午前零時に大浴場のその事件が起こった以降、何も起こらなかった。
 明け方四時半頃から空が白み始め、五時前に日の出の時刻を迎えた。
 大広間の好きな所に、少しカビ臭い布団をひき、全員各々のタイミングで寝始めた。
 夏月は夢を見ることもなく、泥のように眠った。
 人の話し声と、お味噌汁のいい香りで目覚める。振り向くと、みんなでご飯を食べていた。
 恥ずかしい……。
「お、起こしてくれたらいいのに」
 美味しそうにご飯を食べるみんなに、文句を言った。
「起こしたよ」
「起こしたで」
 口々に言う。
「起こしたけど、起きなかったんですよ。疲れてそうですし、寝かしておくことにしたんです」
 佐伯が説明してくれた。
「まぁそう拗ねてないで、食べなさい。片付かないんだから」
 母親のようなことを晴海が言う。
 静々と進み寄り、朝ごはんを食べ始めた。
 朝ごはんだと思っていたが、実際は昼ごはんだった。厨房で食器を洗い終え、時刻を見ると十二時を回っていた。
 渡邊は、優弥と坂田のふたりと一緒に眠っていた間の映像をチェックしている。
 ぼーっと窓から空を眺める。雲ひとつのない空から、今日も容赦なく太陽が降り注いでいた。蝉も暑さで鳴りを潜め、時々遠くに聞こえるだけた。
「河原さん、温泉に行こう」
 晴海が声をかけてくる。
「温泉ですか?」
 夏月は目を輝かして聞き返した。
 昨日、汗をかいて以降、お風呂もシャワーも浴びていない。この廃業ホテルにも大浴場や個室の風呂もあるが、とても入る気にはなれないし、このまま汗臭いままだと思っていた。それが、温泉に入れるなんて。
「行きます、行きます」
 飛び跳ねて喜んだ。
 
「この近くに公営の温泉浴場があるみたい」
「ああ、ここですね」
 助手席の佐伯がナビをセットする。
 後部座席の横には優弥も座っている。
 今日は晴海先生とふたりきりじゃない——なんとなく、夏月は寂しい思いに捉われた。
 車で五分ぐらいの所にそこはあった。
 タオルと着替えを持って、女湯へと向かった。浴場は狭く、洗い場も三つほどしかない小さな共同浴場だった。廃業ホテルの大浴場の方が余程大きいが、汗が流せるだけ有難い。
 また、いつ来れるか分からないので、夏月は髪と身体を念入りに洗う。白濁の湯にゆっくりを浸かった。
 女湯を出ると、休憩処で優弥と佐伯が地元のお年寄りたちと談笑していた。晴海は横で新聞を見ている。
 晴海が湯上がりの夏月に気づいて手を振ってくる。
 優弥と佐伯はお年寄りに挨拶をし、その場を離れた。
「やはり、浴槽で子供が溺れた事件があったのは事実みたいですね」
 車に乗り込み、佐伯が口を開く。
「飛び降り自殺と首吊り自殺もだ。——そりゃ、廃業に追い込まれそうだな」
 その他に仕入れた情報を優弥が言った。
「あそこで、聞いてきたんですか?」
 夏月の質問に、佐伯が頷く。
「そう。地元のことは、地元のお年寄りに聞くのが一番だから」
 と言って、運転席の晴海に振り向く。
「どうしますか? 裏取りします?」
「どうやって?」
 晴海が佐伯に尋ねた。
「創業はパンフレットを見て〇〇年でした。だから、六〜七年、新聞を遡れば事件の概要は出てくると思うんです。スマホを駆使すればもっと早く調べられると思いますよ」
「なるほどね」
 晴海が思いもつかないような方法で、検索ルートを提案をする佐伯に感心した。
「ということで、僕しばらく離脱しても良いですか?」
 今回の雇用主は渡邊だ。京都に住んでいるので、最近は、渡邊からバイトを持ちかけられることが増えている。本来なら渡邊に伺うべきことだが晴海に訊いた。
「いいんじゃない。おそらくこのヤマは時間かかりそうだし……」
「そうですか」
 佐伯が頷く。
「じゃあ、強羅駅で下ろしてください。小田原にいったん帰ります」
「それ、俺も付いてっちゃダメかな」
 優弥が手を上げて希望する。
「ゆ、優弥君がですか?」
「だって俺あそこにいても役に立たないし、そっちのほうが面白そうだから」
 佐伯の驚きに対し、【力】が思うように制御できていない優弥はその理由を述べた。
 少し考えてから、佐伯は運転席を見る。
「どう、なんですか。僕は人手があった方が有難いですけど」
「連れてってイイよ。ホントに役に立たないし」
 酷い言われように、優弥は力無く笑う。
 ふたりを強羅駅まで送った。
 
