抹茶のクッキーをかじったときのような、あの控えめで優しい香りは、陽菜(ひな)にとっては、蒸しかえる5月のにおいと結びついていた。というのも、陽菜が通っているこの高校は街からはずれたところにあり、畑に囲まれたのどかな学校で、この時期から夏にかけて、教室にいても窓から草と土の香りがするほどの場所にあった。そんな立地に反して、有名な音楽科の高校で、全国でも1、2を争うトップレベルの音楽エリート校と言われていた。

 「はあ……」後咲陽菜(こうさきひな)は練習室に貼りつけられた半身鏡をぼーっと見ながら、ため息をついた。そこにはありがちな黒髪ショートで平凡中の平凡、悩ましいニキビ顔の少女が突っ立っている。制服はロッテンマイヤー先生の言う通り、スカート丈、ボタンやくつ下の色全て規定通りに着こなされている。ロッテンマイヤー先生は音楽史の先生で、担任の先生だった。アルプスの少女ハイジに出てくる登場人物のロッテンマイヤーにそっくりだったためそう呼ばれていた。

 陽菜は自分の平凡かそれ以下の容姿のことなど悩みではなかった。もう3年生。受験を控えていた。金曜日。そう、金曜日だった。のどがチリチリする。胸がドロドロしたもので支配されている。世界が灰色に見える。金曜日は高校の科目のひとつ、音楽の個人レッスンの日だった。陽菜は声楽を専攻していた。声楽とは、クラシック音楽の歌全般のことを指す。オペラとか、歌曲とかのことだ。

 初めてこの高校に来た時、ピリピリとした雰囲気を感じ取っていた。入学式では、
 「みなさんには、できるだけ多くの人に、国公立やレベルの高い音大に入って頂きたい。そして世界にはばたく人材を育成したいと思います」と校長先生がスピーチで言っていた。めでたく合格し希望でいっぱいの新入生にとっては背中を押す言葉であったが、最下位に近い点数で入学してきた陽菜にとっては、怖くて苦しいものでしかなかった。



 「あんた、歌なめとんのか?」声楽の先生はただならぬ迫力で陽菜にそう言った。
「頭が悪いから私の言うことが理解できない」「今の子供はみんなそう。一回言ったことは二度と言わせるな」レッスンで先生に言われた数々の言葉が、頭のまわりを蜂のようにブンブン飛んでいた。

 陽菜は自分がうまく歌えないこと、先生が厳しすぎることに悩んでいた。相談できる友達がいないことについても。陽菜はいつもひとりだった。この高校では実力がない人はみじめだった。

 屋上の室外機の裏のスペース。そこは一人でも誰にも見られない大事なスペースだった。
逃げたいとか、死にたいとか、色々考えているうちに、涙が溢れ出してくる。そのまま空を仰ぎ見る。空は、青の中の青に、牛乳をこぼした雲をちりぢりに纏っている。空は、自由でそこにあるだけである。

 「え……!わっごめん!だ、大丈夫?」目が合った。タイミングが悪かった。そこにいたのは同じクラスの奏瀬翔(かなせ しょう)だった。ピアノ専攻で、ピアノがうまくて、女子にモテて、鼻持ちならない男の子だった。何の台かわからないが、寝転がれるほどの大きさの出っ張りがあり、そこで昼寝していたようだ。1人になれる場所だと思っていたのに、そこからは見えるなんて……盲点だった。

 奏瀬翔はジャンプで台から降り、陽菜のそばに容赦なく近づいてくる。
 「大丈夫?」陽菜は、黙って頷く。


 「そっかー。声楽の先生が厳しいのかー」
2人は室外機の横に座り込み、空を眺めていた。
「そうだなぁ。そういうことはロッテンマイヤーに相談したら?俺が言ってあげようか?」
陽菜は首をぶんぶん横に振る。
「ふう……」と息をつき、奏瀬翔は立ち上がった。

