「咲宮さん。ちょっと、そこに転がってる消しゴムとってくれない?」
突然、後ろの席の男子から話しかけられて、肩がビクッと跳ねてしまう。
心拍数があがって、すこし息苦しい。
落ちつけ、わたし。
単に、落ちてる消しゴムを拾ってほしいって頼まれてるだけじゃん。
普段、お兄ちゃん以外で年の近い男の子と話すことがめったにないからって、さすがに動揺しすぎ……!
「ねえ。聞こえてた?」
「は、はいっ!」
若干、呆れが混じった声に急かされて、あわあわしながら床に視線を向ける。
すこし屈んで、机と机の間に落ちていた消しゴムを拾った。
「サンキュー」
あとは、後ろの席の彼に渡すだけ……だったんだけど、緊張のあまり、差し出された彼の手をスルーして、机の片隅に落っことしてしまった。
「あっ」
幸い、消しゴムが地面に再び落ちることはなかったけど、当然、ビミョウな空気だ。
いたたまれない沈黙に耐えきれず、わたしはさっと前を向いた。
あぁ……、大失敗。恥ずかしくなるほど動揺しちゃった。
校庭を掘って穴に埋まりたくなっていたら、追い打ちをかけるように、からかい声が飛んできた。
「柊斗~。お前、咲宮お嬢さまになに消しゴム拾わせてんだよー」
「はー? このぐらい良くね?」
「ダメー! 庶民のおれたちと、お嬢さまとじゃ住む世界が違ぇの。顔には全く出てねえけど、お嬢さま、実は内心げきおこだぜ?」
「ごめんって! ゆるしてぇ、お嬢さま~」
わたしを含むみんなに聞こえるところでこんな会話をするなんて、デリカシーがなさすぎる!
落ちてる物を拾うくらい当然のことだし、こんなことで怒るわけがない。単に、感情が顔に出づらいだけだ。
耳を熱くしながら、肩を縮こまらせる。
男子なんて、やっぱり嫌いだ。
小学時代、公園でよく一緒に遊んでいた男の子に、勇気を出して告白をした。
そしたら、『ひよりちゃんって、お嬢さまなんでしょ? なんていうか……遠いひとって感じがして、無理かも』と悪気なさそうに振られた。
彼は、もう覚えてもいなさそうだけど、わたしにとっては一大事だったんだ。
泣かなかったけど、心にぽっかりと穴が空いてしまったみたいに辛かった。
もう、あんな思いは、二度としたくない。
あれ以来、男の子も、恋も、どっちも怖くなったんだ。
咲宮ひより、三週間前に瑞風中学に入学したばかりの一年生。
はっきり言って、すでにクラスの中でけっこう浮いてしまっている。
わたしの生まれた咲宮家は、全国に展開されている老舗和菓子店『咲月堂』を経営しているんだ。
天皇御用達といわれるほどすごいお店なんだけど……、わたし自身は和菓子が苦手。
公立の瑞風中学に入学したのは、普通の中学校生活を経験したかったからなんだ。幼稚園と小学校時代は、超お嬢さま学校に通っていたからね。
でも、中学では、女の子にはどこか遠慮がちに接されるし、男の子にはお嬢さまだってからかわれるばかりで、全然うまくいってない。
こんなことなら今からでもお父さんとお母さんに頼んで、転校したほうがいいのかも。
しょんぼりと肩を落としながら下校していたら、校門に近づくにつれて、なんだか騒がしくなってきた。
「ねえねえ。あそこにいるの、月華中学のひとだよね~? 甘い顔立ちの美形で、ちょーかっこよくない?」
「ほんとだぁ、爽やか系のイケメン~~! 誰か待ってるのかな、彼女とか?」
黄色い声で盛りあがる女の子たちの視線の先には――よく見知った姿があった。
触ったら柔らかそうな茶色い髪に、すこしだけ垂れ目気味の大きな瞳。
