「浜路。これはなんじゃ」
「あ、あの」
わっちは部屋付きの禿、浜路に一枚の紙を差し出して詰め寄る。
「これは先日の花魁道中の絵じゃろう。真ん中を歩く紫の着物は、まさに百墨」
「わ、わっちはその、たまたまこの絵を拾っただけで」
「ほう。お前は要らぬ拾った絵を後生大事に懐に入れて持ち歩くのか? うっとり眺めておったの見逃してねえぞ! 浜路! お前を世話する花魁は誰じゃ!」
わっちが声を張り上げれば、浜路は小さい身体を折りたたんで床に額をつけた。
「申し訳ありんせん! 申し訳ありんせん! わっちにとっての花魁は鈴ノ屋の吉野花魁ただひとり。絵はすぐに燃やして二度と目に触れぬようにします故、どうか許しておくれやす!」
高く涙の混じった浜路の声に、わっちは思わず耳を塞ぐ。
「五月蝿いのう。浜路、お前は本日も米抜きじゃ。味噌汁啜ったら便所の掃除でもして参れ」
「そんな! 吉野花魁!」
「きぃきぃ泣くんじゃないよ、鬱陶しい! これだから食うだけの餓鬼は嫌いじゃ。やっとの思いで花魁になっても、こうも気苦労が多いと萎えちまう。わっちはいつも、はずれくじばかりじゃ」
睨みをきかせりゃ浜路は立ち上がり、唇を噛んで部屋を飛び出していった。そんな浜路と入れ替わるように振袖新造の若梅が部屋へとやってくる。去っていく浜路を眉を下げて見送った後、若梅はわっちに顔を向けて口を開いた。
「花魁。近頃、浜路に対してのあたりが強うないですか。あの子はまだ9つ。もう少し優しゅうお声掛けくだされませ」
「はっ、あん子が若梅のように健気にしておれば、わっちにもやりようがある。浜路はあいつに似て我が強く、どうにも扱いづらいんだわ」
「仕方がありんせん。浜路は薄雲さんによう懐いておりんした」
「それが気に食わんのじゃ!」
そう声を上げれば、若梅は出過ぎたとばかりに視線を落として頭を下げる。
「薄雲、薄雲薄雲! わっちが花魁になってもう四月ぞ! なれど廓の話題には未だに薄雲が名を馳せる! なにが遣手じゃ馬鹿馬鹿しい、婆でもない小娘になぜ従う? なぜ敬う! 鈴ノ屋の花魁はこの吉野じゃ!」
鼻息荒くわっちが言えば、若梅は失礼しんした、と部屋を去ってしまった。
刻飛楼の百墨花魁が道中を終えてから3日、遊郭城は今までで一番の活気を見せていた。
絵師はこぞって刻飛楼の百墨を描き、廓にばら撒けばその美しさと儚さに誰もが虜に。加えて、鈴ノ屋の遊女の芸事の上達にも多くの客が目を見張った。
「急げ吉野。今夜はあと二間、対応してもらわなきゃならねえ」
「承知でありんす」
すり足で廊下を急ぐ。客間には、わっち吉野を待つ馴染み客が既にほろ酔いだ。芸妓が舞い、豪華絢爛な配膳が並ぶ部屋に一歩踏み入れれば、客はわっちの顔を見るや表情を明るくさせた。
「吉野、待っていたぞ。こっちに来い」
「嬉しゅうござりんす」
馴染みの客の隣に座り、わっちはしなだれ掛かるように主さんの左腕に手を絡める。
「刻飛楼の花魁が道中してから、ここのところ城は大盛況だな。どうだ吉野、お前の客も幾人か増えたか?」
「いやだあ、保さん。わっちは量より質でありんす。保さんのような素敵なお人が、5人も6人も居るわけありんせん」
首を傾げてにこりと笑えば、保さんはわっちの頬に触れながら上機嫌に酒を煽った。
「嬉しいねえ。その無垢な笑顔が俺は好きでね。いつまでも変わらずいてくれよ、吉野。薄雲のように顔が潰れちゃあ、台無しだ」
「あい、勿論」
お猪口に酒を継ぎ足しながら、わっちは座敷の奥に視線を配る。そこには三味線片手に華麗な旋律を奏でる、狐面の女郎がひとり。
