金魚が死んだ。朝起きたら、畳にぺたりと横たわって死んでいた。水の入ったびいどろは倒れていなかった。つまり、金魚は自ら跳ね出てその命を絶ったのだ。
「馬鹿だね」
あちきは死んだ金魚の尾を、親指と人差し指で摘む。そっと顔の前まで持ち上げると、死んだ金魚と目が合った。
自分と同じその瞳に、吐き気を覚える。
「自由を夢みたか? ひとりで生きていけると思うたか。水を失ったその後の想像もできぬほどの馬鹿者に、見てよい夢などあるわけねえわ」
屑箱に放った金魚がぺちっ、と音を立てることすら不快だった。死んだものに興味はない。去っていったものになど、価値はない。
気づくと、あちきはどこか深い穴に落ちたようで天を見上げていた。望遠鏡を覗くみたいに、丸く切り抜かれた視界の遠くで、鈴が揺れる。
細い煙を立ち上がらせる白妙の刻飛鈴。その煙を纏った呂色の神楽鈴が、火柱をあげて燃えていた。火は、曲線の壁をうねるように迫り来て、あちきの身体に燃え移る。
朱色に染まる着物。
水分を消失し、白濁する目玉。
嗚呼そうか。あちきは金魚じゃ。
自由を求めて、死んだ金魚じゃ。
野暮な男の腰に揺れた鈴の力で、
綿々たる奈落の底に落とされた。
吾作が妻をとると聞いた時、最初は別によいと思った。あちきは既に上級遊女としての地位を得ていたし、月日を経て価値観が枯れ出した吾作なんかよりも若く張りのある客の方が何倍も魅力的だったから。
だが、吾作が選んだのが遊女であったことがどうにも癪に触った。それも明里? 上級遊女どころか、明里は年季まで細い客を地味に取り続けただけの薄幸な女で、そんじょそこらに掃いて捨てるほどいる凡庸な遊女だった。
楼主の部屋を訪れたあちきは、湯呑み片手に息をつく吾作を見下ろして言った。
「明里はやめなんし。仮にも刻飛楼の楼主、あちきの番の立場である其方が、あんな女を妻にするんじゃ決まりが悪い」
「明里は真面目な女だ。欲がない。満たされる容量の小さな女は、安心できる」
「……は?」
聞き違いだろうか。今一瞬、吾作はあちきを見下したような。
「お百よ、お前がこの廓の頂点に君臨し続けてから100年以上の時が経った。お前の妖術にかかった俺は命を剥ぎ取られ、老いることも死ぬことも許されない。未来永劫、鈴の力を引き出すために必要なこの痣をお前に利用されるだけのちっぽけな存在だ」
あちきは鼻で笑う。
「刻飛村を出たあの日から、あちきの身体を散々堪能しておいて、何を今更。そもそも其方には“意識”を返してやってやす。これは特別なことでありんす。そのおかげでそうして今、あちき以外の女を好く事だって出来たんじゃないか。被害者面はやめておくんなんし」
「それは、意識まで取り込んでしまっては痣の力が無力化してしまうからだろう。俺やお前が老いないことを誰かが気づく度に、鈴の力で少しずつ未来へと刻を飛び、江戸から明治と時代さえも飛び越えてきた。だがそれも、もうすぐ終わる」
吾作の言葉に耳を傾けつつ、あちきは顔を顰めた。
「未来で歴史を知っただろう。江戸が終わり、今は始まったばかりの明治時代も、今後は革新的な道筋を辿る。他国との交易や教育、国が力を入れて進化を求める事案の類に、この遊郭は含まれていないんだ。今までのように遊女がそれなりの地位を確立できた時代は終わりを告げる。世間はこれから、女に純潔性を求め始めるんだ」
「なにが言いたい」
「吉原が昔のように栄華を極めることは、もうない。大正を経て昭和には売春防止法が成立し、平成、それこそ令和の時代には、遊郭なんてものは跡形もない。金で色を買う行為は犯罪になるんだ。お百、お前ももうこの吉原にこだわることはせず、時代に馴染んで生きていく道を選択しないか? 鈴は、刻飛村の祠に戻そう」
……最後、なんて?
