リナリアの隣に座るシオンは、もう少しで肩が触れ合ってしまいそうなくらい近い。シオンからは、爽やかなのにどこか甘い香りが漂ってくる。

(ああ、良い香り……)

 リナリアがうっとりしていると、シオンは重ねていた手をするりと動かした。リナリアの指の間にシオンの指が入り、お互いの指が絡み合うように手が握られている。

(こ、これは、恋人繋ぎという繋ぎ方では?)

 戸惑いながらシオンを見ると、シオンはニッコリと微笑んだ。

「リナリア」
「は、はい! 殿下!」

 とたんにシオンは悲しそうに瞳を伏せる。

「私のことは、シオンって呼んでって、こんなにもお願いしているのに……」
「でも、そんなっ」

「罰ゲーム」

 言いわけをしようとしたリナリアに、シオンは「これは罰ゲームだからね?」と幼い子どもに言い含めるように優しく言葉を重ねる。

「誰にでも簡単にできることなら罰ゲームにならないでしょう?」
「それもそうですね」

「リナリア。罰ゲームをきちんと実行しないと、お仕置きをされても文句は言えないよ?」
「お仕置き? えっと、はい、そうですね?」

 シオンの言う通り、罰ゲームをかけた勝負に負けたのだから、潔く罰ゲームは受けるべきだ。勝者のシオンが「シオンと呼んで」と言うのならそれに従わなければならない。

「その、あの……シオン」

 シオンはパァと表情を明るくしたあとに、なぜか距離を詰めてきた。元から至近距離にいたのに、さらに近づいたせいで、シオンの膝がリナリアの膝にくっついてしまっている。

「あの、殿……じゃなくて、シオン。膝が、その当たって……」

 リナリアがさすがにこれはいけないと距離を取ろうとすると、シオンは身体を傾けてリナリアにもたれ掛かってきた。背の高いシオンにもたれ掛かられると、リナリアの頭の上にシオンの頭がコツンと当たる。

(ふわぁあああああ……え? これって今、どういう状況?)

 パニックになりすぎて感情が一回りし、リナリアは逆に冷静になった。

「シオン。これが、恋人のふりの練習ですか?」

 リナリアがそう尋ねると、頭上から「そうだよ」というどこかうっとりとしたようなシオンの声が聞こえる。

(ということは、シオン殿下は今までたくさんの女性とこういうことをしてきたってことね。これは、確かに良くないウワサがたってしまうわ)

 いくら学園内での婚約者探しが推奨されているからと言っても、好き勝手イチャイチャしていいわけではない。貴族として恥ずかしくない節度を持ったお付き合いというものが存在する。

 リナリアは、視線だけ動かして頭の上にあるシオンの顔を見つめた。金色の長いまつ毛がシオンの滑らかな白い頬に影を作っている。

 リナリアの視線に気がついたシオンは、「なぁに?」と言いながらリナリアの顔を覗き込んだ。美しいだけでなく、誘うような色気が漂うシオンにこんなことをされては他の女性たちもクラクラしたに違いない。

「殿下……じゃなくて、シオン。これは良くないと思います」

 シオンは小さく首をかしげながら「良くないの?」と子どものように聞いてくる。

「はい、恋人のふりをするなら、もっと清く正しいお付き合いにしましょう」
「清く正しい?」

「そうです。例えば、朝に待ち合わせをして一緒の馬車で登校したり、一緒にお昼ご飯を食べたりとか。恋人のふりをするなら、身体のふれあいより、時間を共有していることを周囲にアピールしたほうが効果的だと思います」

「そっか、それは良い案だね。だけど……」

 ニコニコと微笑んでいたシオンの瞳がスゥと細くなった。

「リナリアは、どうして清く正しい男女のお付き合いに、そんなに詳しいのかな?」

 恋人繋ぎをしている手にわずかに力が込められた。繋いでいないシオンの左手が、優しくリナリアの髪にふれ頬にふれる。

「もしかして、リナリアは、私以外の男と清く正しいお付き合いをしたことがあるのかな?」

 グッと近づけられたシオンの瞳の奥には、暗い炎のような感情が揺らめいていた。怖いというよりは、その危うい灯りに魅入られてしまいそうだ。

「リナリア、正直に言ってね。大丈夫、君には何もしないよ。君には、ね」

 首筋に刃物を当てられているような不思議な緊張感の中、リナリアは首を小さく左右に振った。

「いえ、私は誰ともお付き合いをしたことがありません。オルウェン伯爵家は他家との交流はほとんどありませんでしたし、学園に入学してからは、男の人が少し苦手で……」

 学園に入学してすぐにケイトの兄サジェスに『モブ女』と貶されるようになったせいか、自分からシオン以外の男性に関わりたいとは思わない。

「清く正しい男女のお付き合いは、彼氏や婚約者がいるクラスメイトたちから聞きました」

 リナリアが教えてと言ったわけではなく、誰かに聞いてもらいたい彼女たちが勝手にいろいろと話してくれるので、付き合った経験がなくても学園内での交際の仕方を知ることができた。 

 リナリアの頬にふれていたシオンの手は、リナリアの長い髪を指ですきながら落ちていく。

「良かった……」

 そう呟いたシオンの声は驚くくらいか細かった。シオンは、恋人繋ぎをしている手を軽く持ち上げる。

「じゃあ、こうやって手を繋ぐのも初めて?」
「はい」

「肩を寄せ合うのも?」
「初めてです。私、父以外の男性とあまり話したことがなくって。モテるような外見でもないですから」

 自分で言っていて悲しくなるが、友人のケイトは、学園内でよく見知らぬ男子生徒に声をかけられて「友達になってください!」と言われたり、手紙をもらったりして対応に困っている。美少女は大変なのだ。

 シオンは「そっか……」と呟くと、どこか恍惚としたような表情を浮かべた。

「じゃあ、リナリアの初めては全て私のものだね」

「えっと? はい、そうですね! シオンが私の初めての恋人ですから」

 そう言ったあとにリナリアは「なーんて。ふり、ですけど」と言いながらシオンに微笑みかけると、シオンはうつむきながら苦しそうに自身の左胸を押さえた。

「ああ……幸せ……」

 微かに漏れ聞こえたシオンの声は、喜んでいるようでもあり泣いているようにも聞こえた。