妙な状況になってしまった。
 手を繋ぐ練習に続き、今度は二人でダンスをせよとのご命令だ。
 いつの間にかその場からコーラさんは姿を消していて、バタバタと夜会の準備に走り回る使用人たちの真ん中で、私とラルフ様だけがポツンと取り残されていた。

 フロアの後方では宮廷楽団がチューニングを始め、A(アー)の音が体の芯にじんわりと響く。

(さあ踊ってくださいと、お膳立てされてるような気持ちになるわ)

 なんてね。
 いくら踊りたくても、さすがに私にダンスはできない。
 ホールドを組んで踊るのと手を繋ぐだけなのとでは、わけが違うのだから。

 楽団のチューニングに耳を澄ませていたラルフ様が、広間から庭園に続くバルコニーへ引き寄せられるようにふっと足を踏み出した。

――こっちだ、マリネット。

 そう呼びかけられた気がして、私もラルフ様を追いかけて庭園へ続くバルコニーへ。

「……ここは?」
「広間から死角になってる。音楽は聴こえるから……」

(聴こえるから、何? ここで踊ろうっていうこと?)

 私は黙り込み、視線をさまよわせる。
 ラルフ様は私の前に立った。息遣いや、体の熱が伝わってくるほどの近い距離。体の前面から伝わる熱が、私の顔まで届いて火照らせる。

「……ごめんなさい。私、できない。踊れません」
「大丈夫だ」

 小さくそう言ったかと思うと、ラルフ様の両手が私の両頬をかすめた。私はうっと息を飲む。
 瞬間、私の視界が真っ暗になった。目隠しをされたのだと気付くまで数秒。

「ラルフ様、これは? ハンカチで目隠しを?!」
「この前だって、手袋があれば大丈夫だった。今回だってこうすれば絶対に大丈夫だ」
「そんな……大丈夫だっていう根拠がありません」
「大丈夫じゃないっていう根拠だって存在しないじゃないか」
屁理屈(へりくつ)です」

(相変わらず口調は厳しいのに、なぜこの人はこうして私の近くに来ようとするの? ザカリーの人間なんて放っておけばいいじゃない。嫌いな人間と関わってまでジーク様への忠誠心を示したい理由は何?)

 目隠しを外そうと両手を上げた私の手首を、ラルフ様の手袋をした手が掴む。

「ひえっ」
「君は強い。他人の不誠実な振る舞いのせいで、君が負わなければならないものなんて一つもないんだ」
「不誠実な振る舞いって……どういうことですか?」
「……」
「もしかしてラルフ様は、私に過去何があったのかご存知なの?」

 フランツ様との婚約破棄のあと、私は社交界には顔を出していない。一度だけ試しに夜会に参加してみたことはあるけれど、その時だって顔を隠し、身分を隠して参加した。
 夜会に参加したことを知っているのは両親と祖父母だけだし、その場で倒れてしまった時もすぐに控室に運ばれて、私の身分に気付いた人はいなかったはずだ。

「ラルフ様、お答えくださ……」
――と言い終わる前に。

 掴まれていた右手首をぐいっと引かれ、ラルフ様の体にドンとぶつかる。慌てて身を離そうとすると、背中に手を添えて抱き寄せられた。

「ちょっと! 離してください!」
「左手は、俺の肩の上に。ほら、音楽が始まる」
「っ!」

 広間からオーケストラの演奏が静かに流れてきて、ラルフ様が一歩ステップを踏み出した。その勢いで私も同じ方向にステップ、そしてターン。
 私の目を覆うハンカチの向こうにはきっとラルフ様の顔。右の耳元に時々、彼の息遣いがほんのりと灯る。
 ターンする時に一瞬ラルフ様から体が離れ、その瞬間に呼吸することを思い出す。目隠しをしている私が方向を見失う前に、再び体が引き寄せられ、私ははっと息を止める。ゆっくりとしたメロディーにのせて、それが何度も波のように繰り返された。

 視界が遮断されたまま音楽にのせてゆらゆらと揺れていると、まるで大きな船に乗っているようだ。目隠しの向こうに時々明るい光を感じると、自分が満月の光に照らされている感覚に包まれる。

(見えないけれど、きっと月が美しいのね)

 いつの間にか私は、静かな波の上に浮かぶ大きな船に守られて、月の光に包まれて。ラルフ様の体温の中、今までにない感じたことのないほどの安心感で心が満たされていた。