「芸ができようが身体が魅力的だろうが、顔がおっかねえんじゃ勘弁だ。そういう男は多いぞ? 女だってそうだろう」
「女も?」
「そうそう。最近、鈴ノ屋の遊女を盛り立てている若い者。ああ、名前なんつったか」
「時人、でありんす」
「そうそう! その時人ってのが男前だって噂になっていてなあ。俺もいっぺん見てみたが、あれは目鼻立ちがはっきりし過ぎていてどうにも圧が凄くて。吉野、女は皆あんな顔が好きなのか?」
保さんは答えの分かりきった質問をわっちにするのが大好きだ。だから、わっちも分かりきった答えを口に出すのが常である。
「まさか。わっちは断然、保さんの顔が好みでありんす。保さんは? わっちの顔が好き?」
「そりゃ当然」
「百墨花魁よりも?」
「勿論だよ」
わっちは保さんの太腿に沿わせた手を擦り、腹から胸、首筋、そして頬まで到達させると、じんわりと熱を持った瞳で保さんを見上げた。
しばし見つめれば、保さんは察したように声を張り上げる。
「今宵は刻飛楼には負けんぞ、この吉野に華を持たせよ! じゃんじゃん酒を出せ!」
ダンっっ!
保さんの一声で三味線と琴の旋律がさらに活気付こうとした、次の瞬間。敷居から外れるほどの勢いで開かれた襖から、踏み込むような大きな足音を立ててひとりの男が入ってきた。
静まり返る客間。男は上座に座る保さんとわっちを横切るように素通りすると、ズンズン歩みを進めてとうとう足を止めた。
見下ろすは、狐面の女郎。
「……薄雲。なぜ俺を袖にする。俺が呼んでもこないくせに、お前はどうしてこんな場所で三味線なんか鳴らしてんだよ、え?」
狐面は顔を上げず、じぃと前だけを見据えている。
どうやら男は薄雲の客らしい。見向きされない鬱憤を晴らしに来たのだと悟ったわっちは、止めに入ろうとする若い者を片手を上げて制した。
「薄雲さん。わっちのことはどうかお気になさらず。主さんのお相手をしておくんなんし。ねえ、主さん」
言えば、男はこれ幸いと座る薄雲の手首を掴んだ。
「ほら。吉野花魁もそう言ってんだ。お前みたいな落ちぶれ女郎、俺くらいしか指名もないくせに何を渋ってやがる。立ちな!」
強引に連れて行こうとする男。だが薄雲は抵抗を見せ、男の手を力一杯振り払う。
「……嫌でありんす」
「は?」
「あんたのような野暮な男はお断り申しんす。よそ様の部屋にずけずけと。恥を知りなんし」
「な、なんだと!」
男が手を振り上げた時すでに遅し。頬を弾く音を受け入れようとわっちは目を瞑ったが、意外にも痛々しい音は耳まで届かない。
何故、と目を開けてみれば、そこには男の腕を捻りあげる若い者の背中。
それは噂の男——時人だった。
「お客さんさ、それ自分でやってて惨めになんねえの? くそダサいし、あんたもう出禁だから。ほら、こっち来な猿」
傍若無人な態度。艶のある黒髪に、彫りの深く馴染みのない顔。
男は皆、額を出して未だ髷を結うのが主流であるのに、時人は髷どころかその額に髪を垂らしている。
白い肌。見上げるほどに大きい身体。男らしい胸の厚み。
その全てが異色であり、目を奪われる。
「無礼な! 俺は政府の人間だぞ! こんなことをしてタダで済むと思って」
「あー、だるいだるい。もう許可もらってるから。言っとくけどあんた解雇だよ。国の金を着服してこの吉原に通ってんのバレちゃったって」
「なっ……」
「ね? もうあんた終わった人間だから。最後に一つだけいいか」
その時、わっちは緩慢な遊戯を見た。
