僕、朝倉 歩と高月 リツ花はカフェチェーンで向かい合って座っている。
 高月はセーラー服の上からカーディガンを羽織って。僕はブレザーの背広まで着込んでいる。
 だけども、お互いに顔は合わせないまま。
 自然とホットコーヒーの湯気に視点を合わせていた。
 高月から口を開いた。僕は、顔を上げて聞いている。

 ......話が終わった後、僕は窓の外を見てため息をついた。

 今日は木枯らしが吹いている。もちろん、これはデートなんかじゃない。
 ことの由来は一週間以上もさかのぼらないといけない。

 ・・・

 つい先ほどまで黄金色をしていたと思ったのに。
 少しずつ濃いオレンジ色に、次第に黒を差し色に添えるように。少しずつ空色は変わっていた。
 あたしはその様子を見上げていた。
 泳いでいる雲はどこに向かうのだろう。まるで彷徨っている羊たちがめぇめぇと鳴いているようだった。
 空を見ているのは飽きない。でも、陽が陰ってきた時間帯はどこまでも吸い込まれそうに深くて、終わりのない旅のように長くて。あたしの仕事に添えるスポットライトは情緒にさざ波をもたらす。頭の飾りは行き場のない風でふわりと揺れた。
 先輩があたしの肩を叩いた。
 その表情は少しほほ笑んでいながらも、なんだか指先はやけに冷たい。情を置いてきたのだろうか、と内心考えているのは失礼だろうか。
 お店の前でビラを配る、これが自分たち<雛>の仕事だ。うさぎの格好をした()()()、つまりバニーガールを雛と表現するのも何かと可笑しく、それは仔うさぎと呼んだ方が良いのかもしれないけれど。
 自分の呼びかけに興味を持ってくれる人なんていない。ビラは1枚ももらってくれなかった。
「また後で来てくださいねぇ」
 あたしはその声の方をちらりと見る。"カレン"という名前の先輩は、客引きしながらも男性客の腕に身体を軽く絡めていた。上目遣いをしながら、お店に来てくれるよう約束を交わしている。この世界に入りたての身分にはできなかった。
 それでも、黄昏時は少女を大人に変えるという。
 いつかはあたしもそういう存在になるのだろうか......。
 いつの間にか足を止めてしまったせいか、この姿を誰かに見られた気がする。自分の目が悪いからぼんやりと映ったけれど、視界の先に映ったのは見知った顔だったと思う。
 その姿は走り去って消えてしまった。......まるで、逃げるように。

 店内にいるバニーガールたちはシャンデリアの下を歩いている。
 まるで穴を出て太陽の光の下ではしゃいでいるように。
 元気いっぱいと言っているように。
 あたしは控室のドアの前に突っ立ったばかりで、彼女らの様子を眺めている。穴から出られない、臆病な心だ。
「......ほら、これ3番に持って行って」
 キッチンから声を掛けられた。それなら仕方ないとしぶしぶ持っていく。
「お待たせしました。どうぞ、ご注文のジントニックになります」
 できる限りの笑顔を作ってお渡しする。そして、キッチンに帰りながらも様子を見てグラスを片付ける。その気遣いはあたしの小さい頃から磨いているスキルみたいなものでしょうか。
 キッチンに戻ろうとする最中、注文をひとつ受けた。
「君は新入りかい?
ホワイトレディをくれないかな。
そう、流れるポニーテールに白い肌。君みたいに素敵なカクテルを」
「ええ、まあ......。
そう言われると、......嬉しいですね」
 あたしは微笑を返しておくことだけにとどめた。
 来店したときから頬が赤い客だった。酔い潰れなければ良いなと思いつつも、事件になりそうな雰囲気をふと感じ取った。
 なぜ、皆は作り上げた笑顔でも喜ぶのだろうか。この世界は、このお店に来る客は。不思議な世界の住人なのだろうか、いつも可笑しく笑っている。

 控室に戻ると、カレンから小言をもらった。
 彼女は手鏡を見ながら、化粧を直している。とりあえず頭を下げておくのが一番年下であるあたしのお決まり事だ。でも、彼女は特に説教をしたいという訳でもなさそうだった。
 こちらに視線を向けず、カレンが語る。
「少しでも女を見せなきゃダメよ、上目遣いするだけで客引き出来るわよ」
「......そんなこと言われましても」
 なかなか勇気のいるものだ。
 その時、控室の扉がノックされてひとつの声がかけられる。
「カレンにキャロル。またビラを配ってくれるか」
 はーい、とカレンは意気揚々に立ち上がった。私はしかめ面を作ってしまいながら、姿見の前に立ち衣装の乱れが無いかをチェックする。
 ......これが、<地下の国>というバーで働く"キャロル"と呼ばれるあたしの仕事。

