僕は世間に溢れている大袈裟なことが嫌いだ。それは流行語一つからも見てとれる。「僕はネガティヴだから人と関わりたくない」または「ポジティブだから悩み事はない」と言った瞬間的な嘘。人間なんてどれも大して変わらないに決まってる。映画館に行けば度を越えた刺激的な作品たち、学校へ行けば刑務所のように従順な生徒たち。集団の中で宗教化したバカたち(あるいは群れから逸れることをプライドにした厄介な奴ら)が自分にとって、はたまた人類にとって愛すべき日常とは何かを考えるのを怠っているのだ。何気ない日々を続けることが反戦や愛すべき居場所を確保することに繋がるのだ。(love&peaceに刃向かうやつを排除する方向も嫌い)
 思うに、情緒というのは海岸の砂のようなものだ。砂の城が風化したり、時たまサンゴや貝殻が風に吹かれてやってくることは誰しもあることだ。そこでいう怠慢とはなんなのか。「本当の悪とは悪意や奸憎ではない、むしろ誤解や怠慢だ」とゲーテは言った。つまりは自分の行いが誰にとっても迷惑をかけないものだと思い込んだ瞬間、つまり想像を怠った時、それは絶対悪になるのだ。正義は誰かにとっての悪だ。
 しかし僕は、恋人への愛だけは信じている。誰かへの誇示ではなく、恋人に向けて言うのだ。それも世界を漂う情緒の一つに過ぎないかもしれないが、それが悪であったにしろ、甘んじて受けよう。愛を見過ごすようでは決して正義とは言えないだろう。
「僕は君を愛することに関しては、少しだけ大袈裟なのさ」