時人が繰り出した拳は客の顎を下から突き上げ、客は一瞬で天を向いて弓なりに身体をしならせる。客は畳に尻を擦りながら配膳を薙ぎ倒し、戦意を喪失した様子でただ茫然と時人を見上げた。
遊女からも悲鳴が上がるこの状況に、わっちの隣に座る保さんが口を開く。
「時人といったかな。流石にそれは少しやり過ぎなんじゃないか?」
「そうでありんす。お客様にそんなこと許されんせん。それに、薄雲さんは元花魁。武左な客をいなす手管のひとつやふたつ、心得ているはずでありんす」
わっちが保さんに次いで言葉を続ければ、時人はギロリと顔だけをこちらに向けた。
「この狐面が誰だって?」
「だから、薄雲さんでありんしょう」
「なんでそう思う」
「そりゃ、さっきの三味線の旋律が見事でありんしたし、面を被っていらっしゃるのは顔の傷を気にしているからで」
「違うな。彼女は薄雲じゃない」
そうして、三味線を置いた遊女が狐の面を外せば、それは思わぬ人物で——
「よかったな若梅。薄雲に間違えられるってことは、それくらい腕が上達した証拠だ」
「はい。ほんに、嬉しゅうござりんす」
「若梅は頑固だからな。こんなことで証明しなくても、薄雲はお前を突き出し道中に出してやるって言ってたのに」
「申し訳ありんせん。それでも鈴ノ屋の花魁として立場を貰えるからには、努力を怠りたくなかったのでありんす」
ふたりが会話をしている間、騒ぎを聞きつけた鈴ノ屋の使用人が幾人か部屋にやってきた。時人が殴った男は部屋から摘み出され、崩れた配膳を片付ける音が空虚を歩く。
だが、わっちはそれどころではなかった。衝撃で止まっていた思考を無理に動かす。
なぜわっちの部屋子の若梅を、薄雲が突き出しするのだ。いくら若梅が振袖新造として期待されているとはいえ、お披露目するには着物や寝具を揃える理屈で金がかかるし、ましてや道中? 花魁? 馬鹿な。
「吉野花魁」
時人にそう名を呼ばれて、わっちは我に返った。
「なんじゃ」
「分かっただろ。若梅の突き出し道中は明日だ。それが済んだら、鈴ノ屋を背負って立つ花魁はあんたから若梅に変わる」
「何を勝手な! そんなこと、何故新参のお前に言われなきゃならない! 大体薄雲に道中を彩る金などあるものか! あの女はもう客も取れないではありんせんか!」
「その客が取れなくなった原因を作ったのはどこのどいつだ!」
時人の大声で、わっちの身体は強張る。
「な、なにを言う。薄雲が火傷を負ったあの火事は、薄雲が寝る前に吸っていた煙管が原因じゃ!」
「へえ、そうかよ。じゃあこれはなんなんだ」
どん、と乱暴に床に置かれたのは、瓶に入った透明な液体。
「この瓶は吉野、お前の部屋から見つかったんだ。薄雲が言っていたよ。火事の日、燃え盛る室内では妙なにおいがしたってな。そのにおいはこの瓶に入っているガソリンと同じだったそうだ」
すっと、保さんはわっちから距離をとった。横目に唖然としている顔を捉えたが、引き止める間はない。保さんは立ち上がると、何やらボソボソ呟いて部屋を出ていった。
わっちの中の何かが、崩壊を始める。
「……ガソリン? なんじゃそれは。わっちはそんなもの知らん。お前こそ、何故その液体の名がわかる」
「あ、俺? 俺は昔この液体を売っていたことがあるから」
「戯け! お前にそれが売れる訳ないわ! それは自動車を動かすために必要な燃料じゃ! そんな高級品に廓の人間が手を……出せる、わけ……」
がらがらと音を立てて、積み上げてきた偽りの誇りが、散っていく。
「さようならだ、吉野。荷物まとめてすぐにこの城から、鈴ノ屋から出て行くんだ」
