申し訳ないが朋絵には、オープンキャンパスにひとりで行ってもらった。右腕がズキズキと痛むので、夏月はどうしても校内を歩き回る気になれなかった。
 朋絵はひとりで行くのを躊躇ったが、折角京都まで来たのだから、そう何度も来れるもんじゃないので、夏月の所為で諦めてほしくはなかった。
「ここで待ってるから、行ってきて」
 レンガの階段に座り込む。
 すると、大学関係者の方が車椅子を用意してくれ、親切に医務室まで運んでくれた。
 レントゲンを撮った訳ではないので、詳しく判らないが、骨折はしてはなさそうだ。
 だが、強く打ちつけたのか、右の二の腕は内出血し赤く腫れていた。擦り傷も数カ所みられ処置してもらえた。
 ベッドに寝転ぶ夏月を見て、少し安心したのか朋絵は、
「説明会とファッションデザインコースだけ見たら帰ってくるから」
 と言って、医務室を出て行った。
 ——ふぅと息を吐く。
 あの青年は、なんだったんだろう。
 ……なんであそこにいたんだろう。
 ……誰かに頼まれたって言ってた。
 ……怪我、大丈夫だったかな。
 ……眼鏡直るかな。
 色々、考えていると、昨夜の寝不足もあり、夏月は眠りに落ちた。
 
 
 ——公園の砂場で遊んでいる。
 幼少の頃、住んでいた家の近所の公園だ。
 お母さんが近くのベンチに座り、スマホを覗き込んでいた。日焼けを気にして帽子を深々と被っている。色白の綺麗な肌をしたお母さんが好きだった。
 ふと、顔を上げ、微笑みかけてくれるが、すぐにスマホに目を落とした。
 綺麗な色の蝶がヒラヒラと、眼前を通り過ぎる。目で追いかけていると、砂場に座り込んでいた腰が自然と浮いた。身体が蝶を追いかける。
 お母さんに注意されていた。
 ——公園の外に出てはいけないと。
 でも、この時、幼い夏月は失念していた。
 公園の出口から道路に出る。蝶は道路を渡り、向かいのマンションの花壇に舞い降りようとしている。導かれるように、夏月は車道に飛び出した。
 ——何処かで、誰かが名前を叫んだ。
 見上げると、遠くから見知った青年が駆け寄って来ていた。
 背後からの、衝撃——。
 眼の前が暗転する——。
 
 
 ——はぁ、はぁ、はぁ……。
 夏月は目を見開き、毛布を抱きしめていた。全身グッショリと汗をかいていた。
 ——怖い。
 母親が亡くなった、あの日だ。
 今までずっと忘れていたのに。
 思い出そうとしても、
 蓋をしたかのように思い出せない、
 記憶を封じたあの日のコトを
 夢に見るなんて——。
 ——う、うう……。
 涙が溢れる。
 両手で涙を拭おうとした時——、
 医務室のドアが開いた。
 オープンキャンパスから戻ってきた朋絵が、おずおずと入ってきた。
「夏月、どう? 大丈夫?」
 心配そうに覗き込む朋絵に、涙目の夏月がガバッと勢いよく抱きついた。
「えっ、夏月どうしたの?」
「ううん、ゴメン。イヤじゃなかったら、このままでいて……」
 朋絵は一瞬考えて、静かに夏月を抱きしめ返した。
「——怖かったね」
 階段から落ちたのがショックだったのだろうと思い、朋絵は慰めた。
「……うん」
「身体大丈夫?」
「……うん」
「ホテル帰ろうか」
「……うん」
 朋絵が優しく頭を撫でてくれた。
 少し気持ちが落ち着いた。
 
