「——渡邊さんが、戦線離脱しましたよ」
 ビルの屋上から眺めていた長身の青年——佐伯が路上を指して言った。
 渡邊が示唆した通り、見える範囲に彼はいた。
 ふーん、と気のない返事が聞こえる。
 佐伯が眼鏡のフレームをあげて振り向くと、男は長い手足を放り出して、室外機の上に座っていた。
 長髪が風に舞う。
 西陽が差して、男の美しい肢体を神々しく魅せた。
 直視するのが痴がましくさえ感じる。
 佐伯はすぐに目線を外した。
「——上手くいきましたね」
「何が?」
 思いも寄らない男の返答に、佐伯は目を丸くする。
「えっ? 上手く夏月さんに接触できたじゃないですか」
「ああ、アレね。アレは応急処置だから、上手くなんかいってないよ。出来るだけバレないようにしたかったし。チョチョっと小細工しただけ。往生際が悪いよね。それに、帰れって言ってあげたのにな。あの子たち帰らないんだし、先生としての威厳というものがないのかな……」
 不満気に頬を膨らませ、秀麗な男が言う。
「残念でしたね。でも、女心と秋の空——というやつなんじゃないんですか?」
「そんないいもんかな。まぁ、どうであれ、人間素直が一番良いっていうことだよね」
 ふふっ——と佐伯は笑ってしまう。
「それはもしかして、ご自身に言ってるんですか?」
 切れ長の瞳が睨んできた。
「仁くん——」
「あ、すみません」
 素直に佐伯は謝った。
「僕、これからどうしたら良いですか?」
 佐伯が指示を仰ぐ。
 虚空を見つめ、しばらく考えた後、男が形の良い口を開いた。
「今晩は何も起こらなさそうだから、仁くんは帰っていいよ」
「——晴海さんは?」
 自分を帰して、何をしようというのか。「どこか近くにホテルとって、シャワーでも浴びるよ。昨日お風呂入れなかったし」
 ——じゃあ、僕も。
 と言いたいところだが、怒られるかなと思い諦めた。
「では、帰ります。明日は……」
「あの娘たちが、東京に帰るのをやめて、明日行こうとするところって、何処だろうね」
 目線を流して男は思案する。
 佐伯はスマホで素早く検索し始めた。
「大学のキャンパス巡りやってるようですし、美術系なら南河内のほうの、この大学じゃないですかね」
 佐伯が見せたHPに、男は頷く。
「じゃあ、そこで朝から張って。行き先が違うようなら連絡する——」
「わかりました。では、失礼します」
 佐伯は男に一礼し、その場を離れた。
 振り返ると、秀麗な男は佐伯に目もくれず、茜色の夕空を見上げながら、ビル風に吹かれていた。
 一枚の絵画を見るような感覚になる。
 その横顔は、何処か寂しそうに見えた。
 佐伯はその姿を目の端に捉え、階段をゆっくりと下りた。
 
 陽が沈み、繁華街に夜の帳が降りた。ホテルの窓から、家路を急ぐサラリーマンの姿を目で追う。
 夏月は目を丸めて驚いた。
「朋絵——」
「……何?」
 岡本優弥展で買った作品集を眺めながら、朋絵が応えた。口にはポテチを咥えている。
「やっぱり、大丈夫だわ」
「……何が?」 
 窓の外を見ている夏月に、目を向けた。
 夏月は姿勢をそのままに、
「昨日さ、バスに乗ったでしょ? 帰り」
 抑揚なく話し始める。
「——うん」
「夜になったら、ふわふわ飛んでたのが見えたのね。淡い光がチラホラと……」
 夏月の告白に唖然とする。
「——今は? 今はどうなの」
 心配気な朋絵に、夏月は振り向いて微笑んだ。
「だから、大丈夫なの。今、外見てて飛んでないなぁって思って」
「——ホントに?」
 朋絵は喜びで両手を上げる。
「ホントに!」
 満面の笑顔で、朋絵の両手を掴んだ。
 何かわからないけど、取り敢えず治った。
 そうに違いない——と、不都合を封印するように思い込んだ。
 