鏡台に座り、髪をとく。もう二度と結うことの無い、髪をとく。
ああ、そういえば。今日は月に一度の湯浴みの日だった。今頃みんな客の悪口でも言い合いながら、わいわい背中を擦っている。
着物を脱ぎ捨てて、肌襦袢だけの姿で鏡に映る自分の姿を嘲笑しては、涙が溢れた。
やっとの思いで掴み取った花魁の名が、逃げてしまった。おかしいなあ。これくらいの汚い手、皆使ってきたはずなのに。禿の頃から、皆そうして足を引っ張りあってきたじゃないか。それなのにどうして、わっちだけがこんな煮湯を飲まされなければならないのだ。
「……そうだ。若梅がいなくなれば、また」
不穏な考えが浮かんだ。だがその企みもすぐに消え失せる。なんせ、あのガソリンとやらはもう、ここにはない。
「吉野花魁」
高く若い声がわっちを呼んだ。振り返れば、部屋の入り口に真っ赤な着物を着た浜路が立っている。
「吉野花魁。これ」
「浜路お前、それ……!」
「必要になると思って、持ってきんした」
浜路の手には、空っぽの小瓶。
「これで、火をつけるでありんす」
「おお! そうか! 浜路、お前だけはわっちの味方であったか! でも、中身はどうした」
「ばーか」
シュッ、と擦られた燐寸棒の火が、浜路の手から落ちる。一瞬だった。浜路へと伸ばした手先に感じた熱は、あっという間に部屋を包む。
「あぁ……! あああ! なにを!」
「薄雲花魁の仇じゃ!」
「ま、待て! 待つのじゃ浜路!!」
走り去る浜路の背に叫んだ後、思い切り息を吸い込んで黒煙にむせる。嗅いだことのある、ツンと鼻につく独特なにおいを、脳が覚えている。
「嫌じゃ……嫌じゃ嫌じゃ! 死にとうない! 死にたくありんせん! 誰かっっ」
胸が詰まって意識が遠のく。こんな時に思い出すのは、何故か保さんの最後の言葉だった。
“生まれ変わったら会おう、吉野”
「ははっ……ごめんじゃ。女郎になど誰がなるものか。惚れた男の為に、せめてもの華を、地位をと、血の滲む思いをした。もう、ごめんじゃ。わっちだって……私だって、元は只の女だった。どこにでもいる、女の子だった」
瞼が閉じる。その裏に映った保さんの笑顔に、私も目一杯微笑みを返して。いつか。いつか生まれ変わったら。今度は外を歩いてみたい。色香にむせるこんな場所でなく、門の向こうにどこまでも続く一本道を、あなたと共に。
「さようなら、保さん」
「あ、あの」
わっちは部屋付きの禿、浜路に一枚の紙を差し出して詰め寄る。
「これは先日の花魁道中の絵じゃろう。真ん中を歩く紫の着物は、まさに百墨」
「わ、わっちはその、たまたまこの絵を拾っただけで」
「ほう。お前は要らぬ拾った絵を後生大事に懐に入れて持ち歩くのか? うっとり眺めておったの見逃してねえぞ! 浜路! お前を世話する花魁は誰じゃ!」
わっちが声を張り上げれば、浜路は小さい身体を折りたたんで床に額をつけた。
「申し訳ありんせん! 申し訳ありんせん! わっちにとっての花魁は鈴ノ屋の吉野花魁ただひとり。絵はすぐに燃やして二度と目に触れぬようにします故、どうか許しておくれやす!」
高く涙の混じった浜路の声に、わっちは思わず耳を塞ぐ。
「五月蝿いのう。浜路、お前は本日も米抜きじゃ。味噌汁啜ったら便所の掃除でもして参れ」
「そんな! 吉野花魁!」
「きぃきぃ泣くんじゃないよ、鬱陶しい! これだから食うだけの餓鬼は嫌いじゃ。やっとの思いで花魁になっても、こうも気苦労が多いと萎えちまう。わっちはいつも、はずれくじばかりじゃ」
