坂田は屈託ない笑顔で両手を振り、駆け寄ってきた。
「びっくりした。こんなところで何してるん?」
「それはコッチの台詞だよ。ここで何やってるの?」
 夏月は自転車を降りて、坂田が来るのを待った。
「何って、アイツ……晴海に呼ばれたんやけど」
 近づきてきてすぐに分かった。坂田の背が高くなっている。春休みの時は目線が下だったはずだが、今は並んでいる。
 成長期の男子の変化は著しい。ゴールデンウィークの時はゆっくり話すこともなかったので、気づかなかったが、幼さが残っていた顔が凛々しく引き締まっていた。
「晴海ちゃんに? 学校にいると思うけど、案内しようか?」
 夏月の親切心に、坂田は嬉しそうに破顔した。笑うとまだ幼さが残っている。
「——やめとくわ。夜待ち合わせてるから、早よ行ったら怒られる」
 そうか——と、夏月は納得した。
「先に、現場を確認しようと思って、早く来てん。夏月ネエチャン知らへん? この辺りに、居酒屋が火災にあったようなところ」
 夏月は先ほど光輝と話していた火災現場を想起したが、あそこは空き家だったと聞いている。居酒屋だったのは、文化祭の頃、晴海と行った場所だ。
「知ってる……」
 と答えたが、あまり行きたくない場所だ。
 とはいえ、坂田と一緒なら大丈夫だろう。
「案内するよ」
 自転車を押して、あの一ヶ月ほど前に訪れた路地裏に向かった。
 晴海はあの時、仕様がない——と言って、何もせずに帰ることを選択していたが、忘れてはいなかったということか。
 アレから何も、あの現場では起こらなかったので、それで良いのだと夏月は思っていたが——晴海は、気にして坂田を呼んだのだろうか。
 路地裏に入り、飲食店が所狭しと並ぶ中を歩く。
 ポッカリと、まだ更地が空いていたが、黄色い規制線は無くなっていた。前よりも夏草が高く生い茂っている。
 夏月は、何もなくなった——と感じた。
 前に来た時の去り際、三年の先輩の霊も若い女性の霊も寂しそうに佇んでいた。
 ふたりともいなくなっている。
 それどころじゃない、あの時、判らなかったが、晴海が棲んでいると言っていた何モノかが、いないことが分かった。
 明らかに、あの時と空気感が違う。
 驚いて、呆気に取られる夏月に向かって、坂田が言った。
「何もないなぁ……」
 ふたりは立ち尽くす。
 遠くで蝉の声が聞こえた。
 
「もう一か所、行きたいとこあるねんけど」
 すぐに、夏月はその場所を思い描いた。
「最近、ワイドショーで騒いでたところ?」
 うん、と坂田が頷く。
「やっぱり、ココと関係あるの?」
 夏月の質問に、坂田は頬を掻いた。
「せやろうな。だから、晴海に呼ばれたんやろうし」
 夏月は納得する。
 次の場所は、歩いて行くとそれなりに遠いと思われるが、ふたりは自転車を押して移動した。
「渡邊さんは、来てないの?」
 素朴な疑問を口にする。
「ネエチャン知らんかもしれへんけど、アイツら喧嘩してるんやで」
 坂田は事も無げに言った。
 そう言えば、晴海の車で飯田から帰ってくる際、佐伯との会話でそのようなことを言っていたような。夢の中で聴いていたような気がする。
「晴海先生も、そんなことを言ってたね。会いたくないって……」
「せやからおれへんで。俺だけや」
「なんで、喧嘩したんだろうね」
「さぁ……」と、坂田は小首を傾げた。
「朋絵ネエチャンは元気にしてるん?」
 坂田は話題を変えた。
「元気だよ。今日から美術予備校の夏期講習に行くんだって」
「へぇ」
「ねぇ、坂田君って中二? 中三?」
「中三」
「高校受験だね」
 夏月の言葉に、坂田は苦笑いした。
「あんま関係ないけどな。行けるとこ行くつもりやし、こんな仕事してるし」
 確かに……と、思ったが、気がついた。
「でも、先生も渡邊さんも、優弥君も別の仕事してるよね」
 坂田は目をパチクリさせた。
 その括りでの、会話がされるとは思っていなかったのだ。
「ネエチャン、何処まで話を聞いてるんやろか……」
「割と聞いたかも……分かんないけど。何かの四天王だっていうのは聞いた」
「ほー」と、坂田は驚く。
「じゃあ、あんま遠慮せんでもええわけか」
「今まで、坂田君、遠慮してたんだ」
「そないにペラペラ喋ることでもないからな」
 確かに——と夏月も思う。
「アタシも遠慮なく質問したいんだけど……坂田くんの下の名前って何?」
 何気ない質問のつもりだったが、坂田の笑顔が固まった。
「それは、えっと……」
「えっ?」
「それは、訊かんでも、ええんとちゃう?」
 動揺が半端ない。
 坂田はそそくさと早足で歩き出す。
 置いていかれないように、夏月は追いかけた。
 
