自分の思いが晴れたわけではないが、日常は止まってはくれずに過ぎていくのみ。日々が、1日1日と通り過ぎる。
「じゃあ明後日からの大会に向けて、気を引き締めてしっかりやっていこう!」
澪夏の掛け声と共に全員で声を出す。コートに響き渡る、私達の声。
最後の大会。今までの大会で大きな結果を出したことはないが、悔いが残るようなことはしたくない。
準備運動を終えラケットを取りに行こうとしていると、帰り際の利斗君を見つける。テニスコートはグラウンドの横にあるので、他の生徒達の姿がよく見えるのだ。
私は心の中で「利斗君、また明日ね」と呟く。彼がこちらを見ることはないが、私は彼のことを見れただけで、部活動を頑張れる、そんな気になれてしまうのだった。
そのおかげもあってか、部活動の時間で行った練習試合は、全て勝利を収めることができた。
「彩葉の調子良かったけど、利斗君のおかげか。帰るところ見てたし」
「ごめん、集中してないわけじゃないよ」
「分かってる。練習中のタイミングでもなかったしね。…彩葉、大会頑張ろう」
「もちろん!」
過去を思い出すと、部活動に行きたくない日ももちろんあった。先輩達に怒られた後は、特にそうだった。
朝練習で先輩に怒られたために部活動に行きたくない、どうしようと、利斗君に溢した日もある。その時彼は、詳しく聞いてくることはなかったが、私にこう言った。
「部活が好きならまた自然と行きたくなるだろ」
行った方がいいとも、頑張れとも言わない。彼の言葉は、私にプレッシャーを与えてくることがなかった。気持ちを晴れやかにしてくれるだけ。
大会は、澪夏のためにも自分のためにももちろん頑張る。でもそれだけではなくて、利斗君にいい報告ができればいい、そういう意味でも私は、頑張ろうと心に決めていた。
翌日。朝練習を終え教室に向かうと、今日に限ったことではないが、利斗君の姿が最初に目に入る。私が意図して彼の方に目を向けているからだろう。
「利斗君、おはよう」
「あぁ」
「いよいよ大会が始まるんだよ」
「知ってる。今週に入って何回か既に聞いてるからな」
「あ、ごめん。何回も同じ話、飽きるよね」
「……頑張れよ」
「……もう1回言ってほしいな」
彼はその後、もう一度言ってくれることはなかった。しかし一度だけでも、「頑張れ」と言ってくれた瞬間のことを、忘れることはない。試合中に何かあれば、利斗君が言ってくれた時のことを自然と思い出す、今のうちからそんな予感がしていた。
そして今日も何事もなく、授業が終わって部活動に行く。そして明日から大会が始まる。何も疑いもせずに、ただそう思っていた。
「今日お弁当じゃないから、購買付き合ってもらってもいい?」
4時間目の授業を終え、澪夏が席を立つ前に彼女の席に行き私はそう告げた。澪夏は快諾してくれて、利斗君に購買に行くことを伝え、財布を手にして教室を後にする。
「あ、こんにちは」
廊下を進んでいると、部活動の後輩2人と廊下で遭遇する。彼女達は2年生で、自動販売機に向かうとのことだったので、途中まで一緒に行くこととなった。
私と後輩の1人が前を歩き、私の後ろをもう1人の後輩が歩き、澪夏はその後輩の隣、私の斜め後ろを歩くという並びができあがる。
そして私達はそのまま階段を下りようとしていた。私が右側を歩いていたので、上がってくる人達とすれ違う側だった。
階段を下がり始めるのと同時に、前方から2人の男子生徒達が歩いてくるのが見える。彼らも話に夢中で、話が盛り上がっているようだった。
彼らのことは、見たことがある。秀君と同じバスケットボール部で、1年生だ。バスケットボールをする秀君を昼休みに澪夏と見に行った際に、体育館で2、3回見かけたことはあったが、挨拶もしたことはまだなかった。澪夏は1人でも見に行くことがあるので、それ以上に見たことがあるかもしれないし、挨拶もしたこともあるかもしれない。
そしてその時は、突然訪れた。