「絶対にね、あの人が悪いと思う」
 大学を出て、バスに乗り込んだ。陽が西に傾き、バスは家路につく客たちで混みだしていた。ふたり掛けの椅子に座り、朋絵が頬を膨らませた。
「静岡駅の人? でも誰かに頼まれたって、助けたかったって、言ってたよ……」
「——うん。でも、あの人がいる時、夏月が怪我したりするから……」
 夏月は首を傾げて俯いた。赤茶けた髪が顔を覆う。
「そうだね。でも、悪い人には見えなかったんだけど……」
「人は見かけによらないって言うし……」
 朋絵の言葉を思案する。夏月は顔をあげ、車窓に流れる景色を眺めた。
 京都の街は薄暗くなってきたので、対向車のヘッドライトが点灯し始めた。
 ヘッドライトの間を、怪しい光が飛び回る。
「あの人が、階段から突き落とした訳じゃないんだよ……」
 バスが信号で止まる。
 歩道を行き交う人々を見ながら、夏月のために怒ってくれている朋絵に、優しく説いた。
「逆に、助けてくれたんだと思う」
「……うん」
「足が、掬われたの。誰かが足首を捕んで、転ばされたって感じ。……信じられないかもしれないけど——」
 無表情の夏月に、朋絵は目を見張る。
「——そんなの。夏月の周り、全然、誰もいなかったよ」
 驚く朋絵に頷いた。
「うん。アタシ、ね——」
 夏月は言葉を選びながら発した。
「なんか、呪われてる、かも」
「呪われてる……」
 朋絵は口を手で押さえ、夏月の言葉の意味をしばらく考え込んだ。
「——えっ、呪われてるって、何に?」
 朋絵の言葉に、夏月が振り向く。
「……それは、わからないけど。でも、足首を掴まれたのは、間違いないと思うし」
「——んじゃ、どうするの? 何処か、お祓いとか、行く?」
 思いもよらなかった言葉に、夏月は目を丸めた。
「ああ、そうか……」
「お寺とか、京都だからいっぱいあるけど」
 朋絵が窓の外を指した。
 嫌なことが続くし、
 目の前を青白い光が飛んだりしてるし、
 足を階段で引っ張られたりするし、
 悪夢は見るし……
 絶対、呪われている!
 ——と思って絶望しかけたが、
 そうか、お祓いしてもらえばいいんだ。
 前向きな朋絵の提案に、夏月は救われたような気がした。
「でもさ、そうゆうのって、どうしたらいいんだろう」
 五条駅前でバスが停車し、料金を払ってステップを降りる。バス停から少し離れたホテルまで、ぼちぼちと歩く。
 わからないことをいつでも教えてくれる便利なスマホで、お祓いをしてくれる寺社を検索してみた。
「電話して、お祓い受けて、どのくらいお金かかるのかな」
 何でも知っているGoogleだが、そういうことは、明確に教えてくれない。
「高校生じゃ、無理かな……」
「金額書いてないもんね。ヤバイよね」
「相談無料って書いてるけど、その後が怖いね」
「うん……」
 再び絶望する。
 無表情の人々が行き交う交差点を渡り、間口の狭いホテルの前にたどり着く。
 歩道を通り過ぎる自転車を避けるように、見たことがある男子中学生が、スーツを着た若い男性と一緒に立っていた。
 幼顔の少年が夏月に近づいてくる。
「ネエチャンちょっとええかな」
 手招きをする少年に驚いた。
「君は……」
「昨日、アッコの東本願寺であったの覚えてる?」
「う、うん」
 昨晩、東本願寺の二重屋根の門前にいた背の低い少年だった。学ランのボタンを全開にし、両手をズボンに突っ込んでいる。幼い顔をしているが、目つきは厳しい。
「話があるねん。ちょっと付き合ってくれへん?」
「話って……」
 夏月は戸惑う。
 突然、何だろう。
 こんな風に地元男子中学生に声をかけられるのは、男運が悪いのか、本当に呪われているからなのか。
 色なことが沢山起こりすぎて、夏月は混乱した。
「今日階段から落ちたやろ。そのへんの話」
「——! 何で知ってるの?」
 夏月と朋絵は驚く。
 少年は面倒臭そうな顔をした。
「せやから、話する言うてるやん。立話もなんやから、付き合ってって言うてるねん」
「……」
 ふたりは顔を見合わせる。トラブル続きで疲れもあり迷ったが、関西弁の少年と、その後ろにいるスーツの男の圧力に、断る言葉を失ってしまった。