 北品川駅近くの火災現場に着いて、夏月はまず、腹が立った。
 そこには、見知った顔の学生服を着た男子が立っていた。住宅街に空いた更地を、呆然と眺めているその男子を見つけて、いつになく夏月は声を荒げる。
「——光輝! 何してるの⁉︎」
 ハッと我に返り、声が聞こえた方に顔を向けた。夏月は頭を抱える。
 もうすでに、ふたつの霊体を背後に抱えていた。
「か、夏月? なんで?」
 光輝は掠れた声で慌てて言う。
「何でじゃないよ。見に行っちゃダメだって言ったじゃん」
「ごめん……そう言われると、見たくなっちゃって……」
 光輝は後頭部を掻いて、力ない笑みを浮かべながら謝った。
 夏月は大きな溜め息を吐く。
「夏月こそ、なんでココに来たんだ?」
「あ……」
 光輝の質問を受けて、夏月は坂田を見る。
「えっと、この子が、ここに来たいって」
 夏月と一緒にいる中学生くらいの少年に、光輝は虚な目を向けた。
「京都から来た、知り合いの子なんだけど、こういうところを見に行くのが、趣味みたいで……」
 説明された坂田が、ボーっとしている高校生と夏月を見比べた。
「あ、コレは同じ学校の子。優弥君の友達なの」
 と、坂田にも小声で説明した。
 坂田は光輝の方に向き直る。
「ニイチャンはこういう所、近づかんほうがええで。霊媒体質や。すぐ取り憑かれんで」
 少年に言われて、光輝は愕然とした。
 取り憑かれた——という感覚は、今、先ほど、経験していた。言い当てられて驚いた。
 光輝は力なくその場で崩れ落ちる。
「大丈夫?」
 夏月が慌てて光輝の近くに寄った。
「どうしよう」
 光輝ではなくその後ろを見て坂田に問う。
 坂田は思案してから答えた。
「アイツ呼ぼっか」
 
 少年がスマホで何処かに電話し始めた。
 夏月は光輝が三角座りをする側で、光輝の顔と後ろを気にしている。
 もしかして——
「お前って、こういうの視える系?」
「えっ?」と、夏月は聞き返す。
 光輝は辛そうに返事を待った。
「——そうだよ。だから、止めたのに」
 押し殺した声で答えた。
「そうか……」
 目の前がぐるぐる回っている。
 光輝は膝に顔を埋めた。
 
 夏月と品川駅に別れた後、光輝は誘惑に負けてこの現場を見に来てしまった。なんとなく、ニュースやワイドショウの映像で、場所は分かっていた。
 ウロウロと目ぼしい住宅街を歩き回る。突然、現れた空き地を見て、此処だと分かった。黄色いテープで規制線が張られている。
 前の品川駅近くの時は、事件後間も無くなだったので、人だかりが出来てよく見えなかったが、今日は時間が経っており、現場がよく見える。
 眺めていると、目の前が突然ボヤけた。
 赤い霧のようなものが迫ってくる。
 喉に違和感を覚えた。
 咳をして喉の異物を吐き出そうとしたが、出来ない。
 喉の奥が熱くなる。
 焼けるよう。に喉が痛む。
 苦しい——
 そう思ったところで、声をかけられた。
 夏月の少し怒った声だ。
 赤い霧が散らばり消える。
 我に帰ることが出来た。
 
 灼熱の太陽が、アスファルトを照らしている。蒸せるような暑さの中で、誰かが来るのを待っている。
 夏月と坂田は、光輝を抱えて現場から少し離れた。直射日光を避けるように、近くの寺の大きなクスノキの下で休んだ。
 目の前がぐるぐると回って気持ち悪い。
 五分ほど待っていると、声がかかった。
 背中を強く数度叩かれる。
 次第に身体が楽になり、視界も少しずつ戻ってきた。
「——大丈夫か?」
 聞いたことのある声で、誰かが顔を覗き込んでくる。膝に埋めていた顔を上げると、目の前に色白の美人がいた。
「——晴海、ちゃん?」
「そう。わかる?」
 長い睫毛を伏せた晴海の問いに、意識が不明瞭な光輝は頷く。
「どうしてここにいるの?」
 疑問を口にした。
「大崎、何処か行った?」
 光輝の質問に晴海は答えない。
「オマエの後ろに霊がいるよ」
 光輝はドキッとする。
 そんなやり取りを、前にしたことはないだろうか。そう言えば、品川駅の近くで遺体現場を見た後、晴海に保健室で言われたような気がする。あの時は、冗談だと思っていたが、本気だったのか。
 文化祭準備のあの日、貧血で倒れたと思っていたが、違ったのか。晴海に保健室まで運ばれて、自然と治ったと思ったが、もしかして……。
「——俺、助かりますか?」
 光輝は力なく訊いた。
「助けるつもりだけど、少しだけ我慢して」
 ポンと肩に手を置かれる。
 光輝は少し安堵した。