細身ですらりと背が高く、ネクタイをすこしゆるめて制服を着こなしている姿は、たしかに一見ものすごくモテそうだ。
一見、とわたしが思うのには、理由があって――
「ひより⁉ ひよりだっ! 今日もかわいい僕の天使‼」
――彼、咲宮律が、その容姿の良さをすべて台無しにするほどのドシスコンだからだ。
律お兄ちゃんは、わたしを視界にいれるなり全速力で駆けつけてきた。飼い主を見つけて喜ぶワンちゃんみたいだ。
「……律お兄ちゃん、一週間前も来てたよね? 今日は、なにをしにきたの」
「なにって、愛しのひよりを迎えにきたんだよ? ひよりってば、かわいいからなぁ。かわいいは正義なんだけど、いつどこで危ないひとにさらわれるかわかったもんじゃないから心配で仕方がないよなぁ」
両手を組んで、熱弁をふるうお兄ちゃんは、昔からずっとこの調子だ。
さっきまでお兄ちゃんに熱視線を向けていた女子たちも、瞬時に冷めた顔つきになっていた。まぁ当たり前だよねぇ、なんかスゴく残念だもん……。もっと普通にしてれば、ちゃんとモテるはずなんだけどなぁ。
これ以上、学校内で悪目立ちしないように、律お兄ちゃんを校門の外へと誘導する。
「わたしなら大丈夫だから、もう学校のほうまでいきなり来ないでって先週に言ったばかりじゃなかった?」
「えー。でも、昔と違って、いまは共学だろ? ひより、成長してますますかわいくなったし、お兄ちゃんとしては悪い虫がつかないか心配すぎるー」
「悪い虫って……。そもそもわたし、お兄ちゃん以外の男の子とまともに話すこともできない状態なんだから、そんな心配する必要がないってば」
「かわいい……!」
まともにコミュニケーションもとれてないことを自嘲したつもりだったのに、なぜか頭を撫でられた。
「は?」
「ひよりは一生そのままでいていいよ! 責任はぜんぶ僕がとるから」
「お兄ちゃん、知ってた? 実の兄妹は、結婚できないんだよ」
「じゃあお兄ちゃん、将来、国会のえらいひとになって法律を変えるね?」
冗談だろうけど、ちょっと本気かもしれないところが怖い!
「ええと……お兄ちゃんには真っ当に咲宮家の当主を継いでもらわないと困るかな?」
「えーー、ひよりがツレない~~~」
こんな知性の欠片もなさそうな発言をする割に、学校での成績は優秀らしいけどね。律お兄ちゃんが頭いいキャラだなんて信じられない。
そんな、ある意味でいつもどおりの会話をしながら、のんきに家へ帰った。
――その後すぐに、これまでの生活がぜんぶひっくり返るような、とんでもない提案が待ちうけているとは知りもせずに。
「ただいまぁ」
「お帰りなさいませ、ひよりお嬢さま。あら、今日も律お坊ちゃんと一緒にお帰りで?」
「一緒にっていうか、律お兄ちゃんが、勝手に学校まで乗りこんできただけっていうか」
「塩すぎる……。塩なひよりもキュートだけどね」
「ふふっ、本当にご兄妹の仲がよろしいことで」
仲がいい、の微笑ましい範囲におさまるならいいけどね……?
わたしが生まれたころからお世話になっている執事長の榊さんは、金縁眼鏡をくいっと上げながら、じっとわたしの顔を見つめてきた。
榊さんはいつもどおり穏やかな口調だけど、どことなく表情が硬いような気がした。
「どうしたの? わたしの顔になにかついている?」
「いえ、そうではなく……。実は、旦那さまと奥さまが、ひよりお嬢さまのお帰りをお待ちになられているのですよ。お嬢さまに大事なお話があるそうで」
心臓がドキッと飛び跳ねた。
二人が、わたしに、あらたまって話をしたい?