「甘いもの、食べに行こ」


 せっかく抹茶で有名なカフェ、囲炉裏茶屋に来たというのに、奏瀬翔が注文したのは“平成のクリームソーダ”だった。じつは陽菜は抹茶が大好きで、学校の近くのこのカフェに行くのが夢だった。
「あのぅ……奏瀬……くんは、抹茶たべないんですか?」陽菜は気まずい空気に耐えられず、尋ねた。
「おー。俺抹茶苦手なんだよね!後咲、同級生なんだからタメ口でいいよ。あと、奏瀬、ってなんか変な感じ。翔でいいよ。ほら!翔!呼んでみて」
「……しょ…翔……くん」
翔くんとの時間は本当に楽しかった。悩みのことには触れず、とにかく笑わせてくれる。話してみると、見た目ほどチャラチャラしているわけではなかった。明るくて優しいところが、多くの女子に好かれる人なのだと感じた。

 お会計のとき、レジに置いてあった、四つ葉のクローバーの栞を見て、
「あ、これ買います」と翔は言った。

 翔は買った栞を陽菜に渡す。
「え?」
「後咲陽菜。後に咲く。遅咲きだ。陽は太陽。菜は幸運のクローバー。きっと歌も、先生のことも、上手くいくよ」翔は言った。
「そんなわけないよ……」陽菜がそう答えると、
「陽菜は自分が思ってるよりずっと素敵だよ。それにかわいいもんな。陽菜はかわいいよ」と翔は言った。まあ~個人的には髪の長い子が好きだけど、と付け加えた。
「え……」困っている陽菜を見て、鐘は優しく笑うのだった。


 夏休みが終わり、学校が始まって半月経った。陽菜は翔のことがずっと気になっていた。メールを交換したにも関わらず、何も送れずにいた。陽菜は晩ご飯の前、部屋のベッドで考えていた。何かきっかけがあれば……話を聞いてもらったお礼?でもカフェのお礼がご飯だったら変だよね……うーん……陽菜は結局何もできず悩んでいた。
 その時だった。翔からのメールが来た。
《涼しくなってきたね 明日放課後散歩でも行かない?》メッセージを見て陽菜はドキドキして、
《行く》とメールを送るのに20分もかかってしまった。明日の天気は曇りのち晴れだ。陽菜はその夜なかなか眠れなかった。

 こんなことがあるのだろうか。天気予報が外れた。朝から大雨で、風も吹いている。陽菜は朝の練習で1時間早く学校に来ていた。
《おはよう。今日、雨降っちゃったね》と翔にメールを送る。すぐに返信が来る。
《おはよ!散歩は濡れるから、ファミレスかどっかで喋ろ!(笑)》陽菜はそれを見てくすっと笑った。

 しかし1限の時間になっても、翔は来なかった。授業が始まったら携帯の電源は切らないといけないルールで、メールが送れなかった。3限になっても、翔は来なかった。
 音楽史の時間、ロッテンマイヤー先生が
「今日は自習です」と言い足早に職員室へと戻っていく。教室はざわついている。
 チャイムが鳴るとともに、全校生徒が校内放送で講堂に呼び出された。校長先生は言った。
「皆さん落ち着いてください。奏瀬くんが……亡くなりました」翔は今朝、雨で視界を遮られたバイクと衝突し、緊急搬送されたが命を落としていた。

 ざわめきは大きくなり、すすり泣きが聞こえてくる。陽菜は表情を変えずに、その音を聞いていた。その後事務的なアナウンスが校長先生から続けられるも、陽菜の耳には、全く入ってこなかった。



 気づけば大学2年生になっていた。あの悲しい出来事から、月日はあっというまに通り抜けた。いつだって陽菜は翔のことを忘れなかった。四つ葉の栞はいつも身に着けていた。陽菜は驚くべきほどの集中力を発揮し、難関大の音楽科に合格した。新しい生活。新しい友人。大学で出会った新しい先生はとてもよい先生で、陽菜の歌の成績を平均点にまで引き上げることに成功した。

