「何をなさってるんですの、あなた? レディーの語らいを盗み聞きするなど、紳士の行いではありませんわよ」

 母に冷たくにらみつけられ、父はしゅんとうなだれた。

「い、いや、その……。私はただ、ビアンカが心配なのだ。今からでも、女性の多い職場に変わっては……」
「何も危険なことはありませんわよ。皆さんとは、仲良くやっています」

 ビアンカは、きっぱりと答えた。

「だ、そうですわ。それに、今さらビアンカを転職などさせれば、親友ボネッリ様の信頼を失い、下手をすればステファノ殿下のお怒りも買いましてよ。愚かなことを仰るのも、大概になさいませ」

 言いたいことだけ言うと、母はピシャリとドアを閉めた。打って変わった笑顔で、ビアンカの方を向き直る。

「で、どうなの、ビアンカ? 恋の気配はないのかしら?」
「いえ。そういう対象で皆さんを見たことは、ありませんので」

 ビアンカは、ぼそぼそと答えた。アントニオとの仲は、特に変化なし、といったところだ。『ゆっくり距離を縮めたい』という言葉通り、彼は強引な真似をするでもない。他の皆も、焦れったそうにしながらも、温かく見守っている、というところである。

(それでも、いつまでもこのままってわけにもいかないわよね……)

 ビアンカの内心に気付いているのかいないのか、母は、そう、と優しく答えた。

「まあ、取りあえずは今日の支度を頑張りましょうか。ステファノ殿下と一緒にいらっしゃる、側近の方々の中に、素敵な男性がいらっしゃるかもしれませんしね」

 母は、ジェンマを急き立てて、準備を始めさせた。そういうつもりはないのだがと思いつつも、ビアンカはされるがままにドレスを着付けてもらった。エルマのドレスは、真紅の生地の上に、金糸がちりばめられたものだった。ウエストが細く絞られ、下半身が大きく広がった可愛らしいデザインだ。

「ビアンカ様は小柄でいらっしゃいますから、ウエスト位置を高めにいたしましょう。スタイルが良くお見えですよ」

 ジェンマは、そうアドバイスしてくれた。

「借り物にしては、よく似合っているわね。よかったわ」

 母も、ほっとしたように頷く。赤色は、ビアンカの黒髪によくマッチしている。ところどころに黒いリボンが飾られているので、まるで専用に仕立てたようだ。

「そうだわ。いいものがあるわよ」

 母は、いったん部屋を出ると、小箱を取って帰って来た。開けると、中には黒翡翠のイヤリングが収められていた。

「お父様からの贈り物なの。今日の装いに合うと思うわ。貸してあげましょう」
「まあ……。大切な品ですのに、よろしいのですか?」
「あら、大して大切じゃないわよ」

 母は、ホホホと笑った。

「お父様が、これ以上領地経営に失敗なさったら、真っ先に売却しようと思っていた品ですもの。……ああ、でも、その前に離婚かしらね」
 
 そう言う母の目は笑っていなくて、ビアンカは、密かに父にエールを送ったのだった。