経営者であるお父さんも、業務でも彼のことを支えているお母さんも、忙しない日常を送っている。それこそ、家をあけていることも多い。
その二人が、わざわざ話をするためにわたしを待ちかまえているなんて……なんだか、ただ事ではない予感がする。
緊張で言葉を発せなかったわたしの代わりに、律お兄ちゃんが返事をしていた。
「えっ、父さんと母さんが? ひよりになんの話?」
「私の口から申し上げることはできかねます」
「二人はどこで待っているの?」
「一階の談話室でお待ちです」
「わかりました」
ドキドキしながら廊下を通り抜け、洗面室で手洗いうがいをしてから、大広間へむかう。
和洋折衷スタイルの我が家は二階建。一階の洋室の大広間の奥に、和風の談話室があるんだ。
「ってか、なんでお兄ちゃんもついてこようとしてるの? 」
一向に足音が離れていかないので、呆れて振りかえれば、律お兄ちゃんは良い笑顔を浮かべた。
「ひよりにとって大事な話だったら、僕にとっても大事な話でしょ」
「キモい」
「ひどっ! せめて、僕も聞いていい話かどうか確認くらいさせてよ〜」
だだをこねるお兄ちゃんにジト目を向けていたら……、
「あらあら。騒がしいと思ったら、二人とも帰っていたのね」
談話室へとつながる扉が開いて、お母さんが顔を出した。
「母さん! ひよりへの大事な話ってなに? 僕も聞いて大丈夫!?」
なんで、わたしより食い気味なんだ。
「ふふっ。いづれ知ることになるから、律も同席してもらっていいわよ」
いづれ知ることになる……?
かすかな不安を覚えながら、談話室へと手招きするお母さんに二人でついていく。
すると、縁側の向こうの庭を見つめていたお父さんが振り返った。
「おお、ひよりか。あれ、律は呼んだ覚えがないが……?」
「母さんに許可はもらってる」
「まあ、いいか。お前のことだから、そんなことになる予感はしていたし」
お父さんは、お兄ちゃんのシスコンぶりを、もはや通常運転だと思っている節があるな……。
あらたまって正座をするお父さんとお母さんを前に、わたしとお兄ちゃんもぴんと背筋を伸ばして正座した。
緊張するわたしに、律お兄ちゃんがそっと耳打ちをする。
「なんかこうしていると、娘さんを僕にください! って、結婚のご挨拶にやってきたみたいだね」
「お兄ちゃんはちょっと黙ってて」
「……はい」
間髪入れずに跳ねのけたら、律お兄ちゃんはしょんぼりとうなだれた。まじめな顔をしてなにをいうかと思えば、ブレなさすぎる……。
お父さんが場をしきりなおすように、咳払いをする。
「ごほん。さて……、今日、ひよりに話そうと思ったのは他でもない。単刀直入に言おう。実は、ひよりに婚約の話が持ち上がっているんだ」
…………。
えっ?
コンヤク。こんにゃく。
あ、いや……こんやく。
婚約……!?
聞こえてきた単語がようやく脳内で意味を結んだとき、律お兄ちゃんが、わたしの心のうちを代弁するように思いっきり叫んだ。
「こ、婚約〜〜〜〜!? ウソだろ! ひよりはまだ中学一年生だよ!? そういう話が持ち上がるなら、年齢的に二つ上の僕の方が先じゃないとおかしくない!!?」
「そ、そうだよ。これに関してはお兄ちゃんに大賛成っ!」
婚約って、文字通りの意味だと、結婚を約束するってことでしょ?
無理無理無理。
夢オチを願うレベルの絶望だ!!
だってわたし、男の子が、本当の本当に苦手なんだよ……!