「陽菜ももう2年生だね!あっというまに先輩組の仲間入り♪」そう言ったのは綺華美玲(きばなみれい)先輩だった。美玲先輩は何かと面倒を見てくれる、大学院の先輩だった。ソプラノという高い声を歌うタイプで、その中でもコロラトゥーラという超絶技巧を歌える先輩だった。陽菜もソプラノだったがコロラトゥーラは歌えなかった。名前の通りとても美人で背の高い先輩だった。その先輩のおかげで、陽菜もあか抜けたし、長く伸ばした髪にワンピースがとても映える女子大生そのものだった。

陽菜と美玲は学生食堂へやってきた。この時間テーブルの込み具合はまばらで、このすいている時間に早めのランチをとろうというところだった。
「あ!冬真だ!やっほー!」陽菜は冬真がいるテーブルに一目散にかけて行き、隣に座った。
「おはようございます」と答えた黒檀冬真(こくたんとうま)は今年4年生の同じ門下の先輩だった。バリトンという低くて深い声の持ち主で、物静かな印象だった。固めの黒髪に、涼しい目、高い鼻にしっかりした骨格、がっちりとした男の先輩だった。冬真先輩はそのときコピーした楽譜のページをテープでつなぎ合わせて製本をしていた。
「こんにちは、冬真先輩」陽菜が追いかけて迎えの席に座る。
「お疲れ」冬真は答える。

そして陽菜は名物のから揚げマヨ丼、通称からマヨ丼を注文してトレーにのせて戻ってくる。美玲は家から持ってきたスープジャーをカバンから出す。
「美玲先輩、それなんですか?」陽菜は尋ねる。
「オートミールだよ!とっても体にいいの♪お湯で戻してお米代わりに食べてるよ。今日は豆乳スープ♡おすすめだよ!」と美玲は言った。
「なるほど!でもお米食べないとダメそうです。お米いっぱい送ってきたので」と陽菜が答える。
「今年から下宿してるんだよね!どう?大丈夫そう?」美玲が陽菜に聞くと、
「はい。大丈夫です。でも音大の楽器可のアパート初めてで。どうやら上の部屋の人がピアノの人みたいで、音出し可能な10時から8時までずーっと弾いてるのが聞こえてくるんです。なんかすごいなって」陽菜が答えた。
陽菜の実家はは大学から近いとも遠いとも言えないところにあった。1年通ってみたが往復4時間かかるため今年から下宿することにしたのだった。

すると冬真が立ち上がって何処かへ行こうとする。
「どこ行くの~?」美玲が冬真に尋ねると、
「コーヒー牛乳……」と冬真が言う。どうやらコーヒー牛乳を買ってくるらしかった。

「あ、陽菜、来週朝の学内コンサートで歌うから是非聞きに来て♡」と美玲が手作りのチラシをカバンから出して渡す。
「わかりました」と陽菜が答えた。


朝の学生コンサートの日になった。陽菜は学内にある、学生会館という、小さいコンサートをよくやっている会場へやってきた。学生会館では毎週火曜日に、学生による15分のミニコンサートが行われた。
美玲はこのコンサートで、ジュリエットのアリアを歌うと言っていた。ロミオとジュリエットのオペラの有名な曲だ。
マーメイドドレスを着た美玲が登場した。
すると1人のピアニストが登場し、陽菜は心が平静ではいられなくなった。

「(翔……くん……)」陽菜はどうして?という顔で客席から眺めていた。
翔君だった。そこに大人になった翔君がいた。

背が伸びて大人になった翔くん。彼はピアニストらしい紺色のスーツを着こなして、さっそうと現れた。

演奏が始まった。美玲のテクニカルな歌に、華やかな伴奏をするそのピアニストは、翔そのものだった。



コンサートが終わり、陽菜は美玲とピアニストに挨拶をしにロビーに行く。陽菜は戸惑いを隠せないでいた。
「陽菜~!今日は聞きに来てくれてありがと」美玲は言った。
「あ~この子が陽菜ちゃん?初めまして、“ショウ”です」と一緒にいたピアニストが言った。やっぱり翔くんだ!すると“ショウ”は続けて、
「貴上鐘(たかがみしょう)!よろしく」と鐘は言った。え?タカガミ……
ぽかーんとしている陽菜。
「鐘は私と同じ、大学院1年生だよ」と美玲は言った。

すると急に陽菜は顔を真っ赤にしてすべてを悟った。翔君じゃない。“ショウ”という名前で、すごく翔君にそっくりな先輩だ!こんなことがあるの??

