾かなくなっちゃったんだろうね』
なるほど、昔はピアノを弾いていたんだ。
頭の中を、一瞬、悠真さまがグランドピアノを華麗に弾きこなす映像がよぎった。
悠真さまは、ピアノを弾く姿も絵になるんだろうな。
って、わたしってば、なに考えてるの……。
でも、コンクールで活躍するほどだったのに、どうしてやめちゃったんだろう?
まぁ、藤堂家ではあくまでも一メイドでしかないわたしが悠真さまとそんな話をする機会は一生こないだろうけど。
すこしさびしそうに見えた悠真さまのことが、すこしだけ気にかかったものの、その日はまた仕事に戻ったのだった。
週末、日曜日の出勤の日。
早速ちょっと困ったことが起きた。
「うーん。この買い物のリストの量、ひとりで持ち帰れるかな……?」
嶋さんから渡された買い物リストのメモを見つめたまま、不安な気持ちになってくる。
紅茶の茶葉に、小麦粉、砂糖、バターetc。
あと、急きょ陽人さまから、追加で頼まれたいちごも!!
今日はもともと、すみれさんと二人で一緒にお使いにいく予定だったんだけど、急きょすみれさんがお家の事情で早退になってしまったんだ。
すみれさんを不安にはさせたくなかったから、大丈夫です、と答えたものの、想像以上の量だったな。
他の先輩メイドもみんな忙しそうで、同行を頼める空気ではない。
「うーん……」
メモを見つめたまま、いっそお店と屋敷を二往復するか悩んで廊下に立ちどまっていたら、思わぬ人物に声をかけられた。
「どうかした?」
悠真さまだ。
まさか声をかけられるとは思わなくて、内心ドキッとしてしまう。
「……いえ、なんでもないです」
まさか、主人の立場の彼に、同行を頼むわけにはいかない。
事態を悟られぬよう、後ろ手にメモをさっと隠したら、さすがにもう興味を失くすだろうと思ったんだけど……、彼は、あろうことか周りこんできて、メモを盗んでいってしまった。
「ちょっ、なにするんですか! 返してください!」
「……これ、買い物のメモ?」
「そうですけど!」
「一人で持てる量に見えないけど」
「なんとかします。お仕事なので」
悠真さまは、黙ってわたしの顔をじっと見つめてきた。
彼の、黒曜石みたいにきれいな瞳に見つめられると、すこし緊張してしまう。
なにもかもを全て見透かされそうで。
「な、なんですか?」
「オレも行く」
「えっ」
予想外すぎる発言に、驚いて固まると。
悠真さまは、言い訳をするように言葉をつないだ。
「もともと、暇つぶしに外には出ようと思ってたし。運ぶの、手伝う」
「で、でも……、これはわたしの仕事だし、悠真さまの手をわずらわせるわけには」
「大丈夫。……もっと、きみと話してみたかったから、いい機会だし」
話してみたかった?
意味深な言葉にドキッとする。
「どういう意味ですか?」
「……同い年なのに、一生懸命まじめに働いていてすごいなって思ってた。立場の違いで丁重に接してくれているのは伝わるけど、オレには、もうすこし気楽に接してもらって大丈夫だから」
思いがけない発言に、また胸がそわそわとする。
素直にうれしい。
口数の少ない彼が、そんなふうに思ってくれていたことは、すごく意外だ。
わたしがあまりにも目をぱちくりとさせていたからだろうか。
悠真さまは、ふいっと視線をはずして、早口で言った。
「……とにかく、きみについていくのは、もう決めたことだから。これは、オレからの命令だよ」
命令って。
そんなにやさしい命令がある?
「ふふっ。悠真さまも、冗談を言ったりするんですね」
思わず笑いがこぼれた。
そしたら、彼はハッとしたようにわたしを見つめてきて……、
「……もっと笑えばいいのに」
あまりにもやさしく微笑んだから、胸が痛いほど高鳴った。
悠真さま。それはわたしの台詞です!
その微笑み、心臓を撃ち抜く力が半端ないです。無闇に振りまいてはいけませんよ……!
