私がバーの仕事を終えて帰宅しても、出迎えてくれる人もいない。
 とはいえ、夜の帳がとっくに下りた時間帯だからゆっくりと扉を開いて静かに入ることは忘れてはいけないわけだ。
 あの夢を見てから。
 夢の中で桃さんが何かを言おうとしていたのかずっと考えてしまう。
 たかが夢の中でという人がいるかもしれない。でも、あの夜の湿った空気やはっきりと聞き取れる台詞は、作られた空想の世界であってもやけにリアルだったから。
 何かメッセージが隠されている気がしてならないんだ。
 降っていた雨は少しおさまったものの、明日も降るという予報だった。
 もう何も見えない窓のカーテンを閉めると、彼女への想いがこの部屋の中で膨らんでいきそうだった。
 眠る前に目をつむると、色々と思い出してくる......。
 
 桃さんを何かに例えるなら、澄んだような青い空だ。
 誰もがその下では笑っている、まるで忘れがたき故郷に家族が無邪気で集まるような。
 私も、空に向けて立派に花を咲かせる気持ちになっていた。あの子の前では健気に咲くことができる。
 この間みたいに、夢にも寄り添う人の面影はもう叶わない。一緒にコーヒーでも飲みたかったものだけど、いつかもう一度会ってみたいんだ。あるがままの姿で、幼き日のように弾む声でもう一度呼んでほしい。そして、何を言おうとしていたのか教えてね。
 貴女は今、どこにいますか?

 ・・・

 あの高校で飼われているうさぎの存在を知っているのは、桃さんに教えてもらったからだ。
 中学生のある日、彼女は図書室である質問をしてきた。
「ねえ、りっちゃん! 進路決めた?」
 もうそんな時期になっている。みんなは少しずつ進路を決めている中、私はまだ何も考えられていなかった。無言で首を横に振る私に、彼女はある高校の名前を挙げてくれる。
「ほんと、君はもったいないなぁ」
 頭良いのにさ、などとくすくすと笑っている。
「この高校って、うさぎ飼ってるんだ。
お姉ちゃんの代で部がなくなっちゃうから、私が行って世話をしてあげようと思うんだ」
 へえ、と優しい彼女に感心したんだ。
「だからさ、うさぎ撫でると気持ちが落ち着くんだよ。
良ければ一緒に行こうよ!」
 撫でたら落ち着くかどうかわからないけれど、少し興味を持った。
 
 文化祭の日、私は人ごみに疲れていた。自然と桃さんの腕にしがみついてしまった。
「もう、りっちゃんったら」
 彼女は微笑みながら笑ってくれた。
 ふたりは校舎の裏手に周り、うさぎ小屋に行く。こっそり小屋に入ってうさぎを撫でてみた。彼女の言っていることは本当だった。毛並みの柔らかさ、体温の温かさに気分が和らいでいく。
 私もこんなところで寂しく考えていられない。桃さんの元気は私たちの元気なのだから。彼女が笑うなら、いつでも新しい朝がくる。
 一緒に進学するなら私も変われそうだ。

 でも、その夢は花が散るように消えていった......。

 ある夜のこと、私たちは公園で話していた。
 急に転校することになるとは、だれが想像できるのでしょうか。うつむきながら桃さんが告げた。
「急にごめんね。
パパの仕事があって、遠い街に引っ越すことになったんだよ」
 わずかな夜風がふたりを包んでいた。
 彼女は今にも泣き出しそうな、そんな表情だった。
「そうなんだ......。
お父様だけ行くわけにはいかないのね」
 桃さんは小さく頷いた。身体が弱くなっている祖父母とこれから一緒に暮らすのだという。
「そんなの、仕方ないよね」
 私は沈黙を紡ぐようにそう言って、神妙な顔つきのまま彼女の方を見ていた。
 でも、実のところは、どんな表情をすれば分からなかったんだ。
「りっちゃん、本当にクールで素敵だなぁ。
こういうときくらい、泣いてくれていいんだよ」
「......ごめん、悲しいんだけど。
どういう顔すればいいのかなって」
 それを聞いた桃さんは急に笑い出した。えくぼのある頬に涙が流れていった。
「じゃあ、笑ってもいいよ」
 悲しみに染まった笑いの表情を、満月が照らしていた......。