「うわっ!」
私の後ろを歩いていた後輩の叫び声が聞こえたかと思えば、すぐに私の背中にその後輩がぶつかり、私の体が下に落ちていく。痛みを感じるまで、何も考える余裕がなかった。
いたっ……。
澪夏達の声が聞こえる。階段の下の方ではあったので、数段を飛ばして落ちてしまったのだったが、着地をする際に足首を思いっきり捻ってしまい、転んでしまったのだった。心配をかけないように早く立ち上がりたかったが、右足首の痛みが強く、簡単には立ち上がることができなかった。
澪夏に頼まれ、後輩達は先生を呼びに離れて行く。その様子を見ながらも、私が頭に浮かんでいたのは、大会のことだった。骨折はしていないだろうが、生きてきた中で1番の捻挫だとすぐに分かる。しかもそれがこのタイミングで。
保健室には、澪夏、部活動の後輩達、そしてバスケットボール部の子達も、一緒に来てくれた。部活動の後輩達は泣きそうな表情をしており、バスケットボール部の子達は気まずそうにしている。
澪夏はバスケットボール部も関係あるからと言って保健室に入ってすぐ、秀君を呼びに行くと言い保健室から出て行った。秀君は部室で昼食を食べているはずだった。
私が落ちてしまった理由、それは階段を上がってきたバスケットボール部の子が話に夢中なこともあり、私の後ろを歩いていた後輩にぶつかった。そしてその子がバランスを崩してしまい、私にそのままぶつかったというわけだった。
後ろにいた後輩は澪夏に腕を掴まれた後、バスケットボール部のぶつかった子もその子を掴んでくれたため、事なきを得た。
私の足首を冷やしながら、養護教諭の先生は私に病院に行くようにと伝える。塩川先生は、私の親に連絡を入れてくると言って保健室を後にした。親に迷惑をかけてしまうことに、心が痛んだ。
保健室の空気は重苦しかった。どうにかしないとという思いもあるが、今は自分のことで精一杯だった。この感じでは、大会には出られそうにはない…。その考えが、何度も脳裏を過る。
保健室のドアが勢いよく開き、私の名前を呼ぶ秀君の声が聞こえる。すると、秀君は私に真っ先に頭を下げたのだった。
「ごめん!話は澪夏から聞いた。俺の後輩のせいで本当にごめん」
「秀君、頭をあげて。いいの、大丈夫だから」
「いや、だって…」
秀君はそれ以上私には何も言わずに、バスケットボール部の後輩達の前に立った。私の親友の恋人の彼ではなく、今はバスケットボール部のキャプテンの顔をしているのだと、そう感じた。そして、その表情は怒りに満ちていた。
「お前ら、高校生にもなって周りを見て歩けないのか」
「すみません!俺がぶつかりました。こいつは悪くないんです」
「お前だけじゃない。2人の責任だ。…彩葉ちゃんは明日から大会があるのに、こんなことになって…、お前達は取り返しのつかないことをしたんだ」
バスケットボール部の子達は、大会のことを聞いて驚き、私に深く頭を下げて謝っていた。秀君は、私に気が済むまで怒っていいと、言ってくれた。秀君がそう言ってくれた気持ちは嬉しいが、私はそうすることはできなかった。
「私がちゃんと着地出来なかったのが悪いの。だから大丈夫。みんな、自分を責めなくていいからね」
私がそう言うと、泣いている私にぶつかった後輩の背中をさすりながら、澪夏は私に助けられなかったことを謝罪する。
そんな彼女に、私まで助けていたら澪夏が危なかったこと、謝る必要がないこと、そして、むしろ謝るのは私の方だと告げた。私が、大会に出場できなくなってしまったのだから。
誰もがわざとやったわけではない。だからこそ、どうすることもできずに切なくて苦しい。
「……みんな、お昼食べないと昼休み終わっちゃうよ。もう大丈夫だから戻って」
私がそう言ったことに対して、澪夏は私を置いてはいけないと言ってくれたのだが、後輩達のことを頼むと、澪夏は少し考えた後で承諾してくれた。