買い物の最中もいろいろな意味でドキドキしてしまった。
悠真さまは、なにかと重たい荷物をスマートにさらっていってしまうのだ。
『わたしの仕事なので!』と主張してみても、『ぜんぶきみが持ったら、オレがついてきた意味がないでしょ。大体そのメモの量、絶対一人じゃ持ちきれないから』とつっぱねられてしまった。
紅茶をこぼしそうになったときも思ったけど、もしや、やっぱり女の子慣れしている……?
だとしたら、なんか、胸のあたりがモヤモヤする。
どうしてこんな気持ちになるんだろう。
わたしは、彼が婚約者だったときに、ふさわしくない理由を探しているのに。
それに、もう一つ困ったことがあった。
「ねえ。あの黒パーカーの男の子、ちょーーかっこよくない?」
「それ! かっこいいし、透明感やばすぎ! 隣の女の子もかわいいけど、なんかお手伝いさんっぽい服装だよね〜?」
「もしかして、御曹司さまだったり!? きゃーっ、あの見た目でお金持ちとかやばすぎ!」
悠真さま、外を歩いていても、建物内を歩いていてもとにかく目立ちすぎる…!!
たしかに、彼には気品がある。黒のパーカーに白シャツという何気ない格好でも思わず目を引くほどかっこいい。
ただでさえ注目されてしまう悠真さまの隣をメイド服姿で歩くのは完全に失敗だった!
「申し訳ございません。わたしが仕事着で来たばかりに、余計な注目を集めてしまって」
「ううん、オレのほうこそごめん。……考えなしだった。嫌な思いをしてない?」
「大丈夫ですよ。悠真さまが気分を害されてさえいなければ、わたしは問題ないので」
「じゃあ、ちょっと問題かも」
思わぬ返しに、どう返答しようか迷ったら。
彼は、すねたように頬をふくらませた。
「……オレには、もっと気楽に接していいって、さっき言ったでしょ。なのに……、なんか思ってたのとちょっと違う空気になってる気がして」
なにそれ!
いきなりそんな風にすねられても、ドキドキして困るんですけど……!
これ以上、わたしのペースを乱されたくはない。
「悠真さま。わたしは、ただのメイドですよ?」
「……ほんとうに?」
なんで。
どうして、そんな風に聞くの?
ほんとはドキドキしてるけど、絶対にそれを悟られてはいけない。
「それ以外に、なにがあるんですか」
悠真さまは、視線をはずして言った。
「ごめん。……変なこと言った、忘れて」
それからすこし無言が続いて気まずかったけど、あるお店の前で彼が足を止めた。
「ねえ、疲れていない? あのカフェで、すこし休憩していこうよ」
よりにもよって、咲月堂のカフェ。
悠真さま、もしかしてわたしのこと、勘づいてるとかじゃないよね?
ヒヤヒヤしながら、すこし距離をとる。
「……わたしは勤務時間中ですので」
「陽人とはボドゲしてたのに、オレには付き合ってくれないの?」
うっ。痛いところをついてくるなぁ!
これ以上抵抗しても、話がややこしくなりそうだ。ここは諦めて彼の意向に従おう。
「わかりました。悠真さまの仰せのままに」
一緒に店内に入り、向かいあっている席に腰かけて、メニュー表を眺める。
偶然とはいえ、まさか、自分の家が経営している店舗に悠真さまと入ることになるなんて……。
さすがに家の関係者が直接カフェでは働いていないだろうから、わたしだって気がつかれることはないと思うけど、妙に緊張してしまう。
彼は、もちろんそんな事情を知る由もなく、すっとメニュー表を指さした。
「決めた」
「早いですね」
「これにする」
悠真さまが選んだのは、兜をモチーフにした上生菓子だった。
「兜……? なるほど、子どもの日を意識しているんですね」
「うん。なんか、見た目がかわいいと思って」
意外な発言に思わず顔を見たら、彼は白い頬をほんのりと赤く染めた。
「……理由、子どもっぽいって思った?」
たしかに意外ではある。
陽人さまだったら、テンション高く「これにする!」って言いそうだけど……。
なんか、かわいいな。
無意識で口元がゆるまないよう、気をひきしめる。
「そんなことないです。……その、いいと思います」
「ふふっ、なにそれ。じゃあ、きみはどうするの?」