「よ、よろしくお願いします」陽菜は答える。
「顔赤い?ここそんなに暑い……?」と鐘は言った。
「あ、だ、大丈夫です」陽菜はしどろもどろになった。
「もー!鐘がイケメンだから、陽菜恥ずかしがってるんでしょ!」と美玲が言った。
「え……」陽菜が困っていると、
「ああ~それはごめんなぁ。ってうそうそ。こんなかわいい子からかっちゃだめだよ、美玲」
「か、かわ、かわいい??」陽菜はさらに困る。
「ね~鐘!あたしは??」と美玲がたたみかかる。
「美玲もかわいいよ!」と鐘は答えた。



「え、じゃあ鐘もローゼンハイツなんだ。何号室?」すでに普段のハリウッドセレブ風ワンピに着替え終わった美玲は、鐘に尋ねた。
ほかの大学から入学した鐘も、下宿を始め、驚いたことに、陽菜と同じローゼンハイツに下宿していた。

朝のコンサート後の打ち上げランチになぜか呼ばれた陽菜と冬真、そして美玲と鐘は、大学の裏にあるイタリアンレストランに来ていた。
「3階だよ。303号室」とモードな普段着に着替えた鐘が答えた。
「え!陽菜の真上じゃん!陽菜が言ってた朝から晩までピアノ弾いてる人って、鐘だったんだ」と美玲は言った。
「えー、びっくりです。でもお会いできて嬉しいです」陽菜は言った。
「ね、今度みんなで陽菜の部屋行こうよ!パーティーしよ!」と美玲が言う。
「今もパーティーみたいなもんですけどね」冬真がボソッと言った。
「いいですね。パーティーしたいです」陽菜は言った。
「鐘も来るよね!」美玲が鐘にうきうきした視線を投げかける。
「うん!ご飯は持ち込みにする?何がいいかな」と鐘は誘いに乗った。
「たこ焼き……」冬真がまた低い声で言う。

そうして週末に陽菜の部屋でたこ焼きパーティーをすることにしたのだった。



たこ焼きパーティーまでの一週間、陽菜はうきうきしていた。自分の部屋に先輩たちをお迎えするために、部屋の片づけを念入りにして、たこ焼きやほかのおつまみはどうしようか考えたりした。そういうときほど、陽菜は勉強に集中することができた。練習しているときにもう一人の歌がうまい自分がいるみたいに、ここはこうしたらいい、ここはこう練習したらいいと、アイデアがどんどん浮かんでくるのだった。そして今週のレッスンでは先生に褒めてもらえた。
その夜、陽菜は自分の部屋でレッスンのときに言われたことをノートにまとめていた。すると携帯が光ってメッセージが送られてくる。
陽菜は手を止めてそのメッセージを確認した。それは新しく作られた、冬真、鐘、陽菜の3人のトークルームだった。
“お疲れ様です”それは冬真からのメッセージだった。
“お疲れ様です”陽菜は返信した。
“おつかれ!どうしたの?”鐘からも早い返信がある。どうやらこの時間帯は音大生にとって連絡が付きやすいようだ。冬真は経験則でこのことを知っていた。
“20日、美玲先輩の誕生日なんですけど”と、冬真。
“え!たこ焼きの次の日じゃないですか!”
“うん。それで”と冬真が言いかけたところで、
“サプライズ仕掛けるしかないな、これは”と鐘が返信した。