睨みをきかせりゃ浜路は立ち上がり、唇を噛んで部屋を飛び出していった。そんな浜路と入れ替わるように振袖新造の若梅が部屋へとやってくる。去っていく浜路を眉を下げて見送った後、若梅はわっちに顔を向けて口を開いた。
「花魁。近頃、浜路に対してのあたりが強うないですか。あの子はまだ9つ。もう少し優しゅうお声掛けくだされませ」
「はっ、あん子が若梅のように健気にしておれば、わっちにもやりようがある。浜路はあいつに似て我が強く、どうにも扱いづらいんだわ」
「仕方がありんせん。浜路は薄雲さんによう懐いておりんした」
「それが気に食わんのじゃ!」
そう声を上げれば、若梅は出過ぎたとばかりに視線を落として頭を下げる。
「薄雲、薄雲薄雲! わっちが花魁になってもう四月ぞ! なれど廓の話題には未だに薄雲が名を馳せる! なにが遣手じゃ馬鹿馬鹿しい、婆でもない小娘になぜ従う? なぜ敬う! 鈴ノ屋の花魁はこの吉野じゃ!」
鼻息荒くわっちが言えば、若梅は失礼しんした、と部屋を去ってしまった。
刻飛楼の百墨花魁が道中を終えてから3日、遊郭城は今までで一番の活気を見せていた。
絵師はこぞって刻飛楼の百墨を描き、廓にばら撒けばその美しさと儚さに誰もが虜に。加えて、鈴ノ屋の遊女の芸事の上達にも多くの客が目を見張った。
「急げ吉野。今夜はあと二間、対応してもらわなきゃならねえ」
「承知でありんす」
すり足で廊下を急ぐ。客間には、わっち吉野を待つ馴染み客が既にほろ酔いだ。芸妓が舞い、豪華絢爛な配膳が並ぶ部屋に一歩踏み入れれば、客はわっちの顔を見るや表情を明るくさせた。
「吉野、待っていたぞ。こっちに来い」
「嬉しゅうござりんす」
馴染みの客の隣に座り、わっちはしなだれ掛かるように主さんの左腕に手を絡める。
「刻飛楼の花魁が道中してから、ここのところ城は大盛況だな。どうだ吉野、お前の客も幾人か増えたか?」
「いやだあ、保さん。わっちは量より質でありんす。保さんのような素敵なお人が、5人も6人も居るわけありんせん」
首を傾げてにこりと笑えば、保さんはわっちの頬に触れながら上機嫌に酒を煽った。
「嬉しいねえ。その無垢な笑顔が俺は好きでね。いつまでも変わらずいてくれよ、吉野。薄雲のように顔が潰れちゃあ、台無しだ」
「あい、勿論」
お猪口に酒を継ぎ足しながら、わっちは座敷の奥に視線を配る。そこには三味線片手に華麗な旋律を奏でる、狐面の女郎がひとり。
「芸ができようが身体が魅力的だろうが、顔がおっかねえんじゃ勘弁だ。そういう男は多いぞ? 女だってそうだろう」
「女も?」
「そうそう。最近、鈴ノ屋の遊女を盛り立てている若い者。ああ、名前なんつったか」
「時人、でありんす」
「そうそう! その時人ってのが男前だって噂になっていてなあ。俺もいっぺん見てみたが、あれは目鼻立ちがはっきりし過ぎていてどうにも圧が凄くて。吉野、女は皆あんな顔が好きなのか?」
保さんは答えの分かりきった質問をわっちにするのが大好きだ。だから、わっちも分かりきった答えを口に出すのが常である。
「まさか。わっちは断然、保さんの顔が好みでありんす。保さんは? わっちの顔が好き?」
「そりゃ当然」
「百墨花魁よりも?」
「勿論だよ」
わっちは保さんの太腿に沿わせた手を擦り、腹から胸、首筋、そして頬まで到達させると、じんわりと熱を持った瞳で保さんを見上げた。
しばし見つめれば、保さんは察したように声を張り上げる。
「今宵は刻飛楼には負けんぞ、この吉野に華を持たせよ! じゃんじゃん酒を出せ!」
ダンっっ!