「わたしは、お茶だけで大丈夫です」
「せっかくなのに、和菓子を頼まないの? ここの和菓子、美味しいのに」
悠真さまは、咲月堂の和菓子を気にいってくれているんだ。
でも……。
「大丈夫です。和菓子は、得意ではないので」
「そう」
深入りはされなかったけど、なんとなく気まずい空気が漂う。
彼の立場なら、どうして? と気軽に尋ねられるはずだ。
でも、あえてそうしないところに、繊細なやさしさが透けて見えた。
単にわたしへ興味がないだけとも取れるけど……、本当にそうだとしたら、そもそも二人でこんな場所には来ていないだろう。
気にはなるけど、話したくないことをわざわざ話させないという、彼なりの気遣いなんだと思った。
悠真さまが頼んだ兜の生菓子がやってきたとき、自然と言葉がこぼれた。
「あの……。差し支えなければ、すこしだけ、聞いていただいてもいいですか?」
運ばれてきた生菓子へ向いていた彼の視線が、わたしの自然と交差する。
いつ見ても、きれいな瞳だ。
慣れない。こうやって直視されると、やっぱり緊張する。
「うん。きみが話したいのなら、ぜひ聞かせて」
真っ直ぐな答えに、安心した。
そんな、不器用だけどとてもやさしい心を持つ悠真さまにだからこそ、聞いてほしいと思ったのかもしれない。
「わたしの友達の話なんですけど……、和菓子屋に生まれたにも関わらず、和菓子が苦手という子がいるんです。和菓子を食べると甘ったるくて、胸がつまるような感じがするといって」
「うん」
今さらだけど、この言い方じゃ、わたし自身の話だってバレバレかな……?
でも、つっこまれてはいないし、今さら話を止めるのもヘンだよね。
気をとりなおして、話を続ける。
「その子は、その家に生まれたせいで、好きなひとから避けられたことがあるんです。和菓子を見ると、その苦い思い出が蘇るから嫌いだと言っていました」
悲しくて胸の奥に封じこめた、小学時代の記憶だ。
家の近くの公園で、仲良くなった男の子がいた。
当時はお嬢さま学校に通っていたわたしにとって、やんちゃで突飛なことをする彼はとても新鮮に映って。わたしは彼に初恋をした。
だから、思いきって告白をしたんだけど……、『お嬢さまとは、住む世界が違うから』とあっさり振られてしまったんだよね。
和菓子を見るたびに、胸がつまるような気持ちがするのはあのときからだ。
男の子や、恋に、苦手意識を持つようになったのも。
悠真さまが想像以上に真剣な顔をしていて、なんだか気恥ずかしくなってきた。
「えっと……友達にその話を聞いてから、わたしも和菓子を見るとフクザツな気分になるんです。こんな話を突然して、すみません」
安心して吐き出しちゃったけど、こんなに話したら勘づかれちゃうかな?
急に、彼の反応が気になって、不安になってくる。
怖さのあまり目をつむったら、意外な言葉が飛んできた。
「そうなんだ。こんなに甘くておいしいのに、もったいない」
えっ?
思わずポカンとしながら目をあけたら、悠真さまは、自分の頼んだ生菓子を半分に切った。
そして、あろうことか、わたしの口元に差し出してきたんだ。
えええっ!?
「確認だけど、きみ自身が、味が嫌いなわけではないんだよね?」
「は、はい」
「じゃあ、食べてみて」
な、なにこれ。
あーん……ってこと?
顔がカッと熱くなる。
は、恥ずかしい。
普段のわたしなら、絶対に拒否する!
でも、今のわたしは彼のメイドだ。
どんなに恥ずかしくても、逆らったりはできない。
「いただきます」
思いきって、ぱくりと口にした瞬間、こしあんの上品な甘さが口に広がった。
すごく、美味しい。
幸せな気持ちがする。
咲月堂の和菓子を食べたのなんて、何年ぶりだろう……?
うちのお菓子って、こんなに美味しいんだっけ。
あまりの美味しさに、驚いて呆けてしまう。
「どう?」
「……想像以上に美味しくて、びっくりしました」
素直な感想を口にしたら、悠真さまはホッとしたようにやさしく笑った。
「そう。じゃあ、今日から、和菓子を見たらいまのことを思い出してみて」
「えっ!?」
い、いまのことって……あーんってこと!?