こうして3人は美玲の誕生日サプライズをすることに決めた。



「美玲先輩おめでとうございます!!」美玲が陽菜の部屋のドアを開けると、陽菜のその一声とともにクラッカーのはじける音が聞こえた。
「美玲、おめでとう!」
「おめでとうございます」美玲より早めに陽菜の部屋に来た鐘と冬真も続いた。
「わあー!ありがとう♡」美玲は言った。

「あたし鐘の横いく~!」と美玲は鐘の横に座りに行き、みんなからプレゼントを受け取る。
美玲へのプレゼントは、陽菜からはハンドクリーム、鐘からはおしゃれなスムージーのセット、冬真からは今流行のオーガニックカフェ“ラ・ラ・ラカフェ”のギフトカードで、冬真のプレゼントは陽菜のアドバイスによるものだった。
そして冬真が持ってきた中ぶりのたこ焼き機をテーブルの真ん中に置き、陽菜が作ったサラダもその横に置かれる。
「陽菜ちゃん、俺が持ってきたやつもね~」という鐘に、
「はい!」と陽菜は返事し、上手に仕上がっているグリルチキンとポテトサラダを並べる。料理が上手なんだ。
「すごーい♡」美玲が言った。そしてお酒を各自注いでいく。美玲が鐘に話しかけ、陽菜がそこに相槌を打ち、冬真が器用にたこ焼きを作っていく。

「(翔くんとももっとこんな時間を過ごしたかったな)」ふと陽菜の心にこんな考えが浮かぶ。顔が曇る陽菜。それを鐘は見逃さなかった。
「陽菜、下宿生活はどう?ホームシックになっていない?」鐘は言った。
「え?あ、大丈夫です!楽しいです」
「そう?それならよかった。なんでも相談しなよ?美玲がいるから大丈夫だろうけど」そう鐘が言うと、
「なになに!?鐘が陽菜に内緒話?」と美玲が割り込んでくる。

楽しい時間が過ぎていった。



鐘がなくなった飲み物を買いに行くと席を立ったのは、宴会も中盤を過ぎてからだった。
「適当に買ってくるけど、なんかリクエストある?」と鐘が言うと、
「鐘一人で行くの?それならあたしも一緒に行く♪かわいい美玲とイケメンの鐘とふたりきりでね!」と美玲が言う。
別に止める理由もなく、冬真と陽菜は買い出しを美玲と鐘に任せるのだった。

急に静かになった陽菜の部屋で、冬真と陽菜は食器を片付けたり、お皿の端に残った料理をまとめたりしていたが、それも終わり、よもやま話をしていた。美玲先輩の話になり、
「しかし強引だよな」と冬真は言った。勘のいい陽菜は、美玲先輩が鐘に猛アタックしていることについてだと、すぐにわかった。
「でも、そういうところが美玲先輩の素敵なところですよね」陽菜は答える。
「あの人が笑うと、どうすればいいかわからなくなる。あの人は……俺を見ていないしな」陽菜は冬真が美玲のことを愛していることがわかり、驚いた。
「じゃ、じゃあ2人で行かせたらダメだったんじゃないですか」陽菜が言うと、冬真は微笑み、「俺、美玲先輩が幸せなら、それでいいから」と言った。

鐘と美玲先輩はずいぶんと長く買い物をしていたようだった。美玲先輩は飲んでいないのにやたらテンションが高く、遅くまでパーティーは繰り広げられた。


春は遊び倒した陽菜たちであったが、
しだいに勉強の方が忙しくなってきた。

陽菜は前期の実技試験に向けて邁進してきた。そんな中、美玲の存在は大きかった。

美玲は美玲で、大学院の授業に追われ、大学院オペラに追われる日々だったが、陽菜に発声の仕方や、練習の仕方についてアドバイスをくれたり、レッスンを聴講して様子を見に来てくれたりもした。