 ・・・

 ぼんやりと窓の外を眺めている。
 昨日から相変わらず降っていた雨は、夕方になって少しずつ小降りになってきた。
 今日は非番だから学校に行く時間があったのに、なんとなく登校する気になれなかった。私の気持ちに水が差されたのはおそらくはじめてだった。
 ここに家庭というものがあったならば、私は親に注意されて登校しただろう。
 でも、そんなことを言う人はこの家には居ない。だからこそ、私は独り立ちすることが求められているのに。
 みんなは今何をしているのかな。いつものように授業を受けてランチや放課後のティータイムを楽しむのだろう。
 代わり映えのない日常だけど、そこに楽しさが待っているから。
 
 "......私は何のために勉強をしているのでしょうか。"
 
 その気付きが芽生えた時、私は走らせている手を止めてしまった。
 今開いている数学の教科書は皆やっている章なのだろうか。私が今勉強する必要はあるのだろうか。
 一筋の雨が窓に当たりよじれていく。まるで、私の中に不安な心が流れていくように。
 図形の問題はもともと苦手としている分野だ。さまざまな角度から問題を解かないといけないのに、今はその糸口さえも見つけられなかった。複雑な迷路に迷い込んだ不安は入ったきり出てくる気配はない。
 やがて見つけた出口に差し掛かると、それは涙となって瞳からあふれ出した。
 桃さんと公園で話したのも、ちょうど今頃の季節だった。
 彼女の優しい微笑みが、はっきりと私の脳裏によみがえった。
 
 "君は今、幸せ?"
 
 夢の中で言いたかったであろう言葉が、私の心にたくさんの雨を降らす。
 桃さんと一緒じゃない私はどこまでも置いてきぼりになってしまう。りっちゃんと呼ぶ声で私を呼び留めてほしかった。この世界に逝くなと呼びかけてほしかった。
 君と一緒じゃない世界は、どこまで走っても幸せじゃない。
 こんなこと言うと怒られるのかもしれないけれど、実のところは高校に受かりたくはなかった。だって、桃さんがいないのに、ひとりだけ歩みを進めても意味ない気がしていたから。
 合格発表の日、合格していながらも私はひとり頬に涙を流していた。
 涙が枯れ果てても、私はうさぎの格好で踊り続けるしかないのだろう。
 
 視界の縁に『不思議の国のアリス』のバレエ公演で買ったパンフレットがあるのが目についた。
 この作品が発表された当時、児童書というものは信仰心や道徳心を教育させる教科書的なものとして捉えられていた。特に女子教育はまだレベルが低かった。
 それが、アリスが発表されてどうなっただろうか。子供は自由に遊ばせるもの、わくわくする冒険で成長させるというメッセージ性が、これらの約束事から解き放った。しっかりと教育を受けたアリスの姿に、つよい羨望の眼差しで見ていた。
 私は、いつの間にかそんな世界に迷い込んでしまったのだろうか。現代(いま)の私も、ガールから解き放ってほしい......。
 今なら言えることがあるんだよ。
 ひとりぼっちのうさぎでも、大切な人と出会えたんだ。こんな私でも、恋したんだって。
 君に手紙を書いて伝えたいな......。
 
 月が秋の空にいざようごとく顔を覗かせている。
 私はためらうことなく、自分の中で大人に変わろうとしていた。ほとんど衝動的だった。
 ポーチから口紅を出した私は唇に色を付ける。はじめて自分のために、彼に魅力あふれるリツ花を見せたいために。
 桃さんと歩くんはどこか似ているんだ。だから今、彼に会いたい。
 シャープペンシルが、桃さんとお揃いのアイテムが、机から落ちるのも気づかずに部屋を飛びだして、私はサンダルを履いて無性に駆け出していった。
 
 ・・・
 
 暗く青い空の下で、私は必死に走っている。
 見上げる空に浮かぶ星は一筋の流れを作って落ちていった。
 その方角へ向かって、必死に走っていく。
 私が、リツ花が瞬く道しるべなのだから......。
 
 しまった! 目の前で踏切の遮断機が降りようとしていた。
 慌てた私は、足がよろけてサンダルが脱げてしまう。それは、魔法のときめきが切れてしまいそうなシンデレラのようだった。
 電車が通り過ぎる間に、急いで履き直した。
 肩が激しく上下に動いている。たくさんの息を吸っては吐いて、呼吸の乱れは落ち着いてくれない。その鼓動が彼への想いを募らせていく......。
 ガラスの靴は、私だけのものなんだから。
 だから。
 
 ......絶対に、逢える気がするんです。