保さんの一声で三味線と琴の旋律がさらに活気付こうとした、次の瞬間。敷居から外れるほどの勢いで開かれた襖から、踏み込むような大きな足音を立ててひとりの男が入ってきた。
静まり返る客間。男は上座に座る保さんとわっちを横切るように素通りすると、ズンズン歩みを進めてとうとう足を止めた。
見下ろすは、狐面の女郎。
「……薄雲。なぜ俺を袖にする。俺が呼んでもこないくせに、お前はどうしてこんな場所で三味線なんか鳴らしてんだよ、え?」
狐面は顔を上げず、じぃと前だけを見据えている。
どうやら男は薄雲の客らしい。見向きされない鬱憤を晴らしに来たのだと悟ったわっちは、止めに入ろうとする若い者を片手を上げて制した。
「薄雲さん。わっちのことはどうかお気になさらず。主さんのお相手をしておくんなんし。ねえ、主さん」
言えば、男はこれ幸いと座る薄雲の手首を掴んだ。
「ほら。吉野花魁もそう言ってんだ。お前みたいな落ちぶれ女郎、俺くらいしか指名もないくせに何を渋ってやがる。立ちな!」
強引に連れて行こうとする男。だが薄雲は抵抗を見せ、男の手を力一杯振り払う。
「……嫌でありんす」
「は?」
「あんたのような野暮な男はお断り申しんす。よそ様の部屋にずけずけと。恥を知りなんし」
「な、なんだと!」
男が手を振り上げた時すでに遅し。頬を弾く音を受け入れようとわっちは目を瞑ったが、意外にも痛々しい音は耳まで届かない。
何故、と目を開けてみれば、そこには男の腕を捻りあげる若い者の背中。
それは噂の男——時人だった。
「お客さんさ、それ自分でやってて惨めになんねえの? くそダサいし、あんたもう出禁だから。ほら、こっち来な猿」
傍若無人な態度。艶のある黒髪に、彫りの深く馴染みのない顔。
男は皆、額を出して未だ髷を結うのが主流であるのに、時人は髷どころかその額に髪を垂らしている。
白い肌。見上げるほどに大きい身体。男らしい胸の厚み。
その全てが異色であり、目を奪われる。
「無礼な! 俺は政府の人間だぞ! こんなことをしてタダで済むと思って」
「あー、だるいだるい。もう許可もらってるから。言っとくけどあんた解雇だよ。国の金を着服してこの吉原に通ってんのバレちゃったって」
「なっ……」
「ね? もうあんた終わった人間だから。最後に一つだけいいか」
その時、わっちは緩慢な遊戯を見た。
時人が繰り出した拳は客の顎を下から突き上げ、客は一瞬で天を向いて弓なりに身体をしならせる。客は畳に尻を擦りながら配膳を薙ぎ倒し、戦意を喪失した様子でただ茫然と時人を見上げた。
遊女からも悲鳴が上がるこの状況に、わっちの隣に座る保さんが口を開く。
「時人といったかな。流石にそれは少しやり過ぎなんじゃないか?」
「そうでありんす。お客様にそんなこと許されんせん。それに、薄雲さんは元花魁。武左な客をいなす手管のひとつやふたつ、心得ているはずでありんす」
わっちが保さんに次いで言葉を続ければ、時人はギロリと顔だけをこちらに向けた。
「この狐面が誰だって?」
「だから、薄雲さんでありんしょう」
「なんでそう思う」
「そりゃ、さっきの三味線の旋律が見事でありんしたし、面を被っていらっしゃるのは顔の傷を気にしているからで」
「違うな。彼女は薄雲じゃない」
そうして、三味線を置いた遊女が狐の面を外せば、それは思わぬ人物で——
「よかったな若梅。薄雲に間違えられるってことは、それくらい腕が上達した証拠だ」
「はい。ほんに、嬉しゅうござりんす」
「若梅は頑固だからな。こんなことで証明しなくても、薄雲はお前を突き出し道中に出してやるって言ってたのに」
「申し訳ありんせん。それでも鈴ノ屋の花魁として立場を貰えるからには、努力を怠りたくなかったのでありんす」
ふたりが会話をしている間、騒ぎを聞きつけた鈴ノ屋の使用人が幾人か部屋にやってきた。時人が殴った男は部屋から摘み出され、崩れた配膳を片付ける音が空虚を歩く。
だが、わっちはそれどころではなかった。衝撃で止まっていた思考を無理に動かす。
なぜわっちの部屋子の若梅を、薄雲が突き出しするのだ。いくら若梅が振袖新造として期待されているとはいえ、お披露目するには着物や寝具を揃える理屈で金がかかるし、ましてや道中? 花魁? 馬鹿な。