「お前との関係を終わらせたい、命を返してくれ。刻飛村が今どうなっているかわからないが、もしお前が好きな時代に飛びたいというのなら、最後に俺が一度だけ——」
目の前で頓痴気なことを宣う男の顔を、あちきはぼうっと眺めた。
なぜこの男を選んだのだろう。痣を胸に刻んだ男は刻飛村に幾人か居たというのに、あちきはなぜこんな盆暗を番にしたのか。
「のう、吾作。其方の思うあちきの好きな時代とは、どこじゃ」
「それは」
「あちきがこの吉原遊廓に並々ならぬ思いを抱いていること、ずーっとそばに居って露ほども理解出来なかったか?」
瞳孔が開く。あちきは吾作へとにじり寄りながら額に血管を這わせ、目を吊り上げ、頬骨まで口を裂いて牙を剥いた。
その姿に、吾作は湯呑みを放り出して壁際に逃げる。
「あちきは美しいものが好きなのじゃ。美しい着物を羽織り、美しい髷を結い、美しい唇に美しい紅を引く。そのあちきを、数多の男が狂ったように求め溺れていく、その様がたまらなく好きなのじゃ。そんな時代が、ここより他に存在するのか? あるなら申せ」
「お、落ち着けよ。その姿、俺を殺すつもりか? 俺の胸の痣がなければ、刻を飛ぶことは出来ないぞ」
「そうして痣を盾に、其方はあちきと対等な立場を確立していたつもりだろう。馬鹿が。痣のある人間など、それこそ村に戻ればいくらでも見繕える。勘違いも甚だしいお前のような男が、勝手にひとり幸せを掴もうなど許されるわけがありんせん」
あちきの白銀の髪は蛇のようにうねり舞い、空間を占拠した。逃げ場のない吾作は喉を鳴らして唾を飲み込み、細かく息を繰り返す。
「よ、吉原はもう終いだ。たとえ鈴を使って過去に戻ろうと、もう遊郭が栄えたどの時代にもお前は既に存在する。いくらお前のような妖怪でも、既存の自分自身に遭遇し互いを認知したその瞬間、お前の身体は過去のお前もろとも煙のように消滅するぞ」
「誰が過去に戻るなどと言いんした。未来に吉原が存在しないというならば、造ればよい。ただそれだけのこと」
「……なんだと?」
一歩。あちきは吾作に近づいた。
「終わりんせん。この吉原遊廓は永遠に続く花園。あちきは鈴の力を使って、令和という時代に遊郭の城を造りんす。未来の女の顔貌は今より様々、あちきに勝らずとも劣らぬ美人がごろごろ居る。将来有望な幼き女を未来から連れ去り、この廓で教育してから再び未来に送る。そうしてあちきは、未来の有力者が密談密会に利用できる新たな廓で色を売るのでありんす。どうじゃ、よい考えじゃろう?」
一歩、また一歩と、吾作とあちきの距離は互いの鼻頭が触れるか触れないかのところまでに迫る。
「吾作。明里を妻にすることは諦めよ。其方はこのまま、あちきの野望に付き合え」
「断る」
「まだ言うか!」
「化け物と一生を共にする地獄なんてもう御免なんだよ!」
化け物。吾作のその一言で、あちきの思考はぶつりと切れた。縦横目一杯に口を広げて、自慢の牙で吾作の愚鈍頭を貫いてやろうと肩を掴みそして一息に!!
