私の頭上をぷかぷか浮いていたサルヴァドールは、いつの間にか姿を消しており、部屋には私とクリストファーだけがいる状況だった。

 まるで絵画の中の人のように美しい風貌のクリストファーに圧倒され、私はごくりと唾を飲み込む。
 ジェイドが言っていた通り安眠できていないのか、目の下にはうっすらと影がある。しかし顔が良すぎるため、それすらも飾りだと思えてしまう。

 ちょっと病み的な雰囲気というか、これもまた好きそうな人は好きそう。特に前世では需要がありそう。見た目病み属性。ざっくりとした感想である。

 クリストファーの顔面をひとしきり凝視したあとで、私はハッと我に戻った。ぼんやりとしている場合ではない。
 どうなるかはわからないけど、反応を探るための愛嬌を振りまく時間がきたよ。

「お父様……!」

 イメージはぱあっと花が咲くような笑顔。
 待ち焦がれていた人が現れた嬉しさを表に出して、私はクリストファーを見上げる。

「……」

 見逃しそうになったけれど、クリストファーの片眉がぴくりと動いた気がする。
 そのあと眉間をきゅっと寄せて、口を開きかけたような仕草があったけれど。それは一体どういう感情なのだろうか。

「アリア、お父様に会いたくて――」
「なぜ、書庫室にいたと言っている」

 私の言葉はばっさりと遮られる。
 そういえば入ってきたときクリストファーはすぐに尋ねてきた。ひとまず答えよう。

「……本を、探したくて。たくさんお昼寝したから、アリア全然眠くなかったの。だから、本を」
「夜間を一人で出歩くなと、お前のメイドは教えなかったのか」
「ちゃんと、おしえてくれたよ」
「なら、それを破ったということだな。ひと月前のことといい、お前はなにがしたい」
「ごめんなさい」

 ごもっともな言葉が降ってきて返す言葉がない。夜間に出歩いてはいけないという言いつけを破ったのは事実なので、わかりやすく項垂れた。

 けれど私が悪魔関連の本を探していたという話をゼノから聞いていないのか、クリストファーは私が勝手に出歩いたことだけを咎める。

 私が素直に謝ったので、それ以上は言う気も失せたのか、クリストファーはため息をついて部屋を出ていこうとした。

(早っ、もう行っちゃうの……!?)

 やっとの邂逅なのに、これではなにもわからないまま終わってしまう。

「お、お父様! アリアのお手紙、読んでくれた?」
「…………」

 クリストファーの歩みが止まる。でも、こちらを向こうとはしない。

「あのね、お父様に会いたいってジェイドにもお願いしたの。お父様、元気かなって。元気だといいなって、だからお手紙の絵も笑ってるお父様を描いたの。それで」
「アリア」

 とても冷ややかな声音で呼ばれ、私の肩がびくりと震えた。気持ち的にはそれほど恐ろしくないけれど、クリストファーが纏う鋭利な空気にこの体がびっくりしているようだ。

「俺はお前と話したいとは思わない。会いたいとも思わない。そもそも俺はお前に構ったこともないはずだ。だというのに、なぜ求めようとする?」

 …………きっつ。鳩尾あたりにフルスイングでアッパーをくらった気分である。
 そんなこと当たり前のように言い切るなんて。こちとら5歳児だというのに。
 それでもクリストファーの心理を想像すれば、そうなってしまうのも無理はないのかと思ってしまう。

 だとしても厳しい言葉だ。浮かべていた笑顔が引き攣りそうになる。
 私は膝に置いていた両手をぎゅっと握りしめて、この地獄と化した空間の中でもクリストファーに意見する。

「だって、アリアのお父様だもん。お父様と、もっと一緒にいたいから」
「…………っ」

 そう言うと、ほんのわずかにクリストファーの顔色が変化した。
 一瞬だけ見えた、意表をつかれた横顔。
 しかし、すぐに煩わしそうな表情に戻る。それはどこか苦しげで、クリストファーは額に手を当てた。

「………………気分が悪い」

 やがてそれだけを言い残すと、クリストファーは部屋からいなくなってしまった。
 一気に緊張が解けた私は、そのままベッドにごろりと大の字に寝転がる。
 
(気分が悪いって、私?)

 つい先ほどの会話を思い返していれば、じわりと涙が出てきて慌てて目元を擦った。

(なにこれ、なんで涙なんか出てるの。べつに悲しくないのに、悲しくなんて)

 ふと、目元を拭っていた腕の動きが弱まる。

(私は、アリアなんだなぁ…………)

 目覚めてから違和感というものはなかったけれど、自分に対してもどこか客観的になっていて。だけどクリストファーと対峙してはっきりした。

 やっぱりクリストファーは私の父親で、そして彼から拒絶されている現状を突きつけられると胸が痛むのだ。

 それでも愛嬌を飛ばしてクリストファーの反応を見ることはできた。
 悪魔と契約済みかどうかはわからなかったけれど、なにかに脅かされているというか、話していて様子がおかしい場面があったように思う。

(もっと愛嬌作戦を続けて、近づいてみようかな。これで正解なのかはわからないけど、ほかに状態を探る方法がないし)

 よし、と起き上がる。
 そこで、今まで忘れかけていた存在が哀れみの声と共に姿を現した。

『…………お前、可哀想なガキだな』
「聞いてたの?」
『まあな。にしても、ガキのわりに苦労が多いこった』

 おちゃらけた口調でサルヴァドールに言われるけれど、思ったよりブルーな気持ちになっていた私はジト目を向けることしかできない。

 だけどサルヴァドールは、私が求めていた情報をぽろっと落としてくれた。

『たしかにアイツ、悪魔に憑かれてるな。お前の言っていた通りじゃん』
「え……!」


 ***


 クリストファーは悪魔に憑かれている。
 唐突な事実を教えられ、私はもっと詳しくとサルヴァドールを鷲掴んだ。

『おい、離せ。掴むにしてももっと丁寧に触れ! どんだけ年季が入った本だと思ってるんだよ!』

 サルヴァドールが唸るように、本のページをバサッと揺らした。

「お父様が悪魔に憑かれてるって、本当なの?」
『ああ、そうだよ。まだ契約は結んでいないみたいだが、時間の問題じゃないのか』
「そんな……」
『だから丁寧にオレを扱え!』

 サルヴァドールを持っていた手が力なく膝に落ちる。
 やいやいと文句が飛んでくるけれど、気にしている余裕はなく、焦りが冷や汗になって流れた。

「時間の問題って、どれくらいなの? あとどれくらいでお父様は悪魔と……」
『さあな。アイツの心持ちによるんじゃねーの。見たところ、精神にも深く侵入されてるようだしな』
「そんな……」

 時間の問題と言われ、退路を断たれたような心地になる。
 死にたくないからという理由が一番にあったものの、クリストファーの状況を知るとショックが大きい。

「このままじゃ、わたしは死ぬ……お父様が悪魔と契約したら、わたしは目玉をえぐられ、血を抜き取られ死んじゃうんだ……」
『やけに死に際をリアルに想像してるな。最近のガキはどうなってるんだ』

 想像ではなく起こりうる未来なのだ。
 悪魔と契約を結べばそれなりの力を与えられるけど、あとは堕ちていくだけ。そのタイムリミットが明確にわかってしまい、私は動揺してしまう。

『ったく、仕方ねぇな』

 サルヴァドールを抱えて内心悲観に暮れていれば、舌打ちが耳に届く。
 私の腕の中から抜け出したサルヴァドールは、浮かび上がって堂々と言った。

『おい、力を貸してやる。だからうじうじするな。オレは辛気臭いのが嫌いなんだよ』