内心、頭から湯気が上がりそうなくらいに動揺しているのに、彼は、わたしの気なんて知らずにさらりと告げた。
「味が嫌いなわけじゃないのに、思い出のせいで嫌いになってるのは損してると思う。苦い過去を引きずるより、美味しかったっていう今の記憶に塗り変えたほうが気持ちが楽じゃないかな。きみの友達にも、そう伝えて」
ドキリと、心臓が大きく飛び跳ねる。
言葉も継げないわたしに、悠真さまは続けた。
「家に抱く複雑な気持ちも、わかるよ。どこにいっても、ついて回るしね」
胸の高鳴りが止まらない。
この激しい鼓動が、目の前の彼にまで聞こえてしまいそうで、怖くなるくらいだ。
共感の言葉をもらえたことにビックリして……。
自分で思っていた以上に、うれしかったんだ。
「……ありがとう、ございます」
和菓子が嫌いだという頑なだった気持ちがあっという間にほろほろと溶けて、すこし泣きそうにすらなる。
そうだ。
昔は、うちの和菓子が、大好きだった。
こんなたまらない気持ちにさせるなんて、悠真さまはとてもズルい。
クールでなにを考えているのかわかりづらいように見えて、ほんとはとてもやさしいひと。
ねえ。あなたは誰にでもこんなにやさしいの?
それとも、わたしだから……とか?
いやいや、思考回路が少女マンガの読みすぎ! 大体、婚約なんて困るんだから、彼の欠点を探さなきゃいけないんでしょ。
あれ。
婚約したら……本当に、困るのかな?
自分で自分の感情に戸惑って動揺していたら、突然、悠真さまが店内を見回した。
ふわふわとした空気から一転して、急にピリリとした緊張感が走る。
「どうかされましたか?」
「いや、なんでもない。誰かにしつこく見られているような気配がしたけど、気のせいかな」
……? なんだろう。
わたしも店内を見回したけど、見るからに怪しそうな人物はいなかった。
まぁ、彼にはファンが多そうだから、中には変わったひともいるのかもしれない。
「気のせいだといいのですが。いざというときは、わたしが悠真さまをお守りしますね」
気がつけば、メイドとしての性分からだけではなく、心からの言葉として発していた。
悠真さまは切れ長の瞳を驚いたようにまたたいて、微笑んだ。
「ありがとう。オレも、なにかあったときには、きみのことを守るよ」
後日。
すみれさんに、悠真さまと一緒に帰ってきたって他のメイドに聞いたよ! と言われて大変だった。
彼女から出てきたのは、主人に雑用をさせるなんて! というお叱りの言葉ではない。
「きゃーーーっ! 悠真さまと一緒に買い物にいってきたの〜〜!? えっ、どうしてそんな流れになったの? ってか、なんか顔が赤くないーっ!? ねえ、ひなちゃんもしかして、本気で悠真さまに恋に落ちちゃった!? 身分差の恋の始まりだったり!!」
すみれさんの興奮をしずめるのが一番大変だったことは言うまでもない。
気がつけば、新緑の瑞々しさがまぶしくなってきた。
紅茶を淹れてお出しする以外にも、掃除、洗濯、お使いなどすこしずつ業務の幅が増えてきた。
でも、婚約者が誰なのかという重要問題は、まったく進展していない。
お母さんを問い詰めたんだけど、『え〜! 婚約者って枠組みにとらわれずに、相手の人となりを知ることがメイドさんのふりをする目的でしょ〜? この際、誰が婚約者なのか当ててみなさい!』とか言い出して、かたくなに教えてくれなかったんだよね……。
律お兄ちゃんに関しては『ひよりー、お兄ちゃんは毎日心配だよーーー。本当に大丈夫? 嫌だったら、藤堂家のメイドなんていつでもやめていいんだよ?? 藤堂玲央にいじめられたりはしていない?』と本気で心配していた。
『ちなみに、お兄ちゃんから見た玲央さまってどんなひとなの?』
『さ、さま!? あいつにさま付けとかぜっっったいにいらないから!!』
『でも、業務で間違って答えたら、困るから』
『うわ、ひよりにメイドしてもらってるとかうらやまし死ぬんだが……』
『お兄ちゃん。話が進んでない』
『あいつの印象〜? 女子は完ぺきすぎて近寄りがたいって言ってたけど、僕から見たら、いけすかねえ男!!』
