どこをどう歩いただろうか。
夕暮れの薄暗がりの中をトボトボと歩いていたの。
そして気づけば、あのワンピースを買った不思議な店の前にわたしは立っていた。
「あ……そうだ。契約書」
そうよ!
わたしは、気づく。
契約書を書き換えてもらえれば、せめて一ヶ月という期限をなくしてもらえれば、ケイ君も気にしなくなるのではないだろうか。
もっとゆっくり、夏休み中をかけて調整すれば、ケイ君と喧嘩せずにいられるのではないだろうか。
いっそ、契約書を破棄して、ワンピースを返してしまうのもアリかもしれない。
だって、もう一度、本当に祐樹君のことをどう思っているのか、自分に問い直したいし。
もし、やっぱり好きだと思う気持ちに間違いはないとしても、魔法の力じゃなくて、ちゃんと祐樹君に向き合って、「好きです」って言えるようになるべきだもの。
そう思ったわたしは、店のドアを開ける。
「いらっしゃいま……せ。なんだ。あなた」
この間と同じ店員が、わたしに冷たい顔を向ける。
なにこの塩対応……。
「あなたすごいわね。普通は、この店には、二回も来られないのよ」
「え……そうなの?」
すごいのなら、もっと歓迎してくれても良いと思うのだけれど、どうしてこうも塩対応なのか。
「まあ、いいわ。今日は、どういったものをお探しですか?」
「あの。買い物じゃないの。契約書を。この間の契約書を書き換えたいの。なんだったら、破棄できるなら、それでも良いんだけれど」
わたしの言葉を聞いて、店員がニヤリと笑う。
すごく怖い。
獲物を前に舌なめずりする野獣みたいな鋭い視線で、店員がわたしを見ている。
「あら……失敗しそうなのねぇ」
「うん……ケイ君……従者とも喧嘩しちゃったし」
「へえ……従者とね……」
なに、そのしてやったりって感じの冷たい笑顔。
この人、なんか怖い。
「悪いけれどぉ、契約は変更できないわ」
「え?」
「あなたが自分でサインしたの。それを今さら変えられないわ」
「……そんな……」
まさか、そんな重要な契約だと思わなかった。
だって、店員さんだって、軽い気持ち良いってあの時言っていたもの。
「あら、従者から、何も聞いていない?」
「え?」
わたしは、ドキリとする。
ケイ君が、わたしに秘密にしていたことがあるってことだろうか?
「契約が失敗した時にどうなるか……」
「どうなるの?」
そんなの……何も考えていなかった。
店員は、すっとこの間わたしが書いた契約書を引き出しから出してくる。
「ここを、よく見てみると良いわ」
契約書の最後。
よく見ていなかったが、文字が書いてある。
『期限内に契約内容を成功させなければ、西岡まりあの魂は、魔女エレルザーレのものとなる』
こんなの、名前を書いた時には書いていたっけ?
「魔女エレルザーレって、わたしなの!」
きゅるるるんって、楽しそうに笑ってみせる店員、魔女エレルザーレ。
そのおどけた様子にわたしはかえって邪悪なものを感じて、ぞっとする。
「こ、こんなの! 不当よ! こんな卑怯な契約、無効よ!」
「不当も卑怯も、甘美な言葉。魔女には誉め言葉!」
「でも、こんな紙切れ一つで魂をとるとか!」
「紙切れ一つ。そうなの。その紙切れ一つに記された約束が、魔法の根源なのよ。あなたの願いと引き換えに、魔法が発動するの」
エレルザーレは、ケラケラと笑って楽しそうだ。
だけど対照的にわたしの顔は、みるみる青ざめていく。
「あのポンコツ従者、案外良い仕事しているのね。こんなに早くねをあげるなんて!」
「従者……ケイ君……」
ケイ君は魔女の味方なの? 本当は、魔女にわたしを渡すために、手引きしていた?
恐怖で体が凍り付くほど寒く感じる。
全身の血の気が引いているのだ。
そう言えば、ケイ君は、なぜか色々なことを知っていた。体重計から人間になったばかりだとは思えないくらいに。
わたしが契約書に一ヶ月の期限を書いたことだって知っていた。
あれは、ひょっとして、元々は魔女の手下だったから? 体重計だっていうのは嘘で、実は、魔女の手先だったって言うの?
「ケイ君は、本当はわたしを失敗させようとしていたというの?」
「……さあ、どうでしょう? それを教えてあげるほど、わたしは親切そうにみえるかしら?」
目を細めて、獲物を確かめるようにわたしの顎を指でなぞるエレルザーレに、わたしは、体をうまく動かせずに震える。
「エレルザーレ! 期限はまだだろ! まりあを返せ!」
店の扉を開けて飛び込んできたのは、ケイ君だった。ケイ君は、わたしをエレルザーレから引きはがし魔女の前にたちはだかる。
「あら、やっと来たのね、ポンコツ従者。でも残念。愛しのまりあちゃんは、あなたのことを信用していないみたいよ?」
「え?」
ケイ君が、不安そうな瞳をわたしに向ける。
「わたしに逆らってまで、守ろうとしたのに残念ね。ケイ君」
高らかに魔女エレルザーレが笑う。
「エレルザーレ! わたしをからかったの?」
「お馬鹿さん。試したのよ。従者とどれくらい信頼関係ができているのかをね。結果は上々。わたしの手元にお姫様の魂は、あっという間に飛び込んできそうなくらいに、信頼なんてズタボロじゃない」
「そんな……」
また騙されちゃった。
どうしよう。どんどん魔女の思う通りになっちゃう。
「私の魔法が作った従者のくせに、ケイなんて名前もらって浮かれてたんでしょうが、結果はお粗末。大人しくわたしに従っていれば良かったのに! 従者、あなたもお仕事が終わったら処分ね」
怖い。こんなに怖い魔女と取引しちゃったんだ、わたし。
「安心して、まりあ。どんなにまりあが俺を信じてなくても、俺は絶対守るから。約束したろ?」
震えるわたしの手を握って、ケイ君がそう言って微笑む。
悲しそうなケイ君の笑顔。
きっと、わたしが魔女の口車に乗ってケイ君を疑ったから。
わたし、ケイ君の心を傷つけちゃったんだ。最悪だ、わたし。
「ケイ君、ごめんなさい……」
わたしは、ケイ君に謝る。
ケイ君の心にちゃんと届いたのかな……謝ってなんでも許されるわけではないことは、分かっている。
でも、伝わってほしい。
「いいよ。もう」
ケイ君はそう言っていたけれど、なんだかあきらめたような切ない顔をしていた。
だめだった。
きっと、わたしの謝罪は、ちゃんとはケイ君の心の底に届かなかった。
「帰ろう。まりあ。まだまだ時間はある。俺が、ちゃんと願いを叶えてやるから」
わたしの目に浮かぶ涙を、きっと魔女を怖がっているからだとケイ君は思ったのだろう。
自分の袖でわたしの顔をぬぐって、そんなことを言っていた。