結婚してこの家を出るなら、挨拶をしておかなければいけない人がいる。

 それは、屋敷から少し離れたところにある、食堂『アルヴィラ』のおばあちゃんだ。

 一年ほど前、食材の買い出しのために一人で街に出た時のこと。急な雨に降られ、雨宿りのために軒先を貸して頂いたのが、その食堂だった。それがご縁でおばあちゃんと仲良くなり、私は時々お店で給仕の手伝いをしていた。
 庶民向けのこじんまりした食堂で、安くて美味しいおばあちゃんのお店はいつも大繁盛。

 もちろん街の人も来るけれど、王国の騎士団の方が大勢で来ることもあった。騎士様はたくさん体力を使うからか、それはそれはたくさん注文してくれるから、そんな日は大忙し。どのテーブルにどの料理を出すのか分からなくなって間違えたりもしたけど、おばあちゃんは優しく許してくれた。

 屋敷にいると何かにつけてお父様から、お母様を侮辱する言葉を聞かされる。耐え切れなくなるといつもこの『アルヴィラ』に来て、おばあちゃんのお手伝いをして気を紛らわせていた。

「おばあちゃん、私結婚することになったの」
「あらまあ、リゼット。それはおめでとう! 旦那様はどんな方なの?」
「それが、すごく遠いところに住む方なの。ロンベルク辺境伯領って知っているかしら?」
「まあ、そんな遠くに……でもね、リゼット。この『アルヴィラ』という店の名前は、ロンベルク領にちなんでつけたのよ」

 おばあちゃん曰く、ロンベルクに広がる森の奥には美しい湖があるらしい。その湖の周りにだけ生える『アルヴィラ』という花を、店の名前にしたという。

「素敵! 私ロンベルクに行ったら、その花を探しておばあちゃんを思い出すわ」
「そうだね。私もリゼットのことは絶対に忘れないよ。必ず手紙を書いておくれ」

 こらえきれずに泣き始めてしまった私の背中を、おばあちゃんがポンポンと叩いて抱き締めてくれた。美味しそうなパンの匂いが染みついた洋服に顔を埋めて、私もギュッと抱き締め返す。

「この店のお客さんたちも、みんなリゼットのことが大好きだったからねえ。離れるのは残念だけど、みんなリゼットの幸せを祈っているよ」