そして夏の半ばの日、陽菜は実技試験の成績を貰いに行った。おみくじのような紙に書いてあった点数は……平均点だった。

陽菜は少し気落ちして先生のいるレッスン室へコメントをもらいに行った。
申し訳なさそうにしている陽菜に、
「陽菜。全然問題ない。順調よ。
あなたがここに来たとき、暗い何かをまとって、重い雰囲気が漂っていた。そしてそのことが歌にも悪い影響を与えていた。でも陽菜、あなたは変わったわね。
全日本コンクールを受けなさい。ドイツリートの部門がいいと思う。あなたの知的な所、複雑な所、私は買っているわ」と先生は言った。そして、
「伴奏者は院生レベルがいい。貴上くんに私から声をかけておくわ」と先生は言った。
「ありがとうございます!」その一言しか言えなかったが、陽菜は、この先生に出会えなかったらどうなっていただろうかと思った。

陽菜は鐘の名前が出て、戸惑いを隠せなかった。門下の人たちは鐘に伴奏をお願いすることが多くなっていたとはいえ、学部2年生の陽菜がコンクールで弾いてもらうなんて思いもよらなかった。
それだけではない、かつて好きだった翔の生き写しの鐘と一緒に音楽ができる。陽菜は運命を感じられずにはいられなかった。



その日の夜、陽菜は鐘にメッセージを送った。

“お疲れ様です。先生から聞いておられるかもしれませんが、全日本コンクールを受けることになりました。
地区大会は10月20日、リリーホールです。もし全国大会行けたら、そのときは11月13日、東京です。ご都合いかがでしょうか?”

すると数分後、
“先生から聞いたよ。了解!陽菜の伴奏できて嬉しいよ!”鐘から返事が返ってくる。
陽菜はそのメッセージに、胸がどきどきした。コンクールと、鐘というすごいピアニストに弾いてもらうというプレッシャーからだと思っていた。

陽菜は気が付いていなかった。これが、陽菜の世界がさらに鮮やかになる、鐘との旅の幕開けだと言うことに。



陽菜、美玲、冬真はいつものテーブルに座っていた。学校で会うのは今期最後だろう。そのまま夏休みに入り、みんな実家へ戻る。
「陽菜♪コンクール受けることになったんだよね♡」と美玲。
「はい。私成績も平均点くらいなのに……コンクールなんて」と陽菜。
「だからだろ。いい刺激になる」と冬真。
「陽菜!ドイツリートのコンクール受けるんでしょ!ドイツリートといえば冬真じゃん!冬真のレッスン聴講しなよ〜♪いいでしょ、冬真」と美玲は言った。
ドイツリートとは、“魔王”や“野薔薇”でおなじみの、ドイツ語の詩に、歌とピアノをつけた曲のことで、詩の表現力が問われるジャンルであった。
「いいよ」冬真は少し嬉しそうに言い、そして続けた。



夏休みが始まり、8月の1ヶ月、陽菜は必死だった。

まず今までにやったドイツリートの中で、コンクールに持っていける曲がなかった。
コンクールのためには、勝負をかけられる曲が重要だった。美玲に“1曲につき100曲”と言われていた。1曲曲を決めるのに、100曲から探すようにと言う意味だった。陽菜は実家に帰っていたが、実家のピアノはつねに陽菜の手によって鳴りっぱなしだった。


夏のホームレッスンの日だった。
学校が閉まるので、特別に先生がご自宅でレッスンをしてくださったのだ。

「うん。いいわね」選曲について先生から許可をいただいた。

正直のところ、陽菜は不安だった。複雑な曲を選んでしまったので、それも大曲だったので、先生にダメと言われるのではないかと思っていたのだ。

陽菜の次の時間は冬真だった。冬真が先生の家に到着する。陽菜はこの日、冬真のレッスンを聴講することになっていた。先生がピアノの前に座り、ピアノに続いて冬真の歌が始まる。

Dein bildnis bunderselig……

冬真の唇から、甘く優しい歌が流れ出す。

シューマンという作曲家の、リーダークラス作品39からの曲だった。

“きみの驚くほど清らかな姿を
僕は心の奥深くに抱いていよう
その姿は清らかに楽しげに
僕のことを見つめるのだ”