 電車に揺られ、一人暮らしをしているマンションに向かって家路につく。とっぷりと暮れた車外の景色を、少し度数が合わない眼鏡越しに眺めていた。
 昨日壊れた眼鏡の代わりに、高校生の頃に使っていた眼鏡を掛けていた。が、やはりハッキリと物が見えない。少し離れた人の顔は二重三重に見える。
 時間が出来たから、帰りに眼鏡屋に寄って新しいのを買おう。今月の生活費、苦しいけど、見難いのは不便だ。。
 京都駅で降りて、近くの安価な眼鏡屋に入った。閉店まで、まだ時間があったが、客は他にいなかった。商品を吟味し、視力検査を受け、商品を受け取った。
 八千八百円。
 眼鏡としては安いが、今月はまだ一週間ほど残っている。この出費は本当に痛い。今日の晩ご飯はインスタントラーメンにもやしを乗せて腹を満たそう。
 肩を落として家路を急ぐ。
 地下鉄に乗って最寄り駅に向かい、改札を出る。大通りにあるコンビニの角を左に曲がって細い路地を歩いた。
 人通りのない路地を進む。鉄棒と滑り台しかない小さな児童公園が見えてきた。その時、背後に気配を感じた。
 ヤバイな——。
 夏月に憑いていたモノがコチラに鞍替えでもして、付いて来てたのだろうか——。
「晴海さん、謀ったね……」
 渋い顔でゆっくりと後ろを振り向いた。
 眼鏡を買い替えておいて良かったと思う。
 電柱の灯が作り出した闇の中に、ハッキリと見える対象物。
 ——よく見えるな。
 と、思って苦笑した。
 濃い鼠色の獣のようなソレは、佐伯に気付かれたことに気づき、黒で塗り潰した大きな目を向けてくる。枯れ枝のような鼠色の獣が、飛び掛かってきた。
 20mほどあった距離を一瞬で縮められる。振り下された鼠色の細い腕を、左に身体を捻って躱す。背中のリュックから木箱を取り出し、中の【珠】を手にした。
 攻撃を躱され、地面に四つん這いで降りた鼠色の獣は、すぐに身体を反転し、再度、襲いかかってくる。両腕を顔前で交差させた佐伯と接触した瞬間——
 バチバチバチッ
 火花が散った。
 ギャインと獣が鳴いた。
 弾け飛び、地面に転がる。起き上がった鼠色の獣は、慌てて児童公園の木の茂みに逃げ込んだ。
 衝撃に耐えた佐伯は、構えた両腕を解いて、獣の様子を窺う。
 木の茂みにあった気配が、スーッと闇に消えていくのが分かった。
 ——はぁ。
 佐伯はズレた眼鏡のフレームを上げ、溜息を吐いた。
 ジャケットの内ポケットに【珠】を入れ、路地の端に放り投げたリュックを回収する。Gパンの後ろポケットからスマホを取り出し、電話をかけた。
「——もしもし? 佐伯です」
 一人暮らしの部屋に向かって歩き出す。
「どうしたの? じゃないですよ。僕、今襲われました。晴海さん知ってたでしょ?」
 唇を尖らせ、教えて貰えなかった不満をぶつける。
「一応、撃退しましたけど、また襲ってくるかもしれません。どうします? 明日、合流して大丈夫ですか?」
 夏月たちが行くところに自分も行くことで、危害が加わらないか心配だ。
 電話の相手はその心配を否定もせず、逆に指示通りに行動するよう伝えてきた。
 何か策があるのか——。
「わかりました」
 佐伯は素直に従う。
 マンションの前で電話を切り、エントランスを抜けた。
 何はともあれ体力勝負だ。明日のために、早く寝ようと思った。
 
 ホテル前の路地裏で見張りを続けていた。
 このまま何もなく過ぎればいいが——。
 少年は星のない狭い夜空を見上げた。
 この路地裏で、このまま何もなく突っ立ってたら、時刻が遅くなるにつれて警官に補導される可能性が高くなる。
 はぁ……と、肩を落とし、息を吐いた。
 不便やなぁ、と思う。
 子どもの身体では制限されることがとても多い。早く成長して、身動きしやすくなりたいものだ。
