青色とも黒色とも表現することのできない色が空を染め上げている。
 私はそれを見ようともせず、星空の傘の下で丸まって横になっている。
 静かな空間に、ひとつの声が届くのだった。
「......ちゃん。
......りっちゃん」
 その声はどこかきれいな歌声のようで。
 昔懐かしい、故郷のような優しさに溢れていて。
 私は、ゆっくりと目を開いて、"りっちゃん"と声をかける彼女に視線を合わせる。
「まるでうさぎみたいに可愛い姿だったよ」
 そう言ってやさしい微笑みを見せてくれた。
 何時ぶりだろう? 久しぶりに顔を合わせるはずなのに、私は貴女のことをしっかりと覚えている。えくぼのある姿はあの日のまま変わっていなかった。
 彼女がゆっくりと口を開いた......。

 ・・・

 私はここで目が覚めた。
 ベッドの上でゆっくりと身体を起こすと、少し開いている窓が視界に入った。
 ああ、そうか。これは窓から入ってきていた夜風の仕業なのだろう。
 風変わりでも、とても心地よい夢だった。
「......うさぎみたい、か」
 私はそう呟くと、両手を上にあげて頭に当ててみた。
 ちょうどうさぎの耳のような感じになった。ウォームホワイトのパジャマ姿の私は、まるで<しろうさぎ>に見えるだろうな。
 うさぎが集音するように、軽く目を閉じて周りの音に注目してみる。
 雨粒が降り注ぐ音。
 微かに聞こえる車の音。
 人気のない家の中では、それだけしか聞こえてこなかった。

 居間の灯りをつける。時計を確認すると、朝9時を回ったところだった。
 袋からバターロールをひとつ取りだして、マグカップにミルクを注いだ。平日のこんな時間に朝ごはんを食べる高校生は私だけだろうな。
 もう学校が始まっている時間なのは分かっているけれど。今日は何をしているのだろうか、全く気にならなかった。
 母親は出社の日かな? 昨日は家で仕事してたと思うけど。
 まあ、<彼女>の事情なんて知らないからどうでも良いのかもしれない。
 これが、いつもの私だから。

 午前中の空いている時間に勉強をするのは、もう私の中でお決まりになっていた。
 英語は教科書を軽く読むだけで解けてしまうのに、他の教科はなかなかこうもいかない。数学の問題を解くのは何回目だろうか。こう回すことで、私はテスト対策を、成績を維持している。
 おかげで視力はだいぶ下がってしまった。
 りっちゃん勉強しすぎだってと、彼女だったら笑うような反応を見せてくれるだろうな。
 でも、ガールをしているという秘密については笑い流してくれない気がする。
 もちろん、誰にも言えないことだけど。彼女がここに居たら、つい言ってしまいそうで怖いんだ。
 少し開けている窓から雨粒が吹き込んできた。季節外れの台風はルートが地域を掠めるから数日は雨の影響から逃れられない。先ほどから雨音が強くなっていた。
 もうそろそろ出なきゃいけないのに、と私はベランダに出て少し空を見上げてみた。私の服に少しずつ雨粒が染みてくる。
 たぶん、私の秘密はこんな感じでべったりと心の痕を残すのだろうな。
 こっそりうさぎの世話をしているのがちょうどいいんだ。
 窓を閉めて部屋に戻ってきた。
 濡れた衣類を脱ごうと、カットソーの裾に手をかける。その瞬間、私の身体に、自分の指先からの熱が伝わるのを感じたんだ。
 これが他人のものだったら、気持ち悪いだろうか。ふとこんなことを考えた。
 それは、いつか訪れるであろう愛の行為かもしれない......。