陽菜はその歌を聴いて、
こころがきゅうっとなった。
あぁ、愛が深い人なんだな、と思う。

冬真の歌は、深い愛を歌っていた。

発声に癖がなく、音程が微妙なところで外れていない。歌い方にブレがない。歌の中に起承転結があり、楽譜を読み込まれているのがわかった。どう歌いたいのかがしっかりしていた。それだけでない。なんといってもドイツ語の発音がネイティブに聞こえ、素晴らしかった。陽菜は冬真の歌を聞き、とても勉強になったのだった。


今日は“合わせ”の日だった。合わせとは、伴奏と歌がきちんと合うように、また音楽的にも同じ方向性で一緒に演奏するためにする、合奏の練習のことだ。広い練習室をとって、緊張した面持ちで陽菜は待っていた。2重のドアが開き、鐘が入ってくる。
「お待たせ!陽菜」鐘はそう言ってすぐに楽譜を取り出し、準備をした。
「準備できてる?」と鐘が尋ね、陽菜が頷くと、
「じゃあ、とりあえずやってみようか」と鐘は言い、美しい前奏を弾き始める。
鐘の伴奏に、陽菜の陰りを帯びたたおやかな声がのる。音色の美しさで有名な鐘のピアノは、陽菜の繊細な声にとてもマッチした。
鐘との初めてのデュエットに、陽菜は気持ちよく歌えた……わけではなく、合わせるのに精いっぱいで、声も緊張してところどころ裏返ってしまった。
歌い終わったとき、陽菜は、恥ずかしくなり、こんなはずではなかった……と後悔した。
少しの間があって、「うん。えーと。中間部のここはどう持って行きたいの?」とか、「ここは息吸ってる?」といった鐘からの確認が続いた。何度かやりなおして、やっとしっくりとした形におさまる。

「ベルクの七つの初期の歌……いいじゃん。陽菜にあってるよ」と鐘は言った。陽菜が歌う「Nachtigal(ナイチンゲール)」という曲は、その7つの歌の2曲目だった。時代が現代に近い作曲家で、とても複雑で、“ややこしい”音がたくさん出てくる。
「陽菜はさ、普通の子かと思ってたけど、実は複雑なところあるだろ。この曲にすごい合ってる。綺麗だけど暗さがある。」鐘は言った。鐘は陽菜のその秘めた複雑性と暗さを暴いてしまいたかった。陽菜の隠し持っている何かに手を付けてしまいたかった。鐘には陽菜の心が泣いているのではないかと、気にかけていたのだ。
「そうですか、よかったです」隠し持っていた自分の、自分に対する劣等感がちくりと傷んだ。
「陽菜。君は君が思っているよりもっと素敵だよ」鐘は続けて「それに陽菜はかわいいしな」と言った。
陽菜はおどろいた。それは翔くんにも言われたことだ。目に涙が溢れそうになる。
「ごめんごめん!今日はこのくらいにしておこうか」と鐘は明るく言った。



地区大会の日になった。朝、陽菜は鐘とホールへ向かった。演奏時間を書かれた二つ折りの紙をスタッフから受けとった鐘が、
「お。ベルク誰が歌うんだろう?渋いなあ~楽しみだなぁ」と冗談めかして陽菜に言った。陽菜は緊張でがちがちだった。
「陽菜。俺は陽菜の歌が好きだよ。きょうも陽菜の歌を聞かせればいいんだよ」と励まし、鐘は男性の楽屋へ行く。

コンクールは初めてだった。発声練習の部屋が与えられていたが、その部屋のピアノは気の強そうな人が独占していたし、数人がガンガンに声を出していて、声を出すどころではなかった。
陽菜はドレスを身に着ける。美玲が一緒に買いに行ってくれたドレスだ。夜のような藍色に、星が散りばれられたドレス。そして美玲が教えてくれたヘアアレンジを自分でほどこす。

陽菜は四つ葉の栞を取り出してお祈りをした。
翔くん。今日は初めてのコンクールだよ。本当は翔くんに私も弾いてもらいたかったけど、でも翔くんにそっくりな鐘先輩に弾いてもらうよ。見守っていてね。翔くん。