————と、なる筈だったのだが。
あちきは何やら閃光を浴びて、眩しさに目を閉じたが最後。途端に足場が消失し、屑箱に放られた金魚のように深い深い穴へと真っ逆さま。
ひたすら落下の感覚が続き、とうとう地面に打ち付けられた身体がぺちっ、と音を立てれば、身体はもうどうにも動かすことが出来なかった。ただ遠くから、吾作の腰にぶら下がっていた刻飛鈴と神楽鈴の音が聞こえる。
しゃらり。
その鈴は、時を飛ぶ絡繰りの音。
しゃらり。
その鈴は、運命の恋を手繰る翼。
こうしてあちきは、吾作が発動させた鈴の力で虚無の世界に堕ちた。
人肌もない。渇望の眼差しも、声もない。いっそ死ねたら良いのだが、虚無ではそれすら許されなかった。
「……墨さん、百墨花魁。朝ですよ」
ゆっくり瞼を開けば、目の前には優しく微笑みを浮かべる裸体の男。三層に重ねた真っ赤な布団に横たわり、広げた着物にふたりして包まれて、男は自らの熱をこちらの肌へと移してくる。
あちきは何度かゆっくり瞬きをすると、男の首に視線を落としてそっと触れた。喉仏を横一線に割く形でぷくりと痛々しいその傷跡は、あの忌まわしい吾作の娘、夕霧がつけた遺恨の一文字だ。
「耕太郎、おはよう」
「おはようございます百墨さん。昨日の道中、眩暈がするほど美しかった」
「ありがとうござりんす。首の傷はどうじゃ。もう身体に異変はありんせんか?」
あちきが寝起きのまるい声でそう問えば、耕太郎は恍惚な表情を見せた。
「大したことはありません。それに、俺には貴方が居ます。貴方が居れば、俺は死なない。それは能力とか物理的な何かという意味ではなく、俺は貴方が居なければそもそも生きてはいけないんです。貴方が、居なければ」
「大丈夫じゃ耕太郎。あちきはずっと側におりんす。吾作はもう、この世のどこにも居んせん故」
不安に駆られている耕太郎の額にそっと、口付けを落とす。
あちきが虚無空間から解放されたとき、時代は明治22年。吾作に封印されてから20年の時が経過していた。吉原遊郭はかろうじてまだ存在していたが、全盛期の煌びやかさは失われ、遊女はもとより訪れる客の数も激減。吾作が言った通り、時代は今にも変わろうとしていた。
あちきはなんとかこの状況を脱したく刻飛村を目指した。だが村にはもう人はなく、あるのは朽ち果てた土地のみ。洞窟を抜けて祠まで辿り着くと、中心の台には白と黒、ふたつの鈴が堂々と座していた。
あちきは想像した。祠に刻飛鈴と神楽鈴を戻したのはおそらく吾作だろう。あちきを封印した後しばらくは平穏に過ごしたが、月日を経て妻の明里が死ぬと、吾作は再び鈴の力に頼ろうとした。そうして鈴を手にしたまでは良かったが、鈴にはあちきを封印する呪がかけられており、力を発揮した瞬間にあちきは虚無から放り出されたのだ。
吾作は、刻飛に乗じて未来で始末した。あちきの野望を邪魔するものはもう居ない。
だが、鈴を使って再び未来に飛ぶには痣がいる。吾作亡き今、胸に鈴蘭を持つ夕霧か、はたまたあの子の存在が必要不可欠だ。
「百墨さん、またぼうっとなさってる。今、誰のことを考えていたのですか」
「なんじゃ耕太郎、嫉妬なんかして」
「意地悪を言わないでください。俺は、貴方以外を愛したことはないのですよ」
「分かっているでありんす」
「貴方の理想郷を未来に造るまで、あと少し。十数年前より未来から連れてきた幼子を今日まで育て、再び未来にて立派な遊女として稼働できる目処がやっと立ちました。薄雲はまあ、残念でしたが。決行の日は明治44年4月9日、吉原大火が起こる日でよろしいのですよね」
「ああ」
「そうなれば、貴方様は永遠の愛を俺だけに向けてくださる」
「ああ。その通りじゃ、耕太郎」
耕太郎はあちきを求めた。息を重ね、指を這わせ、抱きしめて沼に落ちる感覚に身を置きながら、あちきは熱い声を漏らす。
——満たされない。耕太郎だけでは乾きが無くならない。でもこの渇きはきっと、もうすぐ潤う。かつての吉原遊廓のように、永遠の夢を見られれば或いはきっと。
のう、吾作。そうでありんしょう?
