そのあとは、どうやってジーク様の部屋までたどり着いたのかよく覚えていない。シャドラン卿にサロンでお待ちいただくように告げたラルフ様が、泣いているヴィアラ様を抱っこした。そのまま私も連れて、その場をあとにしたような気がする。

 ロイド様にアテンドされたシャドラン卿と奥様が、チラチラとこちらに視線を送っていたけれど、見て見ぬふりをした。

 そして気付いたらいつものようにジーク様のお部屋の前に一人で立っていた。


「マリネット先生、ぼくの婚約者、決まったんだよ!」


 無邪気に報告をくれるジーク様に、私の目は泳ぐ。


「ジーク様、おめでとうございます。ヴィアラ・シャドラン様ですね。先ほどお会いしました」
「会ったの? 三歳なんだって。まだまだ赤ちゃんなんだよ」
「まあ、ジーク様。ヴィアラ様もこれからたくさんお勉強をされて、すぐにジーク様に追いつくかもしれませんよ。ジーク様も油断せずにがんばりましょう」
「ぼく、負けないもん! 見て、先生。ぼくが描いた絵、上手でしょ?」


 ジーク様が手にした絵は、男の子と女の子が結婚式をしている場面の絵。
 ヴィアラ・シャドラン様との結婚を、ジーク様なりに楽しみにしてらっしゃるのだ。ジーク様が選んだ方。私が何を言えるわけではない。それは分かっているけれど……


「マリネット先生、もしかして先生は、ヴィアラのことが嫌い?」


 私の浮かない表情を見て何かを察したのか、ジーク様が小さく遠慮がちに言う。


「えっ? そんなことはありませんよ。ジーク様のお選びになった方ですから」
「先生が嫌だったら、ぼくヴィアラにちゃんと注意するから。ここなおしてねって言えばいいんだよ」
「ジーク様。私はヴィアラ様はとっても可愛らしい御方だと思いました。もちろん、嫌いじゃありません。ジーク様がお幸せなら、それが一番大切なのですよ」


 私も以前は、シャドラン辺境伯に嫁いで幸せになりたいと思っていた。愛してると言われて嬉しくて、死ぬまで添い遂げようと思っていた。
 私の願いは叶わなかったけれど、男女の仲が全て私と同じような結末にはならないと知っている。ジーク様には必ず幸せが待っているはずだ。ジーク様が選んだ道なのであれば、私は心から応援しなければいけない。

 ジーク様と一緒にその日の学習課題を終えて外に出ると、昼間の雨が嘘のように晴れていた。これなら夕日が見えるかもしれない。使用人棟の階段から夕日を眺めようか、それとも庭園から見ようか。

 少し迷ったけれど、私はそのまま庭園に向かった。
 以前にラルフ様と手を繋いだ、庭園のベンチに座る。夕日が、あたり一面を茜色に染めていた。

 頭の中が大混乱だ。夕日を見ながら、少し整理してから部屋に戻ろう。


「シャドラン卿……フランツ様」


 ヴィアラ様の月齢を考えると、フランツ様が私に婚約破棄を言い渡したあの時、ジュリア様のお腹にいたのがヴィアラ様だろう。
 その子がまさかジーク様の婚約者に内定するだなんて。

 フリードル公爵家とシャドラン辺境伯のご令嬢ならば、身分的にも申し分ない方だということは、頭では分かっている。
 でも、もしこれからヴィアラ様が頻繁に王城にいらしてジーク様と交流するようになったら……? 私がフランツ様やジュリア様と顔を合わせることも増えるはずだ。そうなったら、多分私はまともに立っていることすらできないだろう。

 今日はラルフ様がたまたま私の前に立っていたから、直接彼らの顔を見ずに済んだけれど。


(……あれ? もしかしてラルフ様、私が彼らと顔を合わせないようにしてた?)


 ヒルデ様がこちらに向かって歩いて来ているのに、わざわざ私を別の場所に連れて行こうとしたこと。ヴィアラ様に駆け寄ろうとした私を止めたこと。視界を遮るように私の目の前に立ったこと。

 何だか色々と辻褄が合うような気がしてきた。

 そろそろ日が山の稜線に沈もうかという時、ベンチの反対側に、何も言わずに男性が座った。


「……ラルフ様」
「…………」
「もしかして、色々ご存知だったんですか?」
「…………」
「どこでお知りになったんです?」
「……君がシャドラン卿からプロポーズを受けた日、たまたまその場に居合わせた」
「っ!」
「ザカリー家はヴェルナー家にとって目の上のたんこぶのようなやかましい存在だったから……祖父母が君の婚約破棄の話をどこからか仕入れてきて、面倒なザカリー家の噂話として家の中で語ってたよ」
「……ということは、私が教育係として王城に上がった当初から、ご存知だったということですか?」
「知っていた」


(――やっぱり、初めから知っていたのね?)


 私がフランツ様と婚約し、結婚直前でその婚約を破棄され、男性恐怖症になって引きこもっていたこと。ラルフ様は全て知っていた。
 だから今日、フランツ様の娘がジーク様の婚約者に内定したことを知って、私がフランツ様と顔を合わせないように必死で私を探していたんだ。

 いつも私に冷たく当たるくせに、どうして今回は私を守ってくれたんだろう。ラルフ様の方に目をやると、彼はベンチの端っこに私に背中を向けて座っていた。


「もう一つ聞いてもいいですか?」
「ああ」
「私が男性のことを苦手だと知っていながら、なぜ私と手を繋いだりしたのですか? それに、昨日の夜のアレは一体……?」
「アレ?」
「……アレはアレですよ! もう何だか無理矢理にっ! ハンカチぐいっと上げてブチュってしたじゃないですか!」


 私が立ち上がって騒ぐと、ラルフ様は突然思い切りむせて咳き込む。


「ぐいっと上げてブ……」
「ですです! それです! 何でなの!」
「……った」
「は?」
「昨日、理由はちゃんと伝えた」
「嘘でしょ? 私、聞いてません。ジーク様にケンカしているところを見せたくないという気持ちは分かりますよ。でも、ジーク様のいないところでわざわざあんな……唇部接触事故まで起こさなくてもいいんじゃないですか?」
「……好きなんだよ!」


 ラルフ様はその場で立ち上がってこちらに振り向いた。咳き込んで赤くなった顔を隠すように、腕を口元まで上げている。


「好き? 大人の女性が好きだっていう話でしょ?」
「……俺は、マリネットのことが好きだ」


 ――はい?!


「多分、初めて君を見かけた時から好きだったんだと思う。君の芯の強さに惹かれたし、そんな君がなぜあんな男のために辛い思いをしなければならないのかと悔しかった。だから、君の弱いところは守りたい。克服するためならいくらでも助けたい」

 まくしたてるように恥ずかしい言葉を並べ立てるラルフ様の勢いに、私は頭の中が真っ白になる。
 じゃあ、どうして私に対して厳しく当たったの? どうしてヒルデ様に向ける笑顔は私に向けてくれないの? 色んな疑問が真っ白になった頭の中を駆け抜ける。


(でも……)


 シャドラン卿と顔を合わせないように守ってくれたこと、ジーク様の教育について私の意見に歩み寄ってくれたこと、倒れた私を何度も助けてくれたこと。彼の気持ちに思い当たる節もいくつかあって、頭が爆発してしまいそうだ。

 そして自分の頭の中で情報を処理しきれなくなった私が、ようやく吐き出した言葉は、


「えっと、とりあえずラルフ様が変態じゃなくて良かったです」

 彼の気持ちに応えるでもなく、否定するでもなく。
 私ったら一体、何を言ってるの?