コンクールはすでに始まっていた。客席には、美玲と冬真がいた。

舞台袖で鐘が待っている。緊張した陽菜に、
「陽菜。きれいだよ」翔は言う。
「えっ……」そう言う陽菜の手を翔は握った。
「大丈夫。楽しもう」陽菜は安心感とともに、舞台にあがる。

礼をして、鐘に合図すると音楽が始まる。

“一晩中鳴いていたナイチンゲールのせいだ
甘い鳴き声はこだまし 薔薇のつぼみは開いたのだ”

陽菜が歌うとうっとりと鐘が伴奏をする。
歌いながら、陽菜は自分の気持ちに気が付いてしまった。
「(私、鐘先輩のこと好きになってしまった……)」

熱いデュエットが流れてゆく。
それはまるで……

「(まるで愛し合ってるみたいじゃない)」それを聞いていた美玲は突然感情を抑えきれなくなり、歌い終わりの拍手とともにホールの外に出てしまった。



美玲は泣いていた。コンクール中のホールから出たロビーはほとんど人気がなかった。

陽菜があんな演奏をした。それも、鐘と一緒に。
鐘があんな風に楽しく弾く姿を、美玲は見たことがなかった。

美玲は考えた。陽菜が入学した時、内心なんて汚くて暗い子なんだろうと思っていた。手入れのされていない肌、ぼさぼさの短い髪、適当な服装。なにより人生を舐めているのかと思うほど不貞腐れた様子の陽菜に、暗いのが好きなんだろうなと思ったし、正直そういう人が許せなかった。

「生きるっていうのはね、明るい未来を信じることなんだよ」と美玲はあるとき陽菜に言った。
その真意は、自分は不幸でも何でもないくせに悲劇のヒロインぶってるあなたが許せないという意味だった。美玲のそういう言葉を聞き陽菜は変わっていった。可愛そうな子を助けてあげる自分ってなんていい人と思っていたし、周囲によく思われたい気持ちで陽菜によくしていたところがあった。

「(陽菜があんな風に歌うなんて)」美玲は焦りを感じていた。陽菜がついに、美玲の耳からしても素晴らしいと思える演奏をしてしまった。美玲は陽菜が、自分にはとうてい及ばないという自負があったし、だからこそ陽菜に色々アドバイスをしていた。美玲は打ちのめされていた。

すると冬真が追いかけてきた。
「美玲先輩……」冬真は言う。

「あはは。恥ずかしいところみられちゃった」美玲は涙をぬぐった。陽菜の歌に感動して涙したようには、冬真には見えなかった。

「どうされたんですか?」冬真は言った。

「どうもしない!えへへ」美玲は答えた。

「陽菜の歌に悔しかったんですか?それとも別の事情ですか?」冬真は畳みかける。

「えへへ……ほっといて?」美玲は言う。美玲は自分を保つのに必死だった。しかし図星で、この夏美玲は鐘に告白をして振られていた。鐘はほかに好きな人がいると言った。それは、陽菜のことなのだろうか。

「大丈夫じゃないでしょう?」冬真は言う。冬真も美玲が振られたことを知っていた。

「……ほっといて?優しくしないで?あたしのこと好きなのかもしれないけど、冬真は本当のあたしなんか知らないじゃん。そうだよ!完璧なあたしは完璧な鐘と一緒にならないといけなかったのに。そう、利用しようとしただけ。陽菜のことも自分の株をあげるためによくしてただけ!でも陽菜に負けたの。私みたいなやつは放っておいて!」とだんだんエスカレートしてくる。

「なんでだよ……俺じゃダメなのかよ……美玲さん。
本当に計算だったんですか?本当に?
そんなわけがない。陽菜が成長したのは、あなたのおかげです」冬真は戸惑いながらも美玲を抱きしめ、美玲はそれを拒まなかった。

その日、陽菜は地区大会を突破し、東京で行われる全国大会の切符を手にするのだった。



《旅立ちの章》へ つづく