「馬鹿だね」
あちきは死んだ金魚の尾を、親指と人差し指で摘む。そっと顔の前まで持ち上げると、死んだ金魚と目が合った。
自分と同じその瞳に、吐き気を覚える。
「自由を夢みたか? ひとりで生きていけると思うたか。水を失ったその後の想像もできぬほどの馬鹿者に、見てよい夢などあるわけねえわ」
屑箱に放った金魚がぺちっ、と音を立てることすら不快だった。死んだものに興味はない。去っていったものになど、価値はない。
気づくと、あちきはどこか深い穴に落ちたようで天を見上げていた。望遠鏡を覗くみたいに、丸く切り抜かれた視界の遠くで、鈴が揺れる。
細い煙を立ち上がらせる白妙の刻飛鈴。その煙を纏った呂色の神楽鈴が、火柱をあげて燃えていた。火は、曲線の壁をうねるように迫り来て、あちきの身体に燃え移る。
朱色に染まる着物。
水分を消失し、白濁する目玉。
嗚呼そうか。あちきは金魚じゃ。
自由を求めて、死んだ金魚じゃ。
野暮な男の腰に揺れた鈴の力で、
綿々たる奈落の底に落とされた。
吾作が妻をとると聞いた時、最初は別によいと思った。あちきは既に上級遊女としての地位を得ていたし、月日を経て価値観が枯れ出した吾作なんかよりも若く張りのある客の方が何倍も魅力的だったから。
だが、吾作が選んだのが遊女であったことがどうにも癪に触った。それも明里? 上級遊女どころか、明里は年季まで細い客を地味に取り続けただけの薄幸な女で、そんじょそこらに掃いて捨てるほどいる凡庸な遊女だった。
楼主の部屋を訪れたあちきは、湯呑み片手に息をつく吾作を見下ろして言った。
「明里はやめなんし。仮にも刻飛楼の楼主、あちきの番の立場である其方が、あんな女を妻にするんじゃ決まりが悪い」
「明里は真面目な女だ。欲がない。満たされる容量の小さな女は、安心できる」
「……は?」
聞き違いだろうか。今一瞬、吾作はあちきを見下したような。
「お百よ、お前がこの廓の頂点に君臨し続けてから100年以上の時が経った。お前の妖術にかかった俺は命を剥ぎ取られ、老いることも死ぬことも許されない。未来永劫、鈴の力を引き出すために必要なこの痣をお前に利用されるだけのちっぽけな存在だ」
あちきは鼻で笑う。
「刻飛村を出たあの日から、あちきの身体を散々堪能しておいて、何を今更。そもそも其方には“意識”を返してやってやす。これは特別なことでありんす。そのおかげでそうして今、あちき以外の女を好く事だって出来たんじゃないか。被害者面はやめておくんなんし」
「それは、意識まで取り込んでしまっては痣の力が無力化してしまうからだろう。俺やお前が老いないことを誰かが気づく度に、鈴の力で少しずつ未来へと刻を飛び、江戸から明治と時代さえも飛び越えてきた。だがそれも、もうすぐ終わる」
吾作の言葉に耳を傾けつつ、あちきは顔を顰めた。
「未来で歴史を知っただろう。江戸が終わり、今は始まったばかりの明治時代も、今後は革新的な道筋を辿る。他国との交易や教育、国が力を入れて進化を求める事案の類に、この遊郭は含まれていないんだ。今までのように遊女がそれなりの地位を確立できた時代は終わりを告げる。世間はこれから、女に純潔性を求め始めるんだ」
「なにが言いたい」
「吉原が昔のように栄華を極めることは、もうない。大正を経て昭和には売春防止法が成立し、平成、それこそ令和の時代には、遊郭なんてものは跡形もない。金で色を買う行為は犯罪になるんだ。お百、お前ももうこの吉原にこだわることはせず、時代に馴染んで生きていく道を選択しないか? 鈴は、刻飛村の祠に戻そう」
……最後、なんて?