「ごめんなさい、それだけは簡単にうなずけません! 婚約以外ならなんでもするからっ」
畳に頭をこすりつけそうな勢いで土下座をしかけたら、お母さんがわたしの両肩を支えながら止めてきた。
「あら。たしかに突然の話だったけど、相手も聞かずに拒否するのは早計じゃない? どうして、そんなに嫌そうなの?」
「そ、それは……、見知らぬひとと結婚なんて、考えられないし」
「そうねえ、その気持ちはよくわかるわ。私でも嫌だもの。じゃあ、まずは、お互いのことをよく知ってみたらどうかしら?」
「へ……?」
思わぬ話の方向転換に、間抜けな声がもれる。
お母さんは、唇に人差し指を当てながらすこし考えたあと、とても良い笑顔になった。
「お母さん、いいこと思いついちゃったぁ」
かわいらしい言い方だけど、嫌な予感しかしない。このノリは、たいていろくでもないやつだから!
「……というと?」
でも、しぶしぶ聞くしかない。
ごくりとツバをのみこんだわたしに、お母さんは晴れ晴れと宣言した。
「ひより。メイドさんのフリをしてみたらどうかしら?」
メイド……!?
メイドって、つまりお手伝いさんってこと?
「え? いや、まったく話が見えてこないんだけど……」
「ひよりの婚約相手は、天下の藤堂ホールディングスの御曹司、藤堂家の息子さんなの」
「ふーん……。それで?」
「藤堂ホールディングスという錚々たる名を聞いても、全く意志がブレないなんて、さすがは僕の妹!! ってか、藤堂ホールディングスってことは、玲央と婚約するってことぉ!? ないないない! ダメ! なし!!!!」
「律は黙っていなさい」
「……はい」
律お兄ちゃん、お母さんにも似たような対応をされてるし。
「それで、母さん。さっきの、メイドさんのフリをするという発言の意図は?」
「お父さん、なに真剣に聞こうとしてるの!?」
「そう! 題して、メイドさんのフリをして、婚約者の素顔を探ろう作戦〜〜!」
勝手にテンションを上げないでほしい。こっちはさっきから一ミリもついていけてないんだから。
「つまり……?」
「最初から婚約者だと思って会うと、お互いヘンに緊張しちゃうでしょ? だから、藤堂家に、メイドさんとして潜入するのはいかがかしら? 正体を偽ってお仕えすればそこまで緊張することもないし、婚約者の素顔を探りやすくなるでしょ?」
「な、なるほど……」
名案だ!
とはならないけどね!?
そもそも、藤堂家のご両親はそんな奇行をゆるしてくれるの? って疑問もあるし……。
「ううむ。たしかに悪くはない案だな」
「お父さんまでなに言ってるの!?」
「婚約者という関係に縛られることなく相手を観察できるいいチャンスになる。メイドに対する態度が素晴らしければ、婚約相手としても不足はないだろう。ひよりにとって、良い話なんじゃないか?」
だ、だめだ!
いつの間にか、婚約者の存在を受け入れるか、メイドのフリをして婚約者の観察をするかの究極すぎる二択の流れになっている!
「……ひよりのメイド姿か。仕えるのが藤堂家という点だけ一億マイナスだが、ひよりのメイド姿が見たい気持ちがプラス十億」
律お兄ちゃんは完全に自分の世界に入っちゃってるし……!
「ひよりが藤堂家にお仕えするというのなら、藤堂家のご両親は全力で説得してくるよ。さあ、どうする?」
う、うーーーーん。
言いたいことはいっばいあるけど、これは、うなずくしかない流れだ。
なにより、婚約者として顔合わせをするよりも、とりあえずメイドのフリをするほうが時間稼ぎができる!