そして、後輩達を教室に送った後、保健室にお弁当を持ってくるので、澪夏のお弁当を一緒に食べないかと言われたが、お腹が減っていないから大丈夫だと言ってそれを断った。
澪夏は私のことを気にしてくれながらも、後輩2人を連れて、保健室を後にした。秀君達も出て行こうとするが、「放課後、この事はまた話すからな」と後輩達に言っていたので、「あまり怒らないであげて」と言って、彼らを見送った。
そして親が来るまでの間、私はベッドで休ませてもらうことになり休んでいると、塩川先生が親と連絡を取れたと言って、保健室へと戻ってくる。
「じゃあ俺は教室に行って、西谷に頼んで一ノ瀬の荷物準備してもらってくる。また届けに戻るな」
「すみません、ありがとうございます」
そう言って先生はベッドのカーテンを丁寧に閉め、教室に向かった。
悔いの残らないように終わりたかったのだが、スタート地点にさえも立てなかった。今までやってきたことが、綺麗に崩れ去る感覚を覚える。
ベッドに横になっている私は、腕で目を覆った。何も、見たくない。現実を、見たくない。
そんなことをひたすら考えていると、ドアをノックする音が聞こえる。養護教諭の先生が、「どうぞ」と言った後に開かれたドア。塩川先生が荷物を持ってきてくれたのだろうと、私はそう思っていた。
「一ノ瀬さんはベッドで休んでいるよ」
養護教諭の先生は、相手にそのように言っていた。言葉や話し方からして、相手が塩川先生ではないと察する。もしかしたら澪夏が荷物を持ってきてくれたのかもしれないと、咄嗟に考えが浮かんだ。
こちらに向かってくる足音。そして…。
「…開けてもいいか?」
しかしその声は、澪夏ではなかった。
「え?利斗君?どうして?…あ、えっと、開けても大丈夫だよ」
カーテンの向こうから聞こえたその人の声は、いつも隣の席で聞いている、彼の声だった。
彼はベッドの横に鞄を置く。そしてベッドを離れるのではなく、近くにある椅子に彼は腰を下ろしていた。起き上がろうとしたところを利斗君に制止され、私は寝たままの状態だった。
養護教諭の先生は、職員室に用事があると言って出て行ったので、保健室で2人きりになる。
どうやら澪夏が荷物を準備してくれた後先生が届けようとしてくれていたらしいのだが、澪夏が先生は忙しいだろうから利斗君が届けるようにと言ったのだそう。先生は確かに仕事があると言い、彼に頼んだようだった。おそらく先生は、察してそのように言ってくれたのかもしれない。
私は、利斗君と話をすることができなかった。気まずくは感じない沈黙は、このままただ続くかのように思えた。
しかしその沈黙の空気に、彼の声が入る。
「……我慢する必要ないだろ」
私は、彼の言っている意味をすぐに理解した。
「……大丈夫…、だから」
私は彼から顔を逸らし、そう告げた。
「 一ノ瀬」
しかし彼に呼ばれ、私は利斗君の顔を見つめる。利斗君も、真っ直ぐにこちらを見てくれていた。彼と目が合い、恥ずかしさがありながらも、私は彼から目を離すことはできなかった。
「一生懸命頑張ってたんだ。大丈夫なわけないだろ」
「……私が一生懸命頑張ってたこと、知ってるの?」
『彼は私のそのよう姿を知るはずがない』。そのような思いが込もっているような言い方で、私は彼にそう告げた。彼に反論するつもりはないのに、私は自分が思っている以上に、気持ちに余裕がないことを実感した。
「……よく話してるだろ。それに登下校する時に見えてるからな」
「え?」
コートの場所から、登下校の生徒達に見られるのはおかしいことではないが、彼はいつも気にせずに通っていくのだと、私はそう思っていた。利斗君がそう言ってくれるなんて、1ミリも思っていなかったことだった。
「……今はただ泣けばいい。辛い時は、我慢する必要も理由もないだろ」
彼の真っ直ぐな言葉は、私の心を解放してくれるかのようだった。彼の真っ直ぐな言葉、真っ直ぐな瞳、私は彼から目を逸らせないまま、私の目が濡れ始めていくのを感じていた。