「吉野花魁」
時人にそう名を呼ばれて、わっちは我に返った。
「なんじゃ」
「分かっただろ。若梅の突き出し道中は明日だ。それが済んだら、鈴ノ屋を背負って立つ花魁はあんたから若梅に変わる」
「何を勝手な! そんなこと、何故新参のお前に言われなきゃならない! 大体薄雲に道中を彩る金などあるものか! あの女はもう客も取れないではありんせんか!」
「その客が取れなくなった原因を作ったのはどこのどいつだ!」
時人の大声で、わっちの身体は強張る。
「な、なにを言う。薄雲が火傷を負ったあの火事は、薄雲が寝る前に吸っていた煙管が原因じゃ!」
「へえ、そうかよ。じゃあこれはなんなんだ」
どん、と乱暴に床に置かれたのは、瓶に入った透明な液体。
「この瓶は吉野、お前の部屋から見つかったんだ。薄雲が言っていたよ。火事の日、燃え盛る室内では妙なにおいがしたってな。そのにおいはこの瓶に入っているガソリンと同じだったそうだ」
すっと、保さんはわっちから距離をとった。横目に唖然としている顔を捉えたが、引き止める間はない。保さんは立ち上がると、何やらボソボソ呟いて部屋を出ていった。
わっちの中の何かが、崩壊を始める。
「……ガソリン? なんじゃそれは。わっちはそんなもの知らん。お前こそ、何故その液体の名がわかる」
「あ、俺? 俺は昔この液体を売っていたことがあるから」
「戯け! お前にそれが売れる訳ないわ! それは自動車を動かすために必要な燃料じゃ! そんな高級品に廓の人間が手を……出せる、わけ……」
がらがらと音を立てて、積み上げてきた偽りの誇りが、散っていく。
「さようならだ、吉野。荷物まとめてすぐにこの城から、鈴ノ屋から出て行くんだ」
鏡台に座り、髪をとく。もう二度と結うことの無い、髪をとく。
ああ、そういえば。今日は月に一度の湯浴みの日だった。今頃みんな客の悪口でも言い合いながら、わいわい背中を擦っている。
着物を脱ぎ捨てて、肌襦袢だけの姿で鏡に映る自分の姿を嘲笑しては、涙が溢れた。
やっとの思いで掴み取った花魁の名が、逃げてしまった。おかしいなあ。これくらいの汚い手、皆使ってきたはずなのに。禿の頃から、皆そうして足を引っ張りあってきたじゃないか。それなのにどうして、わっちだけがこんな煮湯を飲まされなければならないのだ。
「……そうだ。若梅がいなくなれば、また」
不穏な考えが浮かんだ。だがその企みもすぐに消え失せる。なんせ、あのガソリンとやらはもう、ここにはない。
「吉野花魁」
高く若い声がわっちを呼んだ。振り返れば、部屋の入り口に真っ赤な着物を着た浜路が立っている。
「吉野花魁。これ」
「浜路お前、それ……!」
「必要になると思って、持ってきんした」
浜路の手には、空っぽの小瓶。
「これで、火をつけるでありんす」
「おお! そうか! 浜路、お前だけはわっちの味方であったか! でも、中身はどうした」
「ばーか」
シュッ、と擦られた燐寸棒の火が、浜路の手から落ちる。一瞬だった。浜路へと伸ばした手先に感じた熱は、あっという間に部屋を包む。
「あぁ……! あああ! なにを!」
「薄雲花魁の仇じゃ!」
「ま、待て! 待つのじゃ浜路!!」
走り去る浜路の背に叫んだ後、思い切り息を吸い込んで黒煙にむせる。嗅いだことのある、ツンと鼻につく独特なにおいを、脳が覚えている。
「嫌じゃ……嫌じゃ嫌じゃ! 死にとうない! 死にたくありんせん! 誰かっっ」
胸が詰まって意識が遠のく。こんな時に思い出すのは、何故か保さんの最後の言葉だった。
“生まれ変わったら会おう、吉野”
「ははっ……ごめんじゃ。女郎になど誰がなるものか。惚れた男の為に、せめてもの華を、地位をと、血の滲む思いをした。もう、ごめんじゃ。わっちだって……私だって、元は只の女だった。どこにでもいる、女の子だった」
瞼が閉じる。その裏に映った保さんの笑顔に、私も目一杯微笑みを返して。いつか。いつか生まれ変わったら。今度は外を歩いてみたい。色香にむせるこんな場所でなく、門の向こうにどこまでも続く一本道を、あなたと共に。
「さようなら、保さん」