わかった。メイドをしている間に、婚約者の欠点を探せばいいんだ。
こんなひととは結婚できないという決定的な理由を探しに行くんだと思えばいい。
いったん、深呼吸をする。
よし。覚悟は決まった。
「わかりました。それでは、藤堂家にメイドとしてお仕えします」
これが、わたしの波乱の日常の、幕開けだった。
突然、後ろの席の男子から話しかけられて、肩がビクッと跳ねてしまう。
心拍数があがって、すこし息苦しい。
落ちつけ、わたし。
単に、落ちてる消しゴムを拾ってほしいって頼まれてるだけじゃん。
普段、お兄ちゃん以外で年の近い男の子と話すことがめったにないからって、さすがに動揺しすぎ……!
「ねえ。聞こえてた?」
「は、はいっ!」
若干、呆れが混じった声に急かされて、あわあわしながら床に視線を向ける。
すこし屈んで、机と机の間に落ちていた消しゴムを拾った。
「サンキュー」
あとは、後ろの席の彼に渡すだけ……だったんだけど、緊張のあまり、差し出された彼の手をスルーして、机の片隅に落っことしてしまった。
「あっ」
幸い、消しゴムが地面に再び落ちることはなかったけど、当然、ビミョウな空気だ。
いたたまれない沈黙に耐えきれず、わたしはさっと前を向いた。
あぁ……、大失敗。恥ずかしくなるほど動揺しちゃった。
校庭を掘って穴に埋まりたくなっていたら、追い打ちをかけるように、からかい声が飛んできた。
「柊斗~。お前、咲宮お嬢さまになに消しゴム拾わせてんだよー」
「はー? このぐらい良くね?」
「ダメー! 庶民のおれたちと、お嬢さまとじゃ住む世界が違ぇの。顔には全く出てねえけど、お嬢さま、実は内心げきおこだぜ?」
「ごめんって! ゆるしてぇ、お嬢さま~」
わたしを含むみんなに聞こえるところでこんな会話をするなんて、デリカシーがなさすぎる!
落ちてる物を拾うくらい当然のことだし、こんなことで怒るわけがない。単に、感情が顔に出づらいだけだ。
耳を熱くしながら、肩を縮こまらせる。
男子なんて、やっぱり嫌いだ。
小学時代、公園でよく一緒に遊んでいた男の子に、勇気を出して告白をした。
そしたら、『ひよりちゃんって、お嬢さまなんでしょ? なんていうか……遠いひとって感じがして、無理かも』と悪気なさそうに振られた。
彼は、もう覚えてもいなさそうだけど、わたしにとっては一大事だったんだ。
泣かなかったけど、心にぽっかりと穴が空いてしまったみたいに辛かった。
もう、あんな思いは、二度としたくない。
あれ以来、男の子も、恋も、どっちも怖くなったんだ。
咲宮ひより、三週間前に瑞風中学に入学したばかりの一年生。
はっきり言って、すでにクラスの中でけっこう浮いてしまっている。
わたしの生まれた咲宮家は、全国に展開されている老舗和菓子店『咲月堂』を経営しているんだ。
天皇御用達といわれるほどすごいお店なんだけど……、わたし自身は和菓子が苦手。
公立の瑞風中学に入学したのは、普通の中学校生活を経験したかったからなんだ。幼稚園と小学校時代は、超お嬢さま学校に通っていたからね。
でも、中学では、女の子にはどこか遠慮がちに接されるし、男の子にはお嬢さまだってからかわれるばかりで、全然うまくいってない。
こんなことなら今からでもお父さんとお母さんに頼んで、転校したほうがいいのかも。
しょんぼりと肩を落としながら下校していたら、校門に近づくにつれて、なんだか騒がしくなってきた。
「ねえねえ。あそこにいるの、月華中学のひとだよね~? 甘い顔立ちの美形で、ちょーかっこよくない?」
「ほんとだぁ、爽やか系のイケメン~~! 誰か待ってるのかな、彼女とか?」
