もしも何の躊躇いもなく心の思うまま好きな人に想いを告げられるとしたら、私の世界はどう変わるだろう。
「原さん、そろそろ帰ろうか」
そう言われて、私は手を止めて用紙から顔を上げた。
窓の外を見ると、夕焼けがあるはずの所に、薄青い空が広がっている。
宵の始まりの時間、世界は独特だと思う。
「疲れた?」
さらさらの黒髪の整った顔が私を見下ろした。
敬の声は滑らかだ。敬の声は、まだ低くなっていない、子供の声だが、何かが居心地良く耳に響く。
「ううん」
「頼んでごめんね。書記役お疲れ様」
ボールペンにキャップをして筆箱にしまう。
放課後。美術室で、私がしていたのは、委員会活動のまとめの清書だった。
書記の人が風邪で学校を休んでいて、帰りのホームルームが終わった後、敬から声をかけられたのだった。
「クラス委員の時間も保護して貰わなきゃ。これじゃ部活時間がなくなっちゃうよ」
脇に置いていた鞄を引き上げようと手を伸ばしながら、敬が言った。
私は立ち上がってジャケットを羽織り、鞄に筆箱をしまった。
「私は、暇だから」
「暇って言ったって。原さん帰宅部でしょ?家で何かしてるんじゃない?」
「何もしてないよ」
「そうなの?なら良いけど。僕は、やらなきゃいけないこと多いから。」
ガラガラと戸を開けて美術室を出ると、廊下の窓から見た空も同じ色をしていた。
校門へ向かう帰宅する生徒達の姿がパラパラと見えた。
階段を降りて昇降口まで歩いていくと、もうほとんど部活の人たちも帰ってしまって誰もいなかった。
外履きを取ると、私のよりひとつ斜め上の靴入れに、敬が手を伸ばした。
「原さんが書記だったら良かったな。」
靴を片手に下げて敬が言った。
「何で?」
私が聞いた。
「別に」
敬が言った。靴をつっかけながら、いつも通りの顔をしている。
靴紐を結びながら外を見ると、透明なガラス扉の向こうの景色はなんとなく青ざめて、まるで空全体が地上に落ちてきているようだった。
敬が言った。
「オレンジじゃない夕方は、特別な人と居る時間って気がするな。」