あの日から、私はラルフ様を避けている。

――『俺は、マリネットのことが好きだ』


(ぎやおおうぅぅっ!)


 何なのよ、一体。
 知るか、貴方の気持ちなんて。
 私は、生涯おひとりさまで生きていくと決めている。そのために今のこの仕事に就いた。それに私はザカリー伯爵家の娘で、アイツは犬猿の仲であるヴェルナー侯爵家の嫡男。


(私のことが好きとか、本当に頭がどうにかしちゃってるんじゃないの?)


 ペンを持っていた手にぐぐっと力が入って、ペン先がボキッと折れた。


「マリネットせんせい、どうしたの?」
「ジーク様、申し訳ありません! ペン先が当たりませんでしたか? おケガはないですか?」
「うん、ないよ。ねえ先生、ぼくおそとに行きたい! ずっとお部屋の中ばっかりはつまらないよ」
「そうですね……でも、雨が降るといけませんし」
「こんなに晴れてるから大丈夫でしょ?」


 ジーク様がごねるのも仕方がない。ラルフ様から『好き』だとかいうトチ狂ったことを言われた翌日から、ずっと私たちは室内でのお勉強に勤しんでいるから。


(だって、外に出る時は護衛騎士としてラルフ様が付いてくるんだもの……)


 でも正直に言うと、あの日ラルフ様から言われたことは嬉しかった。私もラルフ様のことが好きとかそういうことじゃなくて、ラルフ様のとんでもない言動のおかげで、フランツ様のことで落ち込む暇がなくなったというところ。
 あの日そのまま一人で部屋に戻っていたら、今でも紋々とフランツ様のことで落ち込んでいたかもしれない。

 知らず知らずの間に、私はラルフ様にたくさん支えられていた。


(……だからと言って、私のおひとりさま老後を返上してラルフ様の気持ちに応えられるわけじゃないけど)

 どう考えても、私は彼の気持ちを受け入れられない。
 だって、もし彼のそんなことしたら……

 そもそも、目の上のたんこぶであるザカリー伯爵家の人間を、ヴェルナー侯爵家が受け入れる? それに、指一本触れることができない妻なんて、誰が欲しがるの? ラルフ様だって耐えられないんじゃない?


(やっぱり、絶対無理だわ)


 いつまでも彼を避け続けるわけにはいかないし、今日は思い切ってジーク様と外に出てみよう。私の本分はジーク様の教育なんだもの。私情を挟んで教育を疎かにしてはいけない。


「分かりました、ジーク様。それでは今日は、お城の周りをお散歩してみましょうか」
「ぼくねえ、馬に乗ってみたい!」
「馬ですか……」
「厩舎の方に行けば、多分だれかいるでしょ?」


 結局私は、ジーク様の天使のおねだりには勝てない。着替えを済ませ、ジーク様と私、コーラ様の三人は手をつないで厩舎の方に向かった。


「マリネット先生、ラルフとケンカしたの?」
「……ケンカ? してません……よ?」


 嘘はついていない。ケンカはしていないのだ、気まずいだけで。


「仲良くしてくださいっていったでしょ?」
「ジーク様。大人同士っていうのは、ちょっと難しい時があるのですよ」
「でも、お父様とお母様は仲良しだったんだって。ぼくも、ヴィアラと婚約したらいっぱい仲良く遊ぶんだよ」
「私とラルフ様は結婚していないので、そこまで仲良くはできないんです」
「じゃあ、結婚すればいいんだよ!」
「…………」


 ジーク様は目をキラキラさせて、私の手を引いて厩舎の方に走る。厩舎の少し手前、訓練場の目の前でジーク様は立ち止まり、私の方を見上げた。


「マリネット先生、あれは『うわき』っていうの?」


(……ん? うわき、浮気?!)