『なるほど……』
それに関しては同意見かも。
三兄弟とは、そこそこ関わっている。
男の子が苦手なのは変わらないけど、業務となるとそうも言っていられないからね。
陽人さまに「ひなさん一緒に遊ぼー! えっ、業務中……? じゃあ、僕と遊ぶこともお仕事にいれてよ〜」とあざとくせがまれて、すみれさんも交えて一緒にボードゲームをしたり。
玲央さまに、「専属メイドの話、考えてくれた? あははっ、そんな毎回即却下しなくてもいいじゃん! 俺も、失敗したときにはちゃんと助けてあげるよ? 悠真みたいにさ」とニヤニヤしながらからかわれたり……。
そういえば昨日は、ある部屋の前で、静かに扉を見つめている悠真さまに遭遇した。
ぜんぜん動かないから、思わず気になって『入らないのですか?』と声をかけたら、『! いや、……なんでもない』と立ち去ってしまったんだ。
その様子が妙に気になって、あとからすみれさんに尋ねてみた。
『あの部屋? あそこは音楽室だよ! 大きいグランドピアノが置いてあるの。定期的に掃除には入るけど、誰も使っていないから、比較的いつも綺麗だよ』
『誰も使わないのにグランドピアノが……?』
『あー……。あたしも気になって先輩に聞いたんだけど、昔は、悠真さまが弾いていたらしいよ。小学時代はすごく上手で、コンクールでも活躍していたみたいだけど……どうして弾かなくなっちゃったんだろうね』
なるほど、昔はピアノを弾いていたんだ。
頭の中を、一瞬、悠真さまがグランドピアノを華麗に弾きこなす映像がよぎった。
悠真さまは、ピアノを弾く姿も絵になるんだろうな。
って、わたしってば、なに考えてるの……。
でも、コンクールで活躍するほどだったのに、どうしてやめちゃったんだろう?
まぁ、藤堂家ではあくまでも一メイドでしかないわたしが悠真さまとそんな話をする機会は一生こないだろうけど。
すこしさびしそうに見えた悠真さまのことが、すこしだけ気にかかったものの、その日はまた仕事に戻ったのだった。
週末、日曜日の出勤の日。
早速ちょっと困ったことが起きた。
「うーん。この買い物のリストの量、ひとりで持ち帰れるかな……?」
嶋さんから渡された買い物リストのメモを見つめたまま、不安な気持ちになってくる。
紅茶の茶葉に、小麦粉、砂糖、バターetc。
あと、急きょ陽人さまから、追加で頼まれたいちごも!!
今日はもともと、すみれさんと二人で一緒にお使いにいく予定だったんだけど、急きょすみれさんがお家の事情で早退になってしまったんだ。
すみれさんを不安にはさせたくなかったから、大丈夫です、と答えたものの、想像以上の量だったな。
他の先輩メイドもみんな忙しそうで、同行を頼める空気ではない。
「うーん……」
メモを見つめたまま、いっそお店と屋敷を二往復するか悩んで廊下に立ちどまっていたら、思わぬ人物に声をかけられた。
「どうかした?」
悠真さまだ。
まさか声をかけられるとは思わなくて、内心ドキッとしてしまう。
「……いえ、なんでもないです」
まさか、主人の立場の彼に、同行を頼むわけにはいかない。
事態を悟られぬよう、後ろ手にメモをさっと隠したら、さすがにもう興味を失くすだろうと思ったんだけど……、彼は、あろうことか周りこんできて、メモを盗んでいってしまった。
「ちょっ、なにするんですか! 返してください!」
「……これ、買い物のメモ?」
「そうですけど!」
「一人で持てる量に見えないけど」
「なんとかします。お仕事なので」
悠真さまは、黙ってわたしの顔をじっと見つめてきた。
彼の、黒曜石みたいにきれいな瞳に見つめられると、すこし緊張してしまう。
なにもかもを全て見透かされそうで。
「な、なんですか?」
「オレも行く」
「えっ」
予想外すぎる発言に、驚いて固まると。
悠真さまは、言い訳をするように言葉をつないだ。
「もともと、暇つぶしに外には出ようと思ってたし。運ぶの、手伝う」
「で、でも……、これはわたしの仕事だし、悠真さまの手をわずらわせるわけには」
「大丈夫。……もっと、きみと話してみたかったから、いい機会だし」
話してみたかった?
