「っきゃあっ! 誰?!」

 柱の影からいきなり人影が現れ、私は悲鳴を上げた。
 早朝の王城内は人もまばらで、私の声に駆けつけてくれるような人もいない。逆光のせいで見えなかったその人影が、少しずつ私に近付いてくる。

「……マリネット? マリネット・ザカリー?」

 人影が喋った。目が少しずつ慣れてきて、私はその人が今最も会いたくなかったあの人物だと知る。

――フランツ・シャドラン辺境伯だ。

「この前はヒルデ殿下の前だったし、君も誰かの後ろに隠れて出て来なかったから分からなかったよ。マリネット、あのマリネットだね?」
「……フランツ様」
「やっぱりそうだ! 久しぶりだね、こんなところで国王陛下の教育係をやっているなんて知らなかったよ」
「……」

 ジーク様の婚約者に内定しているヴィアラ・シャドラン様の父親にあたるフランツ様。早朝の使用人もほとんど通らないこんな時間に、女性を待ち伏せするなんて。
 フランツ様に近付かないように後ずさりすると、背中にひんやりとした柱がぶつかる。

「マリネット、君も知っている通り、私の娘がジーク国王陛下の婚約者に内定したんだよ。まさか君が陛下の教育係とは思わなかったからちょうど良かったよ。君からも、ヴィアラを推薦して欲しいと思ってね」
「私の推薦など……何の力もございません。国王陛下がお決めになることですから」
「そうかそうか、なるほどね」

 フランツ様は少し考え込む。私はこの間にこの場を去ろうと、ペコリをお辞儀をする。しかし、私の背にある柱に手を付かれ、逃げ場をなくしてしまった。

「そういえば……私と君の間に過去何があったのか、もし広まったらマリネットも困るだろうね。ここはお互いに黙っておくのがよさそうだ」
「どういうことでしょう?」
「人の噂というのは、真実とは限らない。君も根も葉もない噂が立つのは都合が悪いよね。お互いに過去のことは水に流して、上手くやっていこうよ」
「私を脅してらっしゃるのですか? 私がフランツ様との婚約破棄のことを誰かに喋れば、根も葉もない変な噂を流して私をここから追い出すと。そう聞こえますが」
「いやいや! 何を言うんだ、マリネット」

 突然怖い表情をしたフランツ様は、私の後ろの柱に手を突いたまま、身をかがめて顔を近付ける。
 その近さに思わず私はひゅっと呼吸を止めた。

「私から婚約破棄を言い渡したような、誤解を招く言い方じゃないか。いいかな? 私とジュリアが結婚しようとしているところに、君が勝手に勘違いして押しかけてきたんだよね。僕たちの婚約の記録なんて、どこにも残ってないはずだよ」
「城に……残っているはずです……」
「じゃあ、探してみるといい。君はどうしたいの? ヴィアラが国王陛下の婚約者になることに不満がある?」
「何度も申し上げますが、国王陛下がお決めになることです。私に不満があろうとなかろうと、それはヴィアラ様にもフランツ様にも関係のないことです」

 フランツ様は安心したようにふっと笑い、私の顔の横についた手を柱から放した。肩の力が抜けると一緒に、私は静かに息を吐く。
 フランツ様が一方的に私に婚約破棄を言い渡したなんてことが広まってしまえば、ヴィアラ様も婚約者として不適格だとみなされかねない。それを心配して、フランツ様は私に釘を刺しに来たんだろう。ヴィアラ様を確実に婚約者に据えるために。

 私がフランツ様との一件のせいで男性恐怖症になったなんて知られたら、弱みを握られるようなものだ。絶対に知られたくない。早くここから立ち去りたい。

「マリネット」
「……はい」
「これからもよろしく頼むよ」

 にっこりと笑ったフランツ様は私の手を取り、手の甲にキスをする。私は思わずもう一度柱にもたれかかった。
 少し手を上げてお別れの合図をし、フランツ様はその場をあとにする。

(早く行って! こっちを振り返ったりしないでよ)

 酸欠からか、頭の上半分の感覚がなくなっていく。私はフランツ様が回廊の角を曲がったのを見届けた瞬間、その場で座り込んで意識を手放した。