「利斗君、私、わた…し…。ほんと…は…ね……、すごく…、悔しくて……、辛いの……」
私は抑えきれずに、声を出して泣き始めてしまった。利斗君の前で泣き喚くのは嫌だとか、そういうことも考える暇もなく、心のままに泣いていた。手で涙を拭いても、間に合わなかった。
利斗君は泣いている私に触れて…、くれることはないけれど、ティッシュペーパーを取りに行ってくれて私に差し出してくれた。そしてその後も、横に居続けてくれたのだった。
涙が溢れているうちに予鈴のチャイムが鳴ったので、泣きながら利斗君にそのことを伝える。
「予鈴……、鳴ったよ……」
「そうだな」
だけど利斗君は、椅子から立ち上がることがなかった。
そして本鈴が鳴る頃には私は落ち着きを取り戻してはいたのだったが、利斗君はそれでも教室に向かう様子はなかった。
「利斗君、いいの…?」
「あぁ」
座ったままの彼を見て、彼の優しさが心に沁みていく。
利斗君への想い…。あの日の教室から始まり、利斗君を好きになって、少しずつ想いが大きくなって…。
今の出来事で私は気付いたことがある。例え始まりがあの日じゃなかったとしても、きっかけが違かったとしても、私は彼を好きになっていたと思う。
…分かったような気がする。
私が好きになった人は、『同じクラスで隣の席の彼』ではなく、『利斗君』だ。
私は利斗君と、同じクラス。そして、隣の席。隣に彼が、いつもいる。日常の中で、彼のことを気になるタイミングはいくらでもあったように思う。そして、その気持ちは必然と大きくなっていく。
そう思う理由は…、利斗君は『優しさを、真っ直ぐにくれる人』だから。
その彼の優しさは、私にとって特別なもの。私は、彼に恋をして本当に良かったと、心から思える。
…利斗君、私はあなたに好きを誓います。
今日のお礼、そして彼のことを好きにさせてくれたお礼。私はその2つの意味で、彼に言葉を柔らかに伝えたのだった。
「……ありがとう」
「じゃあ明後日からの大会に向けて、気を引き締めてしっかりやっていこう!」
澪夏の掛け声と共に全員で声を出す。コートに響き渡る、私達の声。
最後の大会。今までの大会で大きな結果を出したことはないが、悔いが残るようなことはしたくない。
準備運動を終えラケットを取りに行こうとしていると、帰り際の利斗君を見つける。テニスコートはグラウンドの横にあるので、他の生徒達の姿がよく見えるのだ。
私は心の中で「利斗君、また明日ね」と呟く。彼がこちらを見ることはないが、私は彼のことを見れただけで、部活動を頑張れる、そんな気になれてしまうのだった。
そのおかげもあってか、部活動の時間で行った練習試合は、全て勝利を収めることができた。
「彩葉の調子良かったけど、利斗君のおかげか。帰るところ見てたし」
「ごめん、集中してないわけじゃないよ」
「分かってる。練習中のタイミングでもなかったしね。…彩葉、大会頑張ろう」
「もちろん!」
過去を思い出すと、部活動に行きたくない日ももちろんあった。先輩達に怒られた後は、特にそうだった。
朝練習で先輩に怒られたために部活動に行きたくない、どうしようと、利斗君に溢した日もある。その時彼は、詳しく聞いてくることはなかったが、私にこう言った。
「部活が好きならまた自然と行きたくなるだろ」
行った方がいいとも、頑張れとも言わない。彼の言葉は、私にプレッシャーを与えてくることがなかった。気持ちを晴れやかにしてくれるだけ。
大会は、澪夏のためにも自分のためにももちろん頑張る。でもそれだけではなくて、利斗君にいい報告ができればいい、そういう意味でも私は、頑張ろうと心に決めていた。
翌日。朝練習を終え教室に向かうと、今日に限ったことではないが、利斗君の姿が最初に目に入る。私が意図して彼の方に目を向けているからだろう。
「利斗君、おはよう」
「あぁ」