 ジーク様の視線の先を見ると、いつか見た事のあるような光景。訓練場の中には、ラルフ様とヒルデ様。柵の外にはロイド様が待機している。


(早速ラルフ様と会っちゃった……)


「ジーク様。あれは、ヒルデ様の剣の練習を、ラルフ様がお手伝いしているのですよ」
「ふうん」


 そんな説明をした私の前で、手合わせを終えたヒルデ様がラルフ様に駆け寄り、ラルフ様の腰に手を回す。


(何あれ、近っ!)


 ラルフ様はラルフ様でまんざらでもなさそうに、ニコニコしながらヒルデ様と見つめ合う。


「あら……マリネット、あれはいいの?」
「コーラ様、勘違いなさらないでください。私とラルフ様は別にそういう関係ではないですから」


 やっぱり男の人なんてみんなそうなのだ。私のことをあれだけ好きだ好きだと言ったくせに、私以外の人にもああやって接触するような人なのだ。
 しかもここにはジーク様もいるし、ロイド様だって二人を見守っている。人目のあるところでああして女性といちゃいちゃするなんて。


(最低……)


 昨日のラルフ様の言葉を思い出しながらむしゃくしゃしていると、私の目の前をロイド様が柵を飛び越えて二人の元に疾走して行く。
 目にも止まらぬ速さで駆け付けると、その勢いで思い切りラルフ様の頬を拳で殴りつけた。


(……!)

「えっ? な、殴った?!」


 私は思わずジーク様の目を隠す。コーラ様はジーク様の肩を抱き、私に目配せをした後、厩舎と反対側の方に連れて行ってくれた。

 ラルフ様は訓練場の地面に倒れ込み、口の端が切れて出血している。そしてそれを仁王立ちで睨みつけるロイド様、横には驚いた顔で見つめるヒルデ様。

 一体、今三人の間で、何があったの?

 鬼のような形相のまま肩で息をしていたロイド様が、ラルフ様に向かって叫ぶ。


「ラルフ! 気安くヒルデに触るな!」
「ロイド、待って! 殴るのはやり過ぎだわ。これは私が……」


 ラルフ様は地面に尻もちを付いたまま、口元の血を手の甲で拭う。


「前々から気に入らなかったんだ。お前は他の女性には見向きもせずに冷たくするくせに、なぜヒルデにだけそんな態度なんだ? いい加減にしろ!」


(うんうん、それは私も思ってた)


「ロイドには関係ない。お前はただの護衛騎士だろ。俺がヒルデと何をしようが、お前にどうこう言われる筋合いはない」


 淡々と言い返すラルフ様の言葉に、私は耳を疑った。


(ちょっと待ったぁあっ! 貴方、私のこと好きだって言ってなかった? 伝える相手を間違えたとか? そんなことある?!)


 目隠しをされて連れていかれたジーク様が遠くで、「うわき? うわき?」と叫ぶ声だけが響いている。


 そんな静寂の中で、ロイド様の拳から二発目が飛び出した。私が他の騎士を呼んで来ようとあたふたしていると、ロイド様が再び叫ぶ。


「ラルフ! お前なんかに、ヒルデは渡さない!」


(……へ?)


「僕がどういう気持ちでヒルデの護衛騎士を努めていると思ってるんだ! お前なんかよりもずっと前から、僕はヒルデだけを想っていた。ヒルデの護衛騎士になるために必死で努力してきた。お前なんかにヒルデは渡さない!」

 倒れたラルフ様の胸ぐらを掴み、ロイド様は彼の体を地面に放り投げる。


「ロイド! あなた、私のことを……?」
「……ヒルデ」


 抱き合うロイド様とヒルデ様のお二人、その横でゆっくりと立ち上がって服に付いた土をポンポンと払うラルフ様。
 顔を上げて私と目が合ったラルフ様は、挨拶代わりと言った感じで私に向けて軽く片手を上げる。

(何なの? 私は一体、何の茶番劇を見せられたの?)

 まるで下手な三文芝居を見ているかのような気持ちに包まれて、私は開いた口がふさがらなかった。気持ちを確かめ合って泣きながら抱き合っている熱々の二人をその場に残し、私はラルフ様を連れて傷の手当に向かった。