意味深な言葉にドキッとする。
「どういう意味ですか?」
「……同い年なのに、一生懸命まじめに働いていてすごいなって思ってた。立場の違いで丁重に接してくれているのは伝わるけど、オレには、もうすこし気楽に接してもらって大丈夫だから」
思いがけない発言に、また胸がそわそわとする。
素直にうれしい。
口数の少ない彼が、そんなふうに思ってくれていたことは、すごく意外だ。
わたしがあまりにも目をぱちくりとさせていたからだろうか。
悠真さまは、ふいっと視線をはずして、早口で言った。
「……とにかく、きみについていくのは、もう決めたことだから。これは、オレからの命令だよ」
命令って。
そんなにやさしい命令がある?
「ふふっ。悠真さまも、冗談を言ったりするんですね」
思わず笑いがこぼれた。
そしたら、彼はハッとしたようにわたしを見つめてきて……、
「……もっと笑えばいいのに」
あまりにもやさしく微笑んだから、胸が痛いほど高鳴った。
悠真さま。それはわたしの台詞です!
その微笑み、心臓を撃ち抜く力が半端ないです。無闇に振りまいてはいけませんよ……!
買い物の最中もいろいろな意味でドキドキしてしまった。
悠真さまは、なにかと重たい荷物をスマートにさらっていってしまうのだ。
『わたしの仕事なので!』と主張してみても、『ぜんぶきみが持ったら、オレがついてきた意味がないでしょ。大体そのメモの量、絶対一人じゃ持ちきれないから』とつっぱねられてしまった。
紅茶をこぼしそうになったときも思ったけど、もしや、やっぱり女の子慣れしている……?
だとしたら、なんか、胸のあたりがモヤモヤする。
どうしてこんな気持ちになるんだろう。
わたしは、彼が婚約者だったときに、ふさわしくない理由を探しているのに。
それに、もう一つ困ったことがあった。
「ねえ。あの黒パーカーの男の子、ちょーーかっこよくない?」
「それ! かっこいいし、透明感やばすぎ! 隣の女の子もかわいいけど、なんかお手伝いさんっぽい服装だよね〜?」
「もしかして、御曹司さまだったり!? きゃーっ、あの見た目でお金持ちとかやばすぎ!」
悠真さま、外を歩いていても、建物内を歩いていてもとにかく目立ちすぎる…!!
たしかに、彼には気品がある。黒のパーカーに白シャツという何気ない格好でも思わず目を引くほどかっこいい。
ただでさえ注目されてしまう悠真さまの隣をメイド服姿で歩くのは完全に失敗だった!
「申し訳ございません。わたしが仕事着で来たばかりに、余計な注目を集めてしまって」
「ううん、オレのほうこそごめん。……考えなしだった。嫌な思いをしてない?」
「大丈夫ですよ。悠真さまが気分を害されてさえいなければ、わたしは問題ないので」
「じゃあ、ちょっと問題かも」
思わぬ返しに、どう返答しようか迷ったら。
彼は、すねたように頬をふくらませた。
「……オレには、もっと気楽に接していいって、さっき言ったでしょ。なのに……、なんか思ってたのとちょっと違う空気になってる気がして」
なにそれ!
いきなりそんな風にすねられても、ドキドキして困るんですけど……!
これ以上、わたしのペースを乱されたくはない。
「悠真さま。わたしは、ただのメイドですよ?」
「……ほんとうに?」
なんで。
どうして、そんな風に聞くの?
ほんとはドキドキしてるけど、絶対にそれを悟られてはいけない。
「それ以外に、なにがあるんですか」
悠真さまは、視線をはずして言った。
「ごめん。……変なこと言った、忘れて」
それからすこし無言が続いて気まずかったけど、あるお店の前で彼が足を止めた。
「ねえ、疲れていない? あのカフェで、すこし休憩していこうよ」
よりにもよって、咲月堂のカフェ。
悠真さま、もしかしてわたしのこと、勘づいてるとかじゃないよね?
ヒヤヒヤしながら、すこし距離をとる。
「……わたしは勤務時間中ですので」
「陽人とはボドゲしてたのに、オレには付き合ってくれないの?」
うっ。痛いところをついてくるなぁ!