「お前との関係を終わらせたい、命を返してくれ。刻飛村が今どうなっているかわからないが、もしお前が好きな時代に飛びたいというのなら、最後に俺が一度だけ——」
目の前で頓痴気なことを宣う男の顔を、あちきはぼうっと眺めた。
なぜこの男を選んだのだろう。痣を胸に刻んだ男は刻飛村に幾人か居たというのに、あちきはなぜこんな盆暗を番にしたのか。
「のう、吾作。其方の思うあちきの好きな時代とは、どこじゃ」
「それは」
「あちきがこの吉原遊廓に並々ならぬ思いを抱いていること、ずーっとそばに居って露ほども理解出来なかったか?」
瞳孔が開く。あちきは吾作へとにじり寄りながら額に血管を這わせ、目を吊り上げ、頬骨まで口を裂いて牙を剥いた。
その姿に、吾作は湯呑みを放り出して壁際に逃げる。
「あちきは美しいものが好きなのじゃ。美しい着物を羽織り、美しい髷を結い、美しい唇に美しい紅を引く。そのあちきを、数多の男が狂ったように求め溺れていく、その様がたまらなく好きなのじゃ。そんな時代が、ここより他に存在するのか? あるなら申せ」
「お、落ち着けよ。その姿、俺を殺すつもりか? 俺の胸の痣がなければ、刻を飛ぶことは出来ないぞ」
「そうして痣を盾に、其方はあちきと対等な立場を確立していたつもりだろう。馬鹿が。痣のある人間など、それこそ村に戻ればいくらでも見繕える。勘違いも甚だしいお前のような男が、勝手にひとり幸せを掴もうなど許されるわけがありんせん」
あちきの白銀の髪は蛇のようにうねり舞い、空間を占拠した。逃げ場のない吾作は喉を鳴らして唾を飲み込み、細かく息を繰り返す。
「よ、吉原はもう終いだ。たとえ鈴を使って過去に戻ろうと、もう遊郭が栄えたどの時代にもお前は既に存在する。いくらお前のような妖怪でも、既存の自分自身に遭遇し互いを認知したその瞬間、お前の身体は過去のお前もろとも煙のように消滅するぞ」
「誰が過去に戻るなどと言いんした。未来に吉原が存在しないというならば、造ればよい。ただそれだけのこと」
「……なんだと?」
一歩。あちきは吾作に近づいた。
「終わりんせん。この吉原遊廓は永遠に続く花園。あちきは鈴の力を使って、令和という時代に遊郭の城を造りんす。未来の女の顔貌は今より様々、あちきに勝らずとも劣らぬ美人がごろごろ居る。将来有望な幼き女を未来から連れ去り、この廓で教育してから再び未来に送る。そうしてあちきは、未来の有力者が密談密会に利用できる新たな廓で色を売るのでありんす。どうじゃ、よい考えじゃろう?」
一歩、また一歩と、吾作とあちきの距離は互いの鼻頭が触れるか触れないかのところまでに迫る。
「吾作。明里を妻にすることは諦めよ。其方はこのまま、あちきの野望に付き合え」
「断る」
「まだ言うか!」
「化け物と一生を共にする地獄なんてもう御免なんだよ!」
化け物。吾作のその一言で、あちきの思考はぶつりと切れた。縦横目一杯に口を広げて、自慢の牙で吾作の愚鈍頭を貫いてやろうと肩を掴みそして一息に!!