 ・・・

 相変わらず、雨は止んでくれなかった。
 モノクロームの空に、私が広げる青が映えている。この傘の色のように、澄んだ青空を期待したことはあっただろうか。
 雨が降っても、雪が降っても。私には関係のない事柄なのだから。
 仕事は待っていてくれないのだ。
 少し寄り道して、学校の裏門から入っていった。授業中の時間帯だけど、かすかに聞こえてくる授業の声はなく、凪の日みたいに静かだった。もしかしたら、台風のために早めに帰らされたのかもしれない。
 そっか、また私ひとりが残された。
 幸い、うさぎは濡れていなかった。明日掃除を頑張ることにして、今日は餌をあげるだけにしておこう。
 私は目の前にいる存在にそっと手を伸ばす。その子は安堵しているように横になってくれた。体温の温かさに、つかの間だけど気分が晴れてくる。
 "なぜ私はここに居て、うさぎを撫でているのでしょう"
 だれかに、その問いをしたことがあったっけ。でも、たまには自分に向けて放つ質問でもあるのだ。もふもふした姿が可愛らしいと思ったことはない。むしろ生死が伴うもの、それが生き物。
 "この子が死んだら、可愛そうだから"
 以前、私が口にした言葉がそのままの答えだと思う。それは、りっちゃんが交わした約束。

 ・・・

 "りっちゃん"は中学校のクラスメイトだった(もも)さんが私に付けてくれたニックネームだ。
 中学生にもなって気恥ずかしさがあったけど、その音の響き、呼んでくれることの嬉しさがなによりも心地よい。
 桃さんはクラスの中心人物ではないが、困った人を見かけては話しかけているし誰からも話しかけられている。よく細かいところに気付くことのできる生徒だ。それに、ただの雑談であってもしっかりと会話の花が咲いていた。そんな彼女を私はいつも見つめていた。
 小鳥が羽根を広げるような、少し広がっている髪型は利発そうなのに、小さなえくぼが対照的に幼げのある表情を与えて可愛らしいと思ったんだ。
 ある日、私は図書室で本を読んでいた。この静かな空間がなによりも落ち着くんだ。
 私は相変わらず人付き合いは下手なまま成長出来ていなかった。中学校というものは地域の小学校から生徒が集まるせいか、何かと息苦しい気がする。
 そんな私に桃さんが話しかけてくるなんて思いもしなかった。
「だめだよ、たまには教室に居ないと」
「人がいるのって苦手だから」
 私は軽く首を横に振りながら答えた。
「そうね、私も分かるわ。
男子うるさいもんね」
 そう言って、彼女はほほ笑んだ。
「アリス、私も好きだよ。
挿絵は怖いけどさ、こんな賑やかな世界行ってみたいな」
「わかってくれるの? なんだか嬉しいな」
 プリントの束を抱えているというところは、職員室にでも行く途中なのだろう。それなのに、見かけては話しかけてくれたわけだ。
「いけない! 先生のところ行かなきゃだから。
じゃあね、りっちゃん」
 その日から、図書室はふたりだけの世界になった。

 ・・・

 桃さんとの出会いを思い出しながら、みんなで歩いたイチョウ並木を私はひとりで歩く。強い雨脚の中で聞こえるのは自分の鼓動だけだった。
 車道を走るバスが私に水をかけた。膝下やローファーが濡れたとしても、気にしないでいようと思っている。
 うさぎが足を濡らすのは厳禁だけど、人間だから別に構わない。
 私のストーリーには、私しか登場人物はいないから。濡れたところで誰にも迷惑をかけないし、また助けてくれる人はいないだろう。
 これが、いつもの私だから......。

 "挿絵もせりふも無い本、なにがいいんだろう"

 ふと、アリスの一節が頭の中によぎる。だれも居ない世界は何が楽しいのだろうか。私にはその良し悪しがまったく理解できなかった。いつも読んでいる、青いカバーの文庫本が頭の中によみがえる。
 ショーウィンドウに映る私の姿をちらりと眺めてみる。仕事着にしているブラウスは傘を差していても、肩からぐっしょりと濡れていた。うさぎの代わりに濡れたと思うとなんだか笑いたくなってしまう。
 白という色は<白装束>の色でもある。巫女などが着る白い単衣のことで、花嫁が死を覚悟するときに着るとされている。
 ガールになっている時点で、私は心に単衣を羽織っているのかもしれない。