これ以上抵抗しても、話がややこしくなりそうだ。ここは諦めて彼の意向に従おう。
「わかりました。悠真さまの仰せのままに」
一緒に店内に入り、向かいあっている席に腰かけて、メニュー表を眺める。
偶然とはいえ、まさか、自分の家が経営している店舗に悠真さまと入ることになるなんて……。
さすがに家の関係者が直接カフェでは働いていないだろうから、わたしだって気がつかれることはないと思うけど、妙に緊張してしまう。
彼は、もちろんそんな事情を知る由もなく、すっとメニュー表を指さした。
「決めた」
「早いですね」
「これにする」
悠真さまが選んだのは、兜をモチーフにした上生菓子だった。
「兜……? なるほど、子どもの日を意識しているんですね」
「うん。なんか、見た目がかわいいと思って」
意外な発言に思わず顔を見たら、彼は白い頬をほんのりと赤く染めた。
「……理由、子どもっぽいって思った?」
たしかに意外ではある。
陽人さまだったら、テンション高く「これにする!」って言いそうだけど……。
なんか、かわいいな。
無意識で口元がゆるまないよう、気をひきしめる。
「そんなことないです。……その、いいと思います」
「ふふっ、なにそれ。じゃあ、きみはどうするの?」
「わたしは、お茶だけで大丈夫です」
「せっかくなのに、和菓子を頼まないの? ここの和菓子、美味しいのに」
悠真さまは、咲月堂の和菓子を気にいってくれているんだ。
でも……。
「大丈夫です。和菓子は、得意ではないので」
「そう」
深入りはされなかったけど、なんとなく気まずい空気が漂う。
彼の立場なら、どうして? と気軽に尋ねられるはずだ。
でも、あえてそうしないところに、繊細なやさしさが透けて見えた。
単にわたしへ興味がないだけとも取れるけど……、本当にそうだとしたら、そもそも二人でこんな場所には来ていないだろう。
気にはなるけど、話したくないことをわざわざ話させないという、彼なりの気遣いなんだと思った。
悠真さまが頼んだ兜の生菓子がやってきたとき、自然と言葉がこぼれた。
「あの……。差し支えなければ、すこしだけ、聞いていただいてもいいですか?」
運ばれてきた生菓子へ向いていた彼の視線が、わたしの自然と交差する。
いつ見ても、きれいな瞳だ。
慣れない。こうやって直視されると、やっぱり緊張する。
「うん。きみが話したいのなら、ぜひ聞かせて」
真っ直ぐな答えに、安心した。
そんな、不器用だけどとてもやさしい心を持つ悠真さまにだからこそ、聞いてほしいと思ったのかもしれない。
「わたしの友達の話なんですけど……、和菓子屋に生まれたにも関わらず、和菓子が苦手という子がいるんです。和菓子を食べると甘ったるくて、胸がつまるような感じがするといって」
「うん」
今さらだけど、この言い方じゃ、わたし自身の話だってバレバレかな……?
でも、つっこまれてはいないし、今さら話を止めるのもヘンだよね。
気をとりなおして、話を続ける。
「その子は、その家に生まれたせいで、好きなひとから避けられたことがあるんです。和菓子を見ると、その苦い思い出が蘇るから嫌いだと言っていました」
悲しくて胸の奥に封じこめた、小学時代の記憶だ。
家の近くの公園で、仲良くなった男の子がいた。
当時はお嬢さま学校に通っていたわたしにとって、やんちゃで突飛なことをする彼はとても新鮮に映って。わたしは彼に初恋をした。
だから、思いきって告白をしたんだけど……、『お嬢さまとは、住む世界が違うから』とあっさり振られてしまったんだよね。
和菓子を見るたびに、胸がつまるような気持ちがするのはあのときからだ。
男の子や、恋に、苦手意識を持つようになったのも。
悠真さまが想像以上に真剣な顔をしていて、なんだか気恥ずかしくなってきた。
「えっと……友達にその話を聞いてから、わたしも和菓子を見るとフクザツな気分になるんです。こんな話を突然して、すみません」
安心して吐き出しちゃったけど、こんなに話したら勘づかれちゃうかな?
急に、彼の反応が気になって、不安になってくる。
怖さのあまり目をつむったら、意外な言葉が飛んできた。
「そうなんだ。こんなに甘くておいしいのに、もったいない」
えっ?
