ジーク国王陛下の婚約者が内定したとの報せを受けたのは、お昼過ぎのことだった。午前中のジーク様とのお勉強を終え、昼食と午睡の間の短い休憩時間。使用人用の食堂兼休憩室のフロアは、その話題で持ちきりだった。

(ああ、神様。ジーク様が幸せになれるお相手でありますように……)

 私は天を仰いで祈りを捧げる。

「マリネット、ちょっと大げさじゃない?」
「そうですか? ジーク様をちゃんとお支えしてくれるような素敵なご令嬢だったらいいなって思っただけなんですけど……」
「でも、もう決まっていることなのに、今更神に祈ってもねえ」

 周りにいたコーラさんや侍女の皆さんたちが、私を見てクスクスと笑う。いやいや、よく考えて欲しい。呑気に笑っている場合ではない。

 たった五歳で生涯の伴侶を決められるのだ。これから何十年も一緒にいて、支え合う相手。病める時も健やかなる時も、ケンカをしても仲の良い日でも、いつだって共にいることになるご令嬢。
 ラルフ様みたいに頭が固くて忠誠心が強い人は、「教養! 品性! 王妃としての資質!」なんて叫び出しそうだけど、私が婚約者のご令嬢に求めるものはちょっと違う。
 ジーク様の臣下としてというよりも、ジーク様という五歳の少年の心の支えになるような、優しくてしっかりしたお相手だったらいいなと思う。

 十六歳の頃にシャドラン辺境伯から婚約破棄を言い渡された私でさえ、これだけ傷ついたのだ。五歳の子供が裏切られるようなことがあっては、一生の傷を負うだろう。

 もう、ジーク様が心配でならない。

 誠実で素直で、できれば地味でモテない感じのご令嬢に決まりますように。もう、いざとなったら最悪イリスでもいいです。もしイリスが選ばれたのなら、私がずっとイリスが変なことしたり弾丸トークしないように見張っておきますので、何とかしてください神様。

 その時、突然後ろから侍女のリズが私の肩にポンと手を置いた。


「わっ! リズ、どうしたの?」
「ねえ、マリネット。ほら、貴女の愛しい君がいらっしゃたわよ」


 リズの視線の先を追うと、もちろんそこにはラルフ様がいた。
 キョロキョロと青ざめた顔で誰かを探している。


(昨日の今日で、あまりにも気まずいわ。逃げようっと)


「ちょっとマリネット。ラルフ様を見て顔を真っ赤にするなんて、よっぽど好きなのね。大丈夫よ、応援してるから」
「やめて! 応援しなくていいの。本当に違うんだから。もう行くわね。あまりあの方と顔を合わせたくないのよ」


 私は身をかがめて、ラルフ様が入ってきたのとは別の扉からそっと外に出た。

 天気はあいにくの雨。
 ジーク様の元に戻るのに、いつもは中庭を突っ切っていくのだけど、今日は屋根のある回廊沿いにぐるっと回っていくしかない。雨のせいか、回廊は薄暗くて視界も曇っている。


(ラルフ様はあんなに焦って、一体誰を探していたのかしら……)


 ふと気付くと、いつもラルフ様のことばかり思い出してしまっている自分がいる。昨晩のハンカチ越しの感触まで鮮明に思い出してしまって、私はその場で目をひん剥いて立ち止まった。

(無理無理! 無理! アイツのこと思い出すだけで、なんか変な顔になっちゃうの!)


 両手でバチバチと頬を叩き、一度大きく息を吐いて呼吸を整える。一層強くなった雨の中、私はもう一度回廊を歩き始めた。

 コの字型に曲がった回廊の向こうの角から、何人かの人たちがこちらにやって来た。先頭を歩く美しい金の長い髪の女性はきっと、ヒルデ様だ。護衛のロイド様やクライン閣下もいて、その後ろに何人かが付いて歩いている。
 小さな女の子がニコニコしながら父親らしき人と手を繋いで歩いているのが見えた。


(あ、もしかして……ジーク様の婚約者に内定した方では?)


 ご夫婦らしき人と小さなご令嬢は、ヒルデ様やクライン閣下にご挨拶に見えたのだろう。まさかこんなところで鉢合わせしてしまうとは。
 私は急いで回廊の端に寄り、頭を下げてお迎えする準備をした。



「マリネット……!」

 その時私を背後から呼んだのは、青い顔をして息を切らせたラルフ様だった。


「ラルフ様、どうされました? ヒルデ様がいらっしゃるので、少し端に寄ってください」


 彼とは顔を合わせないようにしつつ、回廊の端に寄るように促す。よりによってこんな面倒くさいタイミングでラルフ様が現れるなんて。もしヒルデ様たちがいらっしゃらなければ、全速力で走って逃げているところだ。


「違う、端に寄るんじゃなくて、ちょっと来てくれ」
「ラルフ様、今は行けません。ヒルデ様がここを通られます」
「いいんだ、とにかくこっちへ」


 私の腕を掴もうと、手を伸ばすラルフ様。
 その手に驚いて、思い切り腕を引いた私。

 そんなことをしている間に、目の前にヒルデ様たちが歩いて来た。私たちはその場で急いでお辞儀をする。
 ご一行はそのまま通り過ぎるかと思いきや、女の子が私の目の前で雨に濡れた床に滑って転んでしまった。近くで見ると、まだ三歳くらいの幼いご令嬢だった。

「大丈夫ですか?」

 私が駆け寄ろうとすると、ラルフ様が私の姿を隠すように前に出て女の子に手を差し出した。一瞬何が起こったのか分からずにキョトンとしていたその子も、自分が転んだことに気付くと、大声で泣き始めてしまった。

「ヴィアラ、立ちなさい。転んだくらいで泣いてはいけない!」
「ほら、静かにして。皆さまの前で失礼ですよ」

 ラルフ様に隠れて見えないけど、ヒルデ様の前だからかご両親は相当慌てている。そんなに慌てなくても、こんな小さな子供が泣いたくらいで婚約解消されるわけでもないのに。
 ヒルデ様もヴィアラ嬢の方を向いて優しく微笑み、ご両親に向けて言った。

「まだお小さいのですから泣くのは当然ですよ。念のため侍医に診てもらいましょう」
「恐れ入ります。ただ転んだだけですので……」
「未来の王妃候補にケガをさせたなんて知られたら嫌だもの。ちょうどいいわ、マリネット。シャドラン卿を侍医のところにお連れしてくれる?」

 ヒルデ様が、ラルフ様の後ろにいる私に声をかけた。私はヒルデ様の発した名前を聞いて言葉を失った。


(――シャドラン卿、ですって?)