————と、なる筈だったのだが。
あちきは何やら閃光を浴びて、眩しさに目を閉じたが最後。途端に足場が消失し、屑箱に放られた金魚のように深い深い穴へと真っ逆さま。
ひたすら落下の感覚が続き、とうとう地面に打ち付けられた身体がぺちっ、と音を立てれば、身体はもうどうにも動かすことが出来なかった。ただ遠くから、吾作の腰にぶら下がっていた刻飛鈴と神楽鈴の音が聞こえる。
しゃらり。
その鈴は、時を飛ぶ絡繰りの音。
しゃらり。
その鈴は、運命の恋を手繰る翼。
こうしてあちきは、吾作が発動させた鈴の力で虚無の世界に堕ちた。
人肌もない。渇望の眼差しも、声もない。いっそ死ねたら良いのだが、虚無ではそれすら許されなかった。
「……墨さん、百墨花魁。朝ですよ」
ゆっくり瞼を開けば、目の前には優しく微笑みを浮かべる裸体の男。三層に重ねた真っ赤な布団に横たわり、広げた着物にふたりして包まれて、男は自らの熱をこちらの肌へと移してくる。
あちきは何度かゆっくり瞬きをすると、男の首に視線を落としてそっと触れた。喉仏を横一線に割く形でぷくりと痛々しいその傷跡は、あの忌まわしい吾作の娘、夕霧がつけた遺恨の一文字だ。
「耕太郎、おはよう」
「おはようございます百墨さん。昨日の道中、眩暈がするほど美しかった」
「ありがとうござりんす。首の傷はどうじゃ。もう身体に異変はありんせんか?」
あちきが寝起きのまるい声でそう問えば、耕太郎は恍惚な表情を見せた。
「大したことはありません。それに、俺には貴方が居ます。貴方が居れば、俺は死なない。それは能力とか物理的な何かという意味ではなく、俺は貴方が居なければそもそも生きてはいけないんです。貴方が、居なければ」
「大丈夫じゃ耕太郎。あちきはずっと側におりんす。吾作はもう、この世のどこにも居んせん故」
不安に駆られている耕太郎の額にそっと、口付けを落とす。
あちきが虚無空間から解放されたとき、時代は明治22年。吾作に封印されてから20年の時が経過していた。吉原遊郭はかろうじてまだ存在していたが、全盛期の煌びやかさは失われ、遊女はもとより訪れる客の数も激減。吾作が言った通り、時代は今にも変わろうとしていた。
あちきはなんとかこの状況を脱したく刻飛村を目指した。だが村にはもう人はなく、あるのは朽ち果てた土地のみ。洞窟を抜けて祠まで辿り着くと、中心の台には白と黒、ふたつの鈴が堂々と座していた。
あちきは想像した。祠に刻飛鈴と神楽鈴を戻したのはおそらく吾作だろう。あちきを封印した後しばらくは平穏に過ごしたが、月日を経て妻の明里が死ぬと、吾作は再び鈴の力に頼ろうとした。そうして鈴を手にしたまでは良かったが、鈴にはあちきを封印する呪がかけられており、力を発揮した瞬間にあちきは虚無から放り出されたのだ。
吾作は、刻飛に乗じて未来で始末した。あちきの野望を邪魔するものはもう居ない。
だが、鈴を使って再び未来に飛ぶには痣がいる。吾作亡き今、胸に鈴蘭を持つ夕霧か、はたまたあの子の存在が必要不可欠だ。
「百墨さん、またぼうっとなさってる。今、誰のことを考えていたのですか」
「なんじゃ耕太郎、嫉妬なんかして」
「意地悪を言わないでください。俺は、貴方以外を愛したことはないのですよ」
「分かっているでありんす」
「貴方の理想郷を未来に造るまで、あと少し。十数年前より未来から連れてきた幼子を今日まで育て、再び未来にて立派な遊女として稼働できる目処がやっと立ちました。薄雲はまあ、残念でしたが。決行の日は明治44年4月9日、吉原大火が起こる日でよろしいのですよね」
「ああ」
「そうなれば、貴方様は永遠の愛を俺だけに向けてくださる」
「ああ。その通りじゃ、耕太郎」
耕太郎はあちきを求めた。息を重ね、指を這わせ、抱きしめて沼に落ちる感覚に身を置きながら、あちきは熱い声を漏らす。
——満たされない。耕太郎だけでは乾きが無くならない。でもこの渇きはきっと、もうすぐ潤う。かつての吉原遊廓のように、永遠の夢を見られれば或いはきっと。
のう、吾作。そうでありんしょう?