「いよいよ大会が始まるんだよ」
「知ってる。今週に入って何回か既に聞いてるからな」
「あ、ごめん。何回も同じ話、飽きるよね」
「……頑張れよ」
「……もう1回言ってほしいな」
彼はその後、もう一度言ってくれることはなかった。しかし一度だけでも、「頑張れ」と言ってくれた瞬間のことを、忘れることはない。試合中に何かあれば、利斗君が言ってくれた時のことを自然と思い出す、今のうちからそんな予感がしていた。
そして今日も何事もなく、授業が終わって部活動に行く。そして明日から大会が始まる。何も疑いもせずに、ただそう思っていた。
「今日お弁当じゃないから、購買付き合ってもらってもいい?」
4時間目の授業を終え、澪夏が席を立つ前に彼女の席に行き私はそう告げた。澪夏は快諾してくれて、利斗君に購買に行くことを伝え、財布を手にして教室を後にする。
「あ、こんにちは」
廊下を進んでいると、部活動の後輩2人と廊下で遭遇する。彼女達は2年生で、自動販売機に向かうとのことだったので、途中まで一緒に行くこととなった。
私と後輩の1人が前を歩き、私の後ろをもう1人の後輩が歩き、澪夏はその後輩の隣、私の斜め後ろを歩くという並びができあがる。
そして私達はそのまま階段を下りようとしていた。私が右側を歩いていたので、上がってくる人達とすれ違う側だった。
階段を下がり始めるのと同時に、前方から2人の男子生徒達が歩いてくるのが見える。彼らも話に夢中で、話が盛り上がっているようだった。
彼らのことは、見たことがある。秀君と同じバスケットボール部で、1年生だ。バスケットボールをする秀君を昼休みに澪夏と見に行った際に、体育館で2、3回見かけたことはあったが、挨拶もしたことはまだなかった。澪夏は1人でも見に行くことがあるので、それ以上に見たことがあるかもしれないし、挨拶もしたこともあるかもしれない。
そしてその時は、突然訪れた。
「うわっ!」
私の後ろを歩いていた後輩の叫び声が聞こえたかと思えば、すぐに私の背中にその後輩がぶつかり、私の体が下に落ちていく。痛みを感じるまで、何も考える余裕がなかった。
いたっ……。
澪夏達の声が聞こえる。階段の下の方ではあったので、数段を飛ばして落ちてしまったのだったが、着地をする際に足首を思いっきり捻ってしまい、転んでしまったのだった。心配をかけないように早く立ち上がりたかったが、右足首の痛みが強く、簡単には立ち上がることができなかった。
澪夏に頼まれ、後輩達は先生を呼びに離れて行く。その様子を見ながらも、私が頭に浮かんでいたのは、大会のことだった。骨折はしていないだろうが、生きてきた中で1番の捻挫だとすぐに分かる。しかもそれがこのタイミングで。
保健室には、澪夏、部活動の後輩達、そしてバスケットボール部の子達も、一緒に来てくれた。部活動の後輩達は泣きそうな表情をしており、バスケットボール部の子達は気まずそうにしている。
澪夏はバスケットボール部も関係あるからと言って保健室に入ってすぐ、秀君を呼びに行くと言い保健室から出て行った。秀君は部室で昼食を食べているはずだった。
私が落ちてしまった理由、それは階段を上がってきたバスケットボール部の子が話に夢中なこともあり、私の後ろを歩いていた後輩にぶつかった。そしてその子がバランスを崩してしまい、私にそのままぶつかったというわけだった。
後ろにいた後輩は澪夏に腕を掴まれた後、バスケットボール部のぶつかった子もその子を掴んでくれたため、事なきを得た。
私の足首を冷やしながら、養護教諭の先生は私に病院に行くようにと伝える。塩川先生は、私の親に連絡を入れてくると言って保健室を後にした。親に迷惑をかけてしまうことに、心が痛んだ。
保健室の空気は重苦しかった。どうにかしないとという思いもあるが、今は自分のことで精一杯だった。この感じでは、大会には出られそうにはない…。その考えが、何度も脳裏を過る。