 ・・・

 その日、塾で帰りが遅くなった僕は駅に向けて走っていた。
 すでに、もう大人しか外出しないような時間帯だった。
 駅と隣接した商業ビルは唯一の娯楽みたいなところだ。前にも映画を観たような商業施設が駅前に並んでいる。でも、そこから離れて一歩奥に入ってしまうと、飲み屋のチェーンが並び大人が通うようなお店があったりする。
 それがこの街の顔だ。良くも悪くも賑やかな街。親にも先生にも行かないようにと注意されたことがあった。
 そんなことを思い出しながら、大人の繁華街を通り抜けていた。
 目の前ではバーの従業員だろう、うさぎの格好をしている女性がチラシを配っている。バニーガールっていうやつだ。
「お願いしますー!」
 と声を張って呼び込みをかけている。
 寒いのに大変だなあ、それくらいの感想しか持たなかった。もちろん僕も受け取るつもりはないので、前をすぐ通り抜けようとする。
 僕の視線に腕を伸ばすガールの姿......。
 だけども、彼女はチラシを差し出したまま硬直していた。
 なぜだろう? 僕は足を止めて顔を上げる。
 その姿に身を包んでいたのは、誰でもない高月 リツ花だった。髪をポニーテールの姿に結っていても、高月の顔は瞼の裏にしっかりと覚えているのだから。
 お互いに目をまんまるく開いて顔を見てしまう。
 
 いつもと違う、化粧(いろ)のついた顔。
 波立つように揺れる瞳。
 
 艶やかなリップが小さく震えて、一言だけつぶやいた。
「......朝倉くん、どうして」
 それだけ言い残して、高月はお店に引き込んでいった。
 彼女の衣装はシンプルな黒のバニーガールのドレスだった。
 黒という色は、すべてを塗りつぶしてしまう色とされている。あまりの出会いに心を塗りつぶされてしまった僕は、その場に立ち尽くしていた。

 ・・・

 それからしばらく経った日。
 高月は学校にもうさぎ小屋にも登校しなくなっていた。
 僕はなんとなく、うさぎの世話をすることにした。うさぎは相変わらず横になっている。
 ちょっとだけ撫でてみようかな、そう思って近づいてみた。だけども、うさぎは鼻をふんふん鳴らしている。また何かの病気になったのだろうか。
 困り果てた僕に、見知った声が聞こえてきた。
「君の匂いに慣れていないのですよ......。
不機嫌だって、鼻を鳴らして音を出しているの」
 振り返ると、小屋の外に彼女が居た。僕は小屋を出て挨拶をした。
「......久しぶり」
「......うん」
 お互いに顔を背けてしまった。
 それ以外の言葉を生み出すことはできず、沈黙がふたりを包む。左手を右腕に添えている高月は少しうつむいたまま、声をかけてくれた。
「少し、時間ありますか?」

 こうして僕たちはカフェチェーンに移った。
 ここなら他のクラスメイトに話を聞かれる心配はないだろう。その提案に、高月もすぐ受け入れてくれた。
 改めて表情を覗いていると、なんだか疲れているようだった。
「......見られちゃった、か。
ちゃんと話そうと思ったけど、なかなか時間取れないし気持ちが整理できなくて」
 僕は視線を彼女の方へ向けて聴く姿勢をみせた。
「私、"キャロル"って言う名前なんです......。
そう、あのお店での名前」
 源氏名というやつだ。あんな従業員にも付けられているのは不思議だった。
 つい、こちらから声を出すこともせずに話を聞くことしかできなかった。
「私、横浜で産まれたんだよ」
 その話は知らないから、無言のまま首を横に振る。
「そっか、誰にも話していなかったっけ......。
小学校に上がるときに、この街に引っ越してきたの。
でも、お父さんが亡くなってしまって......」
 不慮の事故に遭ってしまったのだという。
「......その何日か前のことだったんだけど、"バレエの公演を見に行こう"なんて言ってくれたんだ。
でも、あまりの緊急事態だから、私も事情を理解できたんだと思います。
バレエの公演がお葬式の日と重なっているのに、言い出せる雰囲気じゃなかった......。
......ロシアのバレエ学校に行きたいなんて言ってたのは懐かしいなぁ」
 品の良い高月のことだ。自分の好きなものを我儘で押し通すのも諦めたのだろう。以前、趣味ですらアピールできないという話を後押していると思った。
 バレリーナというものは、特にロシアでは国家の象徴ともされている。養成学校に通い、国家試験に合格してはじめて職業としての道が開ける。さらに努力を積み重ね、スポットライトを浴びて成長していく。特にトップダンサーを<プリンシパル>という。これは男女問わずに主役を踊ることのできる実力と華やかを持っていないといけない。
 いつの時代も羨望の花形だ。
「バレリーナに合格していたら、役名をもらえたのに。
まさかこんな名前をもらえるなんて思いもしなかった......」
 高月は力なく微笑んだ。
 バレエの公演を見に行ったのは、彼女が好きだったから。
 僕にとっては小さい出来事であっても、彼女にとっては小さい頃からの夢を叶える大きな一歩だったんだ。
 「たまに夢を見てしまうことがあります。
 "もしも引っ越しをしてなかったら"、"もしも父が事故に遭わなかったら"って......」
 でも、家族二人暮らしというのは、なかなか大変じゃないだろうか。高月は力なく首を横に振る。
「お母さんはデザイナーだったかな? 新しく仕事も決めて自分を育ててくれたんだ」
 僕はうなずきながら聞いている。
「だけど、いつの頃からか人が変わったようになって......。
会社に行く日も減っていったの。
私が高校に入りだした頃から、"自分の分は自分で稼ぎなさい"って言ってくるようになって、いつの間にかあのバーと話をつけてきちゃった。
もちろん、誰にも話していないことだよ」
 高月はここまで言うと、緊張を出し切るように一息ついた。青白い顔から、青い吐息が出ていそうだった。
 高月 リツ花の告白は重い現実だった。