 何気なく警官がいないかどうか、通りを窺おうとした時、少年は本能的に振り返った。
 僅かな【気】を背後に感じた。
 何者かに背中を取られた——
 戦慄が走る。
 ——しくじったか
 防衛本能が暴走する。
 反射的に【力】を放った。
 一直線に走る【力】の軌跡——。
 路地奥で弾かれ、方向が逸れた。
 ——まさか、往《い》なされた⁉︎
 それなりの力で放ったはずだ。
 一発で相手を仕留められるように、
 力を込めた。
 それを躱すなんて——。
 更に【力】を充填するかのように、
 少年は歯を食いしばった。
「——殺す気か⁉︎」
 路地奥で怒鳴り声が聞こえた。
 ——何言ってんねん。
 そのつもりでこっちはやってんねん。
【力】を込め直す。
「やめろって!」
 路地奥から男が両手を振って、駆け寄ってくる。
 その、見知った姿に少年は驚いた。
「えっ? オマ……」
「それナシ。引っ込めろ」
 坂田は指摘され、込めていた右腕の【力】を抜いた。
 戦う相手ではない——。
 そう判断せざるを得なかった。
「どうして……?」
 思いも寄らない出来事に、坂田の頭は混乱した。旧知の仲間がそこにいて、自分は考えもせずに【力】を放ってしまったのだ。
「——うわっ、ゴメン。」
 すぐに坂田は謝った。
「怪我せぇへんかったか」
 相手を気遣い近寄った。
 男は渋い顔をし、右腕を振る。
「——怪我はない。痺れてるけど。この馬鹿力が——」
「ゴメン」
 両手を合わせて、坂田はもう一度謝った。
「——せやけどな、言ってくれたら、そんなことせぇへんねんで」
 少年の言い分も確かだ。不用意に背後に出てしまった自分も悪かった。
「すまない。それもそうだな」
 素直に男も謝る。
「ところできんちゃん、ここで何やってるの?[#「?」は縦中横]」
「張り込み。アソコのホテルに対象がおるから……」
 言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 少年と向かい合うように、男はゆっくりと路地裏のビル壁に凭《もた》れかかった。
 繁華街の明かりが規則的に点滅し、男の一際美しい顔を照らし出す。
「——そうか、お前か」
 思考の先に行き着いた答えを口に出す。
 男は真っ直ぐ少年の顔を見て、その整った唇をすこし歪めて微笑んだ。
「——ご名答」
 坂田は苦虫を潰したような顔をする。
「わかった。せやからアイツ逃げたな。腹立つな」
 教えてくれても良いのに——と、怒りが込み上げてくる。
「誰のこと?」
「ツナ」
「——成程」
 秀麗な顔の男はふっと鼻で笑った。
「じゃあ、佐伯はどうしたん?」
 お前と一緒にいるんじゃないのか、と坂田は問うた。
「仁くんにはおウチに帰ってもらったよ。お前とサシで話したいと思ったから」
「——そうか」
「ここじゃなんだし、移動しないか。恐らく今夜は動きはないだろう……」
 軽快な電子音が鳴った。
 秀麗な男はパンツのポケットからスマホを取り出す。予想通り、不満げな声で佐伯が電話をかけてきた。ひと通り話を聴き、労をねぎらい、明日の約束を再度した。
 電話を切り、坂田の方に目を向ける。
「仁くんが襲われたらしい」
「大丈夫なんか」
「大丈夫。そんなひ弱な子じゃないよ」
 皮肉な笑みを男は浮かべた。
「そういう風には見えへんけど、無事ならまぁええわ。それより、じっくり話を聞こうやないか。悪いけど、メシ奢ってもらうで」
 坂田の言い様に、男は笑った。
 ——相変わらずだ。
「わかった。そうだな、何処かで酒でも酌み交わすか」
「ちょい待ち。俺チュー坊やで」
 ふふふっ、と男が笑う。
 ふたりは暗い路地裏から表通りへと出た。