思わずポカンとしながら目をあけたら、悠真さまは、自分の頼んだ生菓子を半分に切った。
そして、あろうことか、わたしの口元に差し出してきたんだ。
えええっ!?
「確認だけど、きみ自身が、味が嫌いなわけではないんだよね?」
「は、はい」
「じゃあ、食べてみて」
な、なにこれ。
あーん……ってこと?
顔がカッと熱くなる。
は、恥ずかしい。
普段のわたしなら、絶対に拒否する!
でも、今のわたしは彼のメイドだ。
どんなに恥ずかしくても、逆らったりはできない。
「いただきます」
思いきって、ぱくりと口にした瞬間、こしあんの上品な甘さが口に広がった。
すごく、美味しい。
幸せな気持ちがする。
咲月堂の和菓子を食べたのなんて、何年ぶりだろう……?
うちのお菓子って、こんなに美味しいんだっけ。
あまりの美味しさに、驚いて呆けてしまう。
「どう?」
「……想像以上に美味しくて、びっくりしました」
素直な感想を口にしたら、悠真さまはホッとしたようにやさしく笑った。
「そう。じゃあ、今日から、和菓子を見たらいまのことを思い出してみて」
「えっ!?」
い、いまのことって……あーんってこと!?
内心、頭から湯気が上がりそうなくらいに動揺しているのに、彼は、わたしの気なんて知らずにさらりと告げた。
「味が嫌いなわけじゃないのに、思い出のせいで嫌いになってるのは損してると思う。苦い過去を引きずるより、美味しかったっていう今の記憶に塗り変えたほうが気持ちが楽じゃないかな。きみの友達にも、そう伝えて」
ドキリと、心臓が大きく飛び跳ねる。
言葉も継げないわたしに、悠真さまは続けた。
「家に抱く複雑な気持ちも、わかるよ。どこにいっても、ついて回るしね」
胸の高鳴りが止まらない。
この激しい鼓動が、目の前の彼にまで聞こえてしまいそうで、怖くなるくらいだ。
共感の言葉をもらえたことにビックリして……。
自分で思っていた以上に、うれしかったんだ。
「……ありがとう、ございます」
和菓子が嫌いだという頑なだった気持ちがあっという間にほろほろと溶けて、すこし泣きそうにすらなる。
そうだ。
昔は、うちの和菓子が、大好きだった。
こんなたまらない気持ちにさせるなんて、悠真さまはとてもズルい。
クールでなにを考えているのかわかりづらいように見えて、ほんとはとてもやさしいひと。
ねえ。あなたは誰にでもこんなにやさしいの?
それとも、わたしだから……とか?
いやいや、思考回路が少女マンガの読みすぎ! 大体、婚約なんて困るんだから、彼の欠点を探さなきゃいけないんでしょ。
あれ。
婚約したら……本当に、困るのかな?
自分で自分の感情に戸惑って動揺していたら、突然、悠真さまが店内を見回した。
ふわふわとした空気から一転して、急にピリリとした緊張感が走る。
「どうかされましたか?」
「いや、なんでもない。誰かにしつこく見られているような気配がしたけど、気のせいかな」
……? なんだろう。
わたしも店内を見回したけど、見るからに怪しそうな人物はいなかった。
まぁ、彼にはファンが多そうだから、中には変わったひともいるのかもしれない。
「気のせいだといいのですが。いざというときは、わたしが悠真さまをお守りしますね」
気がつけば、メイドとしての性分からだけではなく、心からの言葉として発していた。
悠真さまは切れ長の瞳を驚いたようにまたたいて、微笑んだ。
「ありがとう。オレも、なにかあったときには、きみのことを守るよ」
後日。
すみれさんに、悠真さまと一緒に帰ってきたって他のメイドに聞いたよ! と言われて大変だった。
彼女から出てきたのは、主人に雑用をさせるなんて! というお叱りの言葉ではない。
「きゃーーーっ! 悠真さまと一緒に買い物にいってきたの〜〜!? えっ、どうしてそんな流れになったの? ってか、なんか顔が赤くないーっ!? ねえ、ひなちゃんもしかして、本気で悠真さまに恋に落ちちゃった!? 身分差の恋の始まりだったり!!」
すみれさんの興奮をしずめるのが一番大変だったことは言うまでもない。