保健室のドアが勢いよく開き、私の名前を呼ぶ秀君の声が聞こえる。すると、秀君は私に真っ先に頭を下げたのだった。
「ごめん!話は澪夏から聞いた。俺の後輩のせいで本当にごめん」
「秀君、頭をあげて。いいの、大丈夫だから」
「いや、だって…」
秀君はそれ以上私には何も言わずに、バスケットボール部の後輩達の前に立った。私の親友の恋人の彼ではなく、今はバスケットボール部のキャプテンの顔をしているのだと、そう感じた。そして、その表情は怒りに満ちていた。
「お前ら、高校生にもなって周りを見て歩けないのか」
「すみません!俺がぶつかりました。こいつは悪くないんです」
「お前だけじゃない。2人の責任だ。…彩葉ちゃんは明日から大会があるのに、こんなことになって…、お前達は取り返しのつかないことをしたんだ」
バスケットボール部の子達は、大会のことを聞いて驚き、私に深く頭を下げて謝っていた。秀君は、私に気が済むまで怒っていいと、言ってくれた。秀君がそう言ってくれた気持ちは嬉しいが、私はそうすることはできなかった。
「私がちゃんと着地出来なかったのが悪いの。だから大丈夫。みんな、自分を責めなくていいからね」
私がそう言うと、泣いている私にぶつかった後輩の背中をさすりながら、澪夏は私に助けられなかったことを謝罪する。
そんな彼女に、私まで助けていたら澪夏が危なかったこと、謝る必要がないこと、そして、むしろ謝るのは私の方だと告げた。私が、大会に出場できなくなってしまったのだから。
誰もがわざとやったわけではない。だからこそ、どうすることもできずに切なくて苦しい。
「……みんな、お昼食べないと昼休み終わっちゃうよ。もう大丈夫だから戻って」
私がそう言ったことに対して、澪夏は私を置いてはいけないと言ってくれたのだが、後輩達のことを頼むと、澪夏は少し考えた後で承諾してくれた。
そして、後輩達を教室に送った後、保健室にお弁当を持ってくるので、澪夏のお弁当を一緒に食べないかと言われたが、お腹が減っていないから大丈夫だと言ってそれを断った。
澪夏は私のことを気にしてくれながらも、後輩2人を連れて、保健室を後にした。秀君達も出て行こうとするが、「放課後、この事はまた話すからな」と後輩達に言っていたので、「あまり怒らないであげて」と言って、彼らを見送った。
そして親が来るまでの間、私はベッドで休ませてもらうことになり休んでいると、塩川先生が親と連絡を取れたと言って、保健室へと戻ってくる。
「じゃあ俺は教室に行って、西谷に頼んで一ノ瀬の荷物準備してもらってくる。また届けに戻るな」
「すみません、ありがとうございます」
そう言って先生はベッドのカーテンを丁寧に閉め、教室に向かった。
悔いの残らないように終わりたかったのだが、スタート地点にさえも立てなかった。今までやってきたことが、綺麗に崩れ去る感覚を覚える。
ベッドに横になっている私は、腕で目を覆った。何も、見たくない。現実を、見たくない。
そんなことをひたすら考えていると、ドアをノックする音が聞こえる。養護教諭の先生が、「どうぞ」と言った後に開かれたドア。塩川先生が荷物を持ってきてくれたのだろうと、私はそう思っていた。
「一ノ瀬さんはベッドで休んでいるよ」
養護教諭の先生は、相手にそのように言っていた。言葉や話し方からして、相手が塩川先生ではないと察する。もしかしたら澪夏が荷物を持ってきてくれたのかもしれないと、咄嗟に考えが浮かんだ。
こちらに向かってくる足音。そして…。
「…開けてもいいか?」
しかしその声は、澪夏ではなかった。
「え?利斗君?どうして?…あ、えっと、開けても大丈夫だよ」
カーテンの向こうから聞こえたその人の声は、いつも隣の席で聞いている、彼の声だった。
彼はベッドの横に鞄を置く。そしてベッドを離れるのではなく、近くにある椅子に彼は腰を下ろしていた。起き上がろうとしたところを利斗君に制止され、私は寝たままの状態だった。