黄色い声で盛りあがる女の子たちの視線の先には――よく見知った姿があった。
触ったら柔らかそうな茶色い髪に、すこしだけ垂れ目気味の大きな瞳。
細身ですらりと背が高く、ネクタイをすこしゆるめて制服を着こなしている姿は、たしかに一見ものすごくモテそうだ。
一見、とわたしが思うのには、理由があって――
「ひより⁉ ひよりだっ! 今日もかわいい僕の天使‼」
――彼、咲宮律が、その容姿の良さをすべて台無しにするほどのドシスコンだからだ。
律お兄ちゃんは、わたしを視界にいれるなり全速力で駆けつけてきた。飼い主を見つけて喜ぶワンちゃんみたいだ。
「……律お兄ちゃん、一週間前も来てたよね? 今日は、なにをしにきたの」
「なにって、愛しのひよりを迎えにきたんだよ? ひよりってば、かわいいからなぁ。かわいいは正義なんだけど、いつどこで危ないひとにさらわれるかわかったもんじゃないから心配で仕方がないよなぁ」
両手を組んで、熱弁をふるうお兄ちゃんは、昔からずっとこの調子だ。
さっきまでお兄ちゃんに熱視線を向けていた女子たちも、瞬時に冷めた顔つきになっていた。まぁ当たり前だよねぇ、なんかスゴく残念だもん……。もっと普通にしてれば、ちゃんとモテるはずなんだけどなぁ。
これ以上、学校内で悪目立ちしないように、律お兄ちゃんを校門の外へと誘導する。
「わたしなら大丈夫だから、もう学校のほうまでいきなり来ないでって先週に言ったばかりじゃなかった?」
「えー。でも、昔と違って、いまは共学だろ? ひより、成長してますますかわいくなったし、お兄ちゃんとしては悪い虫がつかないか心配すぎるー」
「悪い虫って……。そもそもわたし、お兄ちゃん以外の男の子とまともに話すこともできない状態なんだから、そんな心配する必要がないってば」
「かわいい……!」
まともにコミュニケーションもとれてないことを自嘲したつもりだったのに、なぜか頭を撫でられた。
「は?」
「ひよりは一生そのままでいていいよ! 責任はぜんぶ僕がとるから」
「お兄ちゃん、知ってた? 実の兄妹は、結婚できないんだよ」
「じゃあお兄ちゃん、将来、国会のえらいひとになって法律を変えるね?」
冗談だろうけど、ちょっと本気かもしれないところが怖い!
「ええと……お兄ちゃんには真っ当に咲宮家の当主を継いでもらわないと困るかな?」
「えーー、ひよりがツレない~~~」
こんな知性の欠片もなさそうな発言をする割に、学校での成績は優秀らしいけどね。律お兄ちゃんが頭いいキャラだなんて信じられない。
そんな、ある意味でいつもどおりの会話をしながら、のんきに家へ帰った。
――その後すぐに、これまでの生活がぜんぶひっくり返るような、とんでもない提案が待ちうけているとは知りもせずに。
「ただいまぁ」
「お帰りなさいませ、ひよりお嬢さま。あら、今日も律お坊ちゃんと一緒にお帰りで?」
「一緒にっていうか、律お兄ちゃんが、勝手に学校まで乗りこんできただけっていうか」
「塩すぎる……。塩なひよりもキュートだけどね」
「ふふっ、本当にご兄妹の仲がよろしいことで」
仲がいい、の微笑ましい範囲におさまるならいいけどね……?
わたしが生まれたころからお世話になっている執事長の榊さんは、金縁眼鏡をくいっと上げながら、じっとわたしの顔を見つめてきた。
榊さんはいつもどおり穏やかな口調だけど、どことなく表情が硬いような気がした。
「どうしたの? わたしの顔になにかついている?」
「いえ、そうではなく……。実は、旦那さまと奥さまが、ひよりお嬢さまのお帰りをお待ちになられているのですよ。お嬢さまに大事なお話があるそうで」
心臓がドキッと飛び跳ねた。
二人が、わたしに、あらたまって話をしたい?