 電車内で目立たないよう、俳優——岡本優弥は伊達眼鏡をかける。
「ホントに、それだけで大丈夫ですか? タオルとかで顔隠さなくて良いですか?」
 心配そうに佐伯は声をかけてきた。
「大丈夫でしょ。都内でもこの格好で電車乗ってますよ。下手に変装した方が、かえって目立つんです」
 事も無げに優弥は言う。
 確かに、車内は優弥に関心を示す客はいないようだ。
「で、実際にどうやって探すんですか? 過去の新聞を集めてくるとか、出来なくないですか?」
「そうですね、それは難しいでしょ。だから、ネットを使います。今、全国各地にいる、僕の仲間に声をかけて、あの廃業ホテルのことを調べてもらってます。Twitterとかで情報収集してるんです」
「へぇ、仲間って?」
「大学の友達や歴史オタク繋がりのヤツらです。——で、ある程度、事件が起きた時期等を洗い出せたら、地元の図書館等で、新聞を漁ろうかなと思っています」
 佐伯の作戦に優弥は驚く。
「流石、賢いっすね」
「いえいえ、こんなの大したことありませんよ。それより、優弥君にして欲しいのは、その抜群の知名度を活かした情報収集です」
 なるほど——と、優弥は感嘆した。
 
 小田原駅に十五時頃着いた。
 駅前でタクシーを拾い、十分ほどで佐伯の実家に着いた。
 玄関を開けると奥から母親らしき声が聞こえる。
「——誰? 帰ってきたの」
「ただいま——」
「——仁?」
 奥から五十代くらいの女性が出てきた。
 優弥は、その女性に目を留める。
「あら、友達連れてきたの?」
「うん——ああ、でもすぐ出かけるから」
「晩御飯くらい食べればいいのに」
 女性は息子の愛想のなさに不満を言った。
 佐伯は右手の階段を登って行く。
 それを見送って、母親と思われる女性は、優弥のほうを見た。
「あら、仁の友達にしては男前。ゆっくり上がって行けば良いのに」
 優弥は愛想笑いして手を振る。
「すみません。突然お邪魔して。また今度、ゆっくりさせていただきます」
 と、丁寧に断った。
 佐伯はすぐに、大きな鞄を持って階段を降りてくる。
「お待ち遠様。行こうか——」
「仁、フラフラしてばっかりいないで、ちゃんと卒業できるよう、勉強するのよ」
 奥から大きな声が聞こえた。
「はーい、行ってきます」
 佐伯と優弥はそそくさと家を出た。
「——お母さん……?」
 玄関先の階段を降りたところで、優弥は訊いた。山手のほうに向かって歩く。
「そうですよ。どうかしましたか?」
「いえ、何でも……」
 優弥は眉を寄せて難しい顔をした。
 佐伯はそれを不思議そうに見た。
 
 実家から五分ほど山側に歩いた所に神社がある。母親が生まれ育った生家だった。
 叔父が跡を継いで神主をしていたが、五年前に癌で他界した。以降、神主不在が続いている。
「管理とかは、親戚なんでウチがやってますけど、行事がある時とかはね、近くの神社の神主に来てもらってるんですよ」
「へぇーっ」
 佐伯が気まずくならないように話を振るが、実家を出た頃から優弥の様子がおかしかった。上の空という感じである。
「誰もいないから、僕が高校生の頃は、この神社に籠って友達と遊んでましたね。今考えると、ちょっと罰あたりなこともしたりして……」
 神社の前の、長い階段に辿り着いた。
 優弥は階段を見上げて、困惑する。
 佐伯は気にせず、石階段を登り始めた。
 優弥も恐る恐る上がる。
 石段の上に辿り着いた時、
 優弥は足を止めた。
 大きな鳥居が頭上に聳えている。
 佐伯は鳥居を潜って先に進む。
 数メートル進んだところで、
 優弥がついてこないことに気づいた。
「——優弥君?」
 振り向き、名を呼ぶ。
 優弥は冷や汗をかきながら、佇んでいる。
「どうしました?」
 二、三歩戻って、佐伯は声をかける。
 優弥は戸惑いの表情で首を横に振った。
「——佐伯さん、俺、此処に入れない」
「どうして?」
 脂汗を額に浮かべ、優弥は目を彷徨わせる。
「罠を……仕掛けてある」
「罠?」
 ——何を行っているのだろう。
 佐伯は怪訝に思う。
「罠なんてないですよ」
 佐伯は一歩踏み出す。境内を歩き、優弥の思い過ごしであることを証明しようとした。
「——違う。仕掛けたのは俺なんだ。アイツに仕掛けたのと同じ。此処に入ったら、俺……死ぬんだ」
 佐伯は驚いて、目を丸めた。
 それはどういう意味だろうか——。
「えっ? ちょっと待て……アイツに仕掛けたって——」
「——晴海」
「もしかして、飯田の時のヤツ?」
「そう——」
 優弥の言葉に、佐伯は固唾を飲んだ。
「——意味が全然分からない。教えて下さい。僕は、どうしたら良いですか?」
「このまま下がって帰れば、大丈夫だと思う。この鳥居さえ潜らなければ」
「……」
 愕然とした佐伯は言葉を失った。
 碓氷貞光が抱える——闇が深いことを悟った。