養護教諭の先生は、職員室に用事があると言って出て行ったので、保健室で2人きりになる。
どうやら澪夏が荷物を準備してくれた後先生が届けようとしてくれていたらしいのだが、澪夏が先生は忙しいだろうから利斗君が届けるようにと言ったのだそう。先生は確かに仕事があると言い、彼に頼んだようだった。おそらく先生は、察してそのように言ってくれたのかもしれない。
私は、利斗君と話をすることができなかった。気まずくは感じない沈黙は、このままただ続くかのように思えた。
しかしその沈黙の空気に、彼の声が入る。
「……我慢する必要ないだろ」
私は、彼の言っている意味をすぐに理解した。
「……大丈夫…、だから」
私は彼から顔を逸らし、そう告げた。
「 一ノ瀬」
しかし彼に呼ばれ、私は利斗君の顔を見つめる。利斗君も、真っ直ぐにこちらを見てくれていた。彼と目が合い、恥ずかしさがありながらも、私は彼から目を離すことはできなかった。
「一生懸命頑張ってたんだ。大丈夫なわけないだろ」
「……私が一生懸命頑張ってたこと、知ってるの?」
『彼は私のそのよう姿を知るはずがない』。そのような思いが込もっているような言い方で、私は彼にそう告げた。彼に反論するつもりはないのに、私は自分が思っている以上に、気持ちに余裕がないことを実感した。
「……よく話してるだろ。それに登下校する時に見えてるからな」
「え?」
コートの場所から、登下校の生徒達に見られるのはおかしいことではないが、彼はいつも気にせずに通っていくのだと、私はそう思っていた。利斗君がそう言ってくれるなんて、1ミリも思っていなかったことだった。
「……今はただ泣けばいい。辛い時は、我慢する必要も理由もないだろ」
彼の真っ直ぐな言葉は、私の心を解放してくれるかのようだった。彼の真っ直ぐな言葉、真っ直ぐな瞳、私は彼から目を逸らせないまま、私の目が濡れ始めていくのを感じていた。
「利斗君、私、わた…し…。ほんと…は…ね……、すごく…、悔しくて……、辛いの……」
私は抑えきれずに、声を出して泣き始めてしまった。利斗君の前で泣き喚くのは嫌だとか、そういうことも考える暇もなく、心のままに泣いていた。手で涙を拭いても、間に合わなかった。
利斗君は泣いている私に触れて…、くれることはないけれど、ティッシュペーパーを取りに行ってくれて私に差し出してくれた。そしてその後も、横に居続けてくれたのだった。
涙が溢れているうちに予鈴のチャイムが鳴ったので、泣きながら利斗君にそのことを伝える。
「予鈴……、鳴ったよ……」
「そうだな」
だけど利斗君は、椅子から立ち上がることがなかった。
そして本鈴が鳴る頃には私は落ち着きを取り戻してはいたのだったが、利斗君はそれでも教室に向かう様子はなかった。
「利斗君、いいの…?」
「あぁ」
座ったままの彼を見て、彼の優しさが心に沁みていく。
利斗君への想い…。あの日の教室から始まり、利斗君を好きになって、少しずつ想いが大きくなって…。
今の出来事で私は気付いたことがある。例え始まりがあの日じゃなかったとしても、きっかけが違かったとしても、私は彼を好きになっていたと思う。
…分かったような気がする。
私が好きになった人は、『同じクラスで隣の席の彼』ではなく、『利斗君』だ。
私は利斗君と、同じクラス。そして、隣の席。隣に彼が、いつもいる。日常の中で、彼のことを気になるタイミングはいくらでもあったように思う。そして、その気持ちは必然と大きくなっていく。
そう思う理由は…、利斗君は『優しさを、真っ直ぐにくれる人』だから。
その彼の優しさは、私にとって特別なもの。私は、彼に恋をして本当に良かったと、心から思える。
…利斗君、私はあなたに好きを誓います。
今日のお礼、そして彼のことを好きにさせてくれたお礼。私はその2つの意味で、彼に言葉を柔らかに伝えたのだった。
「……ありがとう」