経営者であるお父さんも、業務でも彼のことを支えているお母さんも、忙しない日常を送っている。それこそ、家をあけていることも多い。
その二人が、わざわざ話をするためにわたしを待ちかまえているなんて……なんだか、ただ事ではない予感がする。
緊張で言葉を発せなかったわたしの代わりに、律お兄ちゃんが返事をしていた。
「えっ、父さんと母さんが? ひよりになんの話?」
「私の口から申し上げることはできかねます」
「二人はどこで待っているの?」
「一階の談話室でお待ちです」
「わかりました」
ドキドキしながら廊下を通り抜け、洗面室で手洗いうがいをしてから、大広間へむかう。
和洋折衷スタイルの我が家は二階建。一階の洋室の大広間の奥に、和風の談話室があるんだ。
「ってか、なんでお兄ちゃんもついてこようとしてるの? 」
一向に足音が離れていかないので、呆れて振りかえれば、律お兄ちゃんは良い笑顔を浮かべた。
「ひよりにとって大事な話だったら、僕にとっても大事な話でしょ」
「キモい」
「ひどっ! せめて、僕も聞いていい話かどうか確認くらいさせてよ〜」
だだをこねるお兄ちゃんにジト目を向けていたら……、
「あらあら。騒がしいと思ったら、二人とも帰っていたのね」
談話室へとつながる扉が開いて、お母さんが顔を出した。
「母さん! ひよりへの大事な話ってなに? 僕も聞いて大丈夫!?」
なんで、わたしより食い気味なんだ。
「ふふっ。いづれ知ることになるから、律も同席してもらっていいわよ」
いづれ知ることになる……?
かすかな不安を覚えながら、談話室へと手招きするお母さんに二人でついていく。
すると、縁側の向こうの庭を見つめていたお父さんが振り返った。
「おお、ひよりか。あれ、律は呼んだ覚えがないが……?」
「母さんに許可はもらってる」
「まあ、いいか。お前のことだから、そんなことになる予感はしていたし」
お父さんは、お兄ちゃんのシスコンぶりを、もはや通常運転だと思っている節があるな……。
あらたまって正座をするお父さんとお母さんを前に、わたしとお兄ちゃんもぴんと背筋を伸ばして正座した。
緊張するわたしに、律お兄ちゃんがそっと耳打ちをする。
「なんかこうしていると、娘さんを僕にください! って、結婚のご挨拶にやってきたみたいだね」
「お兄ちゃんはちょっと黙ってて」
「……はい」
間髪入れずに跳ねのけたら、律お兄ちゃんはしょんぼりとうなだれた。まじめな顔をしてなにをいうかと思えば、ブレなさすぎる……。
お父さんが場をしきりなおすように、咳払いをする。
「ごほん。さて……、今日、ひよりに話そうと思ったのは他でもない。単刀直入に言おう。実は、ひよりに婚約の話が持ち上がっているんだ」
…………。
えっ?
コンヤク。こんにゃく。
あ、いや……こんやく。
婚約……!?
聞こえてきた単語がようやく脳内で意味を結んだとき、律お兄ちゃんが、わたしの心のうちを代弁するように思いっきり叫んだ。
「こ、婚約〜〜〜〜!? ウソだろ! ひよりはまだ中学一年生だよ!? そういう話が持ち上がるなら、年齢的に二つ上の僕の方が先じゃないとおかしくない!!?」
「そ、そうだよ。これに関してはお兄ちゃんに大賛成っ!」
婚約って、文字通りの意味だと、結婚を約束するってことでしょ?
無理無理無理。
夢オチを願うレベルの絶望だ!!
だってわたし、男の子が、本当の本当に苦手なんだよ……!
「ごめんなさい、それだけは簡単にうなずけません! 婚約以外ならなんでもするからっ」
畳に頭をこすりつけそうな勢いで土下座をしかけたら、お母さんがわたしの両肩を支えながら止めてきた。
「あら。たしかに突然の話だったけど、相手も聞かずに拒否するのは早計じゃない? どうして、そんなに嫌そうなの?」
「そ、それは……、見知らぬひとと結婚なんて、考えられないし」
「そうねえ、その気持ちはよくわかるわ。私でも嫌だもの。じゃあ、まずは、お互いのことをよく知ってみたらどうかしら?」
「へ……?」
思わぬ話の方向転換に、間抜けな声がもれる。
お母さんは、唇に人差し指を当てながらすこし考えたあと、とても良い笑顔になった。
「お母さん、いいこと思いついちゃったぁ」
かわいらしい言い方だけど、嫌な予感しかしない。このノリは、たいていろくでもないやつだから!
「……というと?」
でも、しぶしぶ聞くしかない。
ごくりとツバをのみこんだわたしに、お母さんは晴れ晴れと宣言した。
「ひより。メイドさんのフリをしてみたらどうかしら?」
メイド……!?
メイドって、つまりお手伝いさんってこと?
「え? いや、まったく話が見えてこないんだけど……」
「ひよりの婚約相手は、天下の藤堂ホールディングスの御曹司、藤堂家の息子さんなの」
「ふーん……。それで?」
「藤堂ホールディングスという錚々たる名を聞いても、全く意志がブレないなんて、さすがは僕の妹!! ってか、藤堂ホールディングスってことは、玲央と婚約するってことぉ!? ないないない! ダメ! なし!!!!」
「律は黙っていなさい」
「……はい」
律お兄ちゃん、お母さんにも似たような対応をされてるし。
「それで、母さん。さっきの、メイドさんのフリをするという発言の意図は?」
「お父さん、なに真剣に聞こうとしてるの!?」
「そう! 題して、メイドさんのフリをして、婚約者の素顔を探ろう作戦〜〜!」
勝手にテンションを上げないでほしい。こっちはさっきから一ミリもついていけてないんだから。
「つまり……?」
「最初から婚約者だと思って会うと、お互いヘンに緊張しちゃうでしょ? だから、藤堂家に、メイドさんとして潜入するのはいかがかしら? 正体を偽ってお仕えすればそこまで緊張することもないし、婚約者の素顔を探りやすくなるでしょ?」
「な、なるほど……」
名案だ!
とはならないけどね!?
そもそも、藤堂家のご両親はそんな奇行をゆるしてくれるの? って疑問もあるし……。
「ううむ。たしかに悪くはない案だな」
「お父さんまでなに言ってるの!?」
「婚約者という関係に縛られることなく相手を観察できるいいチャンスになる。メイドに対する態度が素晴らしければ、婚約相手としても不足はないだろう。ひよりにとって、良い話なんじゃないか?」
だ、だめだ!
いつの間にか、婚約者の存在を受け入れるか、メイドのフリをして婚約者の観察をするかの究極すぎる二択の流れになっている!
「……ひよりのメイド姿か。仕えるのが藤堂家という点だけ一億マイナスだが、ひよりのメイド姿が見たい気持ちがプラス十億」
律お兄ちゃんは完全に自分の世界に入っちゃってるし……!
「ひよりが藤堂家にお仕えするというのなら、藤堂家のご両親は全力で説得してくるよ。さあ、どうする?」
う、うーーーーん。
言いたいことはいっばいあるけど、これは、うなずくしかない流れだ。
なにより、婚約者として顔合わせをするよりも、とりあえずメイドのフリをするほうが時間稼ぎができる!
わかった。メイドをしている間に、婚約者の欠点を探せばいいんだ。
こんなひととは結婚できないという決定的な理由を探しに行くんだと思えばいい。
いったん、深呼吸をする。
よし。覚悟は決まった。
「わかりました。それでは、藤堂家にメイドとしてお仕えします」
これが、